Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

飛び出すチャリは避けられない。

《子どもをおんぶして自転車に乗った女性が信号待ちの車をすり抜けてセンターラインを越え、反対車線を走ってきた車と接触して転倒、おんぶの子ども死亡、運転手逮捕》という痛ましいニュース、自転車に乗っていた女性に対する非難の声が多くて驚いた。女性を庇うつもりはない。逮捕された人も気の毒だとも思う。それを承知のうえで僕はこの事故のような危険が放置され続けていていたことも問題だと思ったのだ。非難の矛先が集中していることに少しだけ違和感を覚えたのだ。

 
 
所定労働時間のほとんどを営業車で外回りをしている僕にはこのニュース、他人事には思えなかった。二十年近くになる営業生活で同じような自転車の飛び出しに遭ったことは何度もあった。おそらく十数回。接触して人命や怪我に繋がるような事故にならなかったのは運がよかっただけ。間一髪の急ブレーキ急ハンドルでたまたまギリギリ避けられただけだ。実際、法定速度を守っていても対向車線の車列から自転車が飛び出してきたら…それを避けられるかどうかは運任せの無理ゲーみたいなものだ。しかも行政が「飛び出し注意」と注意喚起を促すこと以外に有効な手を打っているようにはみえない。そのうえ最近のハイブリッド車や電気自動車は必要以上に静かで自転車サイドが気づきにくくなっており無理ゲー度はアップ。つまりこうした事故は起こるべくして起きているように僕には思えてならない。こうした事故が起きたときは誰かの非を責めるだけで終始せず、自転車側と自動車側双方からこの無理ゲーの無理具合を解消していくことを考えなければいけないのだ。感情的に悪者をつくっているだけではダメなのだ。
 
 
感情的にならず、国民の共同連帯でより良い方法を…こんなリスクだらけの状況が放置されていたらリアリストな現代の若者がますます車から離れてしまうだろうな…などと赤信号待ちで停めた車内でハンドルを握りながら誰よりもマジメに考えている僕に、ババアが運転するチャリが真正面からぶつかってくるのだから神はいない。「クソババア、ナニしやがる」「このヤロー」と怒り狂って車から飛び出すとババアが「怪我はしてないから警察は呼ばなくて大丈夫。気にしないでー」と警察沙汰にする気満々の僕に言い残してシャーっと走り去っていった。なぜ被害者面なのだろう。意味がわからない。そしてボンネットには見事にキズが。
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とりあえず警察には届けたけれどドライブレコーダーを搭載していなかったことが悔やんでも悔やみきれない。絶対に許さない。日常生活を過ごしているうちに、突如、回避不可能な無理ゲーめいた事故に巻き込まれて被害者になりうる、そんな厳しい現実と修理費用に、今、僕は打ちのめされている。(所要時間16分)

会社員の壊し方

20年もやっていると良さがわからなくなってしまうときもあるがサラリーマンはマジで最高だと思う。厚生年金もあるし残業代だって出るし楽しい楽しい社員旅行だってあるときはある。組織で働いている以上、それなりに縛られてしまうこともままあるが、縛られるのはフリーランスや自営業で働いている人とて同じこと。縛られているものが違うだけの話にすぎない。何に重きを置くか。個々の価値観の違いでしかないのだ。


ただ、僕にとっては会社という組織に守られている安心感。これは何ものにも替えがたいものがある。気を付けなければならないのは、組織が壊れたときだ。守ってくれていたはずの組織は守らなければならない厄介なものになり果てる。たとえば僕の勤めている会社がまさしくそんな感じで、他の外食産業の企業と同様に、慢性的な人手不足状態が続いている。団塊世代が退職した穴埋めをせず、ビジョンのない会社に絶望して優秀な若手社員から辞めていき、五月の連休直前に、現場の大学生のバイトたちまでもが逃亡。残ったのはうだつのあがらない小汚い中堅中年社員だけ。


《現場を守らなければクライアントから訴えられて死ぬ》っつー感じで焦った上層部はアルバイトの穴埋めのために高給取りの部長クラスを差し向け、高級取りの部長クラスは総じて動きが悪く時給950円のアルバイト一人分の戦力にならないうえプライドを捨てきれずやたら仕切りたがるので雰囲気だけが悪くなり現場の作業効率と雰囲気は悪化の一途。僕も例外ではなく、この連休は朝4時から某ホテルの現場にヘルプで入り、アルバイトのやっていた仕事をこなして(そのおかげで多分僕は業務用回転釜で調理が出来る数少ないブロガーになれた)、12時に一旦上がり、仮眠と休憩を取ってから午後3時から午後8時まで別の某老人ホームでアルバイトの穴埋めをしている。これで残業代が出なかったらブラック企業当確だけども不幸中の幸いで、午後の仕事は副業アルバイト扱いにはされてしまうが(ウチの会社は副業可能)それなりの手当をいただいている。当該手当が現金払いであるところにある種の闇を感じてしまうが。


連日の15時間労働。ほぼハードな立ち仕事。なぜ僕がこんなことをしているのか?少し前、やりがい搾取という言葉を耳にしたことがあるが、そうではない。僕はやりがいなど微塵も感じていない。ひとことでいうならば、営業マンの性搾取、だろうか。僕がアルバイトの穴埋めに行かされている現場はどれも僕がそれなりに苦労して取ってきた仕事だ。おめおめ失いたくない。客に迷惑をかけたくない。やりがいではなく、そういう営業マンの性が搾取され、いいように使われているのを知りながらあえて僕は使われている。


やっていることの半分くらいは皿洗いなどの単純作業なので慣れてしまえばあまり疲れることもないけれども、最近時々テレビで見かける、人間のかわりに受付を任されているロボ・Pepperの方が今の僕よりもずっと人間的な仕事をしている気がしてならない。寝不足気味で疲労困憊なのは否定できないが心身ともに健康そのものなのが不幸中の幸いだ。僕自身には記憶がないので同僚たちの冗談だと思っているのだけれど、昨日、僕は手洗い場で、白目になり、ううううううううううう、うなり声をあげながら十数分間一心不乱に手を洗い続けていたらしいが、もし事実だとしても疲れているだけだろう。つーか、忙しすぎて悩んでいられない、五月病や鬱を患う暇もないのが実際のところだ。


今、僕を支えているのはアルバイト仲間のN女子大生。JDとお喋りできる環境は得難く、何よりも価値があるのだ。可憐で真面目な彼女の存在だけが僕の支えだったのだけれど、今日出勤するはずの彼女がドタで来なくなってしまったので、僕が休日を返上して彼女の穴を埋める。だってオラは正社員だから。この先の見えない地獄の中で《女子大生の穴を埋める》というエロティックなセンテンスだけが僕の救世主。(所要時間23分)

義父が倒れた。

義父が倒れた。病状については大騒ぎする本人の意図はさておき「たいしたことない」とドクターと本人以外の家族全員が口をそろえて言っているので安心してほしい。とはいえ無視しているわけにもいかないので先ほど、鳩サブレ―を手土産に半勃起する暇もないほどの繁忙期の間隙を縫うようにして隣町の病院までお見舞いにいってきた。

 

お見舞いをお見舞いしようにも世間様は連休のド真ん中、江ノ島電鉄は激烈に混んでいて、車輛内はほとんど揉み合いのようであった。問題は前夜に自分自身を慰めるために服用したフ社製の青いお薬の効き目が残っていたことだ。そのおかげで、おっさん、おばはん、女子高生、可愛げのない子供との押すな押すなの揉み合いの果てに、不能ゆえいささか角度は緩やかではあるものの、ムクムクとオッキッキーしてしまった。ジーパンきっつー。

 

大人の事情で僕自身が「きのこの山」なのか、「たけのこの里」なのか明言出来ずに大変申し訳ないが以降は「きのこの山」で表記を統一させていただく。もし、僕の腰くらいの身長しかない子供のちょうど目の前できのこの山がスパークしているのがバレてしまったら…僕は己の想像に前立腺した。幸い、ロサンゼルスドジャースの帽子を持っていたのでそれを腰にあてて荒れ狂うきのこの山を隠した。ロサンゼルス(Los Angeles)、その瞬間、天使はまちがいなく僕の腰にいた。

 

病室の義父は仕事をしていないからだろうね、むしろいつも以上に健康そのもので、今にも復帰しそうなその姿は僕をひどく落胆させた。僕は昨年の秋から箱職人をしている義父の元で修行している。おしゃべり、お茶入れ、お菓子の買い出し。そんな厳しい修行のなかで箱ライフの将来性の無さに気付くのにそれほど時間は必要がなかった。箱職人ライフに見切りをつけようとしていたところに師匠である義父の入院は渡りに船でしかなかったのだ。退院したら有耶無耶にしようとしていた修行が再開されてしまう。

 

悲しみのあまり僕は今にも涙が出てしまいそうだった。しかし泣かなかった。泣いてしまったら脱力して、きのこの山が噴火してしまうからだ。その一方で、ナースステーションにいたナースさんが想像倶楽部でもお会いできないレベルにセクシーで、僕はこみあげてくる笑いを抑えることが出来ずにもいた。結果的に僕は演技では絶対にできない、泣き笑いの表情をしていたらしく、そんな僕の顔を見た義父は真顔になり望んでもいないのに早期退院とこれまで以上の充実したカリキュラムの箱修行を僕に誓った。「俺は、やるよ」きっつー。

 

意味がないどころか害でしかなかった義父との面会を終え、失意のまま僕は腰にあて続けていたドジャースの帽子を頭に被った。希望の山、きのこの山は跡形もなく消え去っていた。天使はすべてを天国へと運び去ってしまったのだ。(所要時間18分)

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会社で嫌われてしまいとても悲しい。

同僚から嫌われてしまった悲しみが、世間的には黄金週間だが、弊社的には五月病やウツを患うどころか半勃起する暇すらないほどの繁忙期に働き続ける僕の中から消え去らない。黄金週間前の、一年でもっともウキウキする季節にトイレの個室で用を足しているときに自分の悪口を耳にするほど切ないこともないのではないか。「人をバカにしやがって!」「あの嫌味ジジイ」「同じ会社じゃなかったら殴ってる」などと僕を詰る若手同僚たちの声、声、怖えぇ。命が危ない、絶対に存在を悟られてはならぬ。肛門からブブブ音が漏れないよう細心の注意を払いながら悲しみと便意と若手同僚たちをやり過ごした、あの、耐え難い時間を僕は生涯忘れないだろう。


人に嫌われるのは構わない。ただ、僕がバカにするような態度や口ぶりをしたというのは完全な事実誤認なので納得いかない。発言の撤回を執拗に求めたい。なぜなら僕は若手同僚をバカにしたことなど一度たりともないからだ。人をバカにするとは相手を軽んじること。僕は神に誓ってそんなことはしていない。同僚たちに対してだけではなく、今までの人生においていつも全力で真摯に相手に向き合ってきたつもりだ。悪意の塊のような上司。ゆとり世代の後輩。いつも相手のレベルに合わせて真摯に真正面から向き合ってきた。相手の土俵に立つとでもいえばいいのか、相手が優秀であれ、劣悪であれ、対象に合わせた対応をしてきた自負が僕にはある。


たとえば僕はものすごい早口なので、それなりの人に大事な話をするときは意識的にゆっくりと話をするように心がけている。それなりな人には出来るだけ難解な言葉を排し、わかりやすい日本語を使うようにもしている。《きみの…おしごとの…すすめかたは…コウリツテキではないから…あ、コウリツテキではないってわかりやすくいうと、ものすごーくヘタクソって意味なんだけど…とにかく…なおしたほうがいいと思うよー》そのような僕の細やかな気づかいに基づいた話し方や態度を受け取る側が「バカにしている」と感じたのなら残念でならない。


厳しい言い方をすればバカにされていると感じたのなら、それは鏡に映る自分の姿を見るように、己の程度を目の当たりにしているだけなのだ。僕にバカにするような意図はまったくないのだから。しかしそれは言い訳だろう。相手がバカにされていると感じてしまったのならば、自分の失敗を認めたくはないけれども、僕のやり方、対象の評価が間違っていたと認めなければならない。つまり当該人物にミスマッチな対応をしてしまったということだ。不快な思いをさせて本当に申し訳なかったと反省している。反省しているから殴らないでほしい。


解決策としては、当該若手同僚一同をより低く評価し、さらにレベルを落とした対応をしていくしかないだろう。四十才を超えて相手にお付き合いして小学生レベルに落として対応しなければならない僕の苦労も知らずに陰口を叩いてしまえる、そのお気楽さが僕にはうらやましく、たまらなく悲しい。(所要時間23分)

我が内臓

父が亡くなって25年ほどになる。母は結局再婚することなく働きつづけ定年退職し、今はのんびりと楽しい余生を送っている。変わったことといえば、仕事を辞めて余裕が出来たのだろう、一時はタブーだった父の話をよくするようになったことだろうか。「父さんは…」「親子ねえ、あんた、父さんと似てる」というふうに。父のようなブサメンではないと自負しているので、いささか不本意ではあるけれど、平穏な時間を乱すのはイヤなので黙っている。

 

母は父との思い出を楽しんでいるように僕には見えた。言い方を変えれば、それは生きていくうえでの軸とか支えとか拠り所といったものかもしれない。ふと、僕は思う。僕にもそういう思い出はあるだろうかと。あった。僕にとってのそれは、もう随分と昔の話になるが、当時付き合っていた女性から「ああああ。ヤメて!内臓の位置変わっちゃう!変わっちゃう!」と言われたことだろう。仕事をはじめとして人生の様々な局面でうまくいかないとき、僕がどれだけ「内臓の位置変わっちゃう!」という叫び声を思い出して救われただろうか。

 

不思議なのは当該彼女以降の女性からは一切、内臓についての言及がなかったことだ。そして内臓の位置を変えられない雌伏の時代を経て僕はEDを患ってしまった。もう、内臓の位置を変えられないという悲しみは、もしかして僕チンはそれほどではないのかもという現実を目の当たりにしなくてもいいという喜びでもあった。EDですら喜びに変わる。人生はなんて美しいのだろう。僕は人生にかかるすべてにありがとうをいいたい。家族にカンシャ、元恋人にガンシャ、僕はカイシャ、EDカンジャ。

 

五月。父の命日がやってくる。あと数年で僕は父の年齢を越える。これからまた何度も壁や障害にブチ当たるだろう。そんなとき僕を支えるのはあの「内臓の位置変わっちゃう!」という、もう二度と耳にすることはない、祈りにも似た叫びなのだ。どんなにくだらなくてもいい、バカでもいい、独りよがりでもいい、あまつさえそれが現実でもなくてもいい。案外人間を支えるものというのは偉人の人生訓なんかよりも、そういう自分のすぐ傍らにあるくだらねえものなのではないかと、僕は思うのだ。(所要時間13分)

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