Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

初対面の女性からいきなり連絡先を教えられた。

何しろ初めてだったのだ。宗教の勧誘とはいえ、初対面の、それも20歳前後の美しい女性から携帯番号を教えられたのは。「個人の携帯です。いつでも連絡をください」。少し佐々木希に似ている宗教ガールの声はカピカピに枯れた僕の心と海綿体を潤してくれたような気がした。それがちょうど1週間前の日曜日の午後の出来事だ。でも僕は電話出来なかった。すでに結婚をしているから、ではない。仕事に追われていたからでもない。僕はEDだ。彼女に連絡を取って、パンツを下ろさなければならない局面になったとき、股間が静かなること林の如しだったら…。その静かな恐怖はいつも僕から積極性を奪う。いやでも、つって逡巡してるうちに宗教ガールが僕の留守中に我が家にやってきて妻と遭遇してしまう。帰宅するなり妻から報告を受けた。若い女の訪問を受けた。私は恥ずかしい。なぜ宗教ノー!ときっぱりと断らないのか。妻からの一方的な詰問。宗教の勧誘と飛び込み営業はよく似ている。営業畑でやってきた僕には新規開発ノルマを追われる彼女の苦労がわかりすぎてしまって、その理解が同情となり、きっぱりイケなかったのだ。妻は彼女から執拗な勧誘を受けたそうである。「あ、ウチはシューキョー間に合ってますから!」「話だけでも」「ウチには毘沙門天がありますので」「少しだけでも」妻と宗教ガールの玄関先での熾烈な争いはしばし続き、最終局面で宗教ガールは奥義「旦那さんは私の個人携帯を受け取りましたよ」を繰り出したのである。妻は一部始終を再現したあとで「よく考えて。君がてっくす教団で何が出来るというんですか?」と諭すように言った。悲しかった。あらかじめ想定していたことであっても改めて自分以外の人間に言葉で言われるってのは案外、きっつー、なものである。宗教ガールが僕を誘うもの。仮にそれがてっくす教団だったら僕はあらゆる性的な誘いにも揺るがない異教徒として磔にされてしまうのだろうか。教団の基礎を無効化する悪魔として。それともあらゆる人間を招き入れるために緻密に、それでいて誰でも容易に運用できるようシステマチックに作り上げられた性の教典が僕をED地獄から救済するのか?またはEDというだけで信教の自由は認められないのか?確かめるためにはとりあえず宗教ガールと床の上で一戦交えてみなければならないし、腹上死やむ無しの強い決意もあったけれど、目の前で妻がガスコンロに炙って番号メモを燃やしてしまったのでその願いは永遠に叶わない。(所要時間13分)f:id:Delete_All:20161016223049j:image

別居していた妻が帰ってきた。

週末婚なのか、それとも、ただの終末への助走なのかわからない。ただ、確実に言えるのは断続的な別居生活が突然終わったということ。今はいつまで続くのかわからない平穏な時間を過ごしている。他者と関係を築き、維持していくためにはある種の無関心が必要だと僕は思う。分かり合えやしないことを分かり合うしかないのだ。ポジティブに諦めること。期待しすぎないこと。妻と別居しているとき僕はひたすら前向きだった。床を相手に格闘したり終日果てるまで動画を試聴したり、妻がいるときには絶対に出来ないことに積極的に取り組んだ。結婚していいことなど数えるほどしかなかったけれども、その中でも心の奥底から良かったー!ラッキー!と胸を張れるものの一つが女性向けランジェリーのカタログが日常にあることだった。ああ、憧れのピーチジョン!僕のランジェリーへの憧憬はカタログを越えて実物ランジェリーに到達。気がつくと僕は、灯りを抑えた部屋の中心で、ブランドはピーチジョンかしらん、ピンク地に黒い淫靡なビラビラの付いたブラジャーを着用し立ち尽くしていた。特別な感慨は無かった。ブラジャーの中のスカスカの空間が妻の不在を僕に思い出させただけだ。満たされない気持ちは千の風になって下半身に向かっていた。驚くことに女性向け下着は上下一対でワンセットになっているらしい。ピンクと黒のパンティーを履いて蜷川実花ワールドへヘビーローテーション、その甘美な誘惑を押さえつけるのは世界中のどんな独裁者でも無理だろう。しかし布が少ない。ほとんど紐。役立たずの僕のきのこの山がはみ出すのは不可避。きのこの山、上から出すか、横から出すか。いずれにせよ、はみ出してしまったらはみ出す前の自分には戻れない。一瞬、躊躇するが自分を取り戻す。大事なのは自分の生きたい人生を生きること。ありのままの自分になるの少しも寒ないわレリゴーレリゴーとアナ雪も高らかに歌いあげていたではないか。僕はパンティーを履いた。締め付け、きっつー。部屋の角をポールに見立てポールダンサーの如くくねくね踊り狂う僕の背中の方から「寒っ…」という女性の声…。あれから数日が経ったけれどもおかげさまでまだ通報されてはいない。親しき仲にはある種の無関心が必要なのだ。ランジェリー無断拝借の件はまだ許されていない。そもそも許しなど要らないのだろう。そう。許しなんか要らないのだ。許し許されのギブアンドテイクであればあるほど関係は脆くなっていく気がする。勝手に僕のステテコを履いている妻とはおあいこではないかと思うけれども、それこそギブアンドテイクの関係性を相手に求めることになるし、そもそもはみ出しきのこの山の立場でそれを指摘するのは躊躇われる。(所要時間14分)

「聖域なきリストラ」という名の地獄

会社、女子大、PTA…あらゆる組織に『聖域』は普通にあるものらしい。それこそ空気のように。今、その聖域とやらが僕を悩ませている。2ヶ月前よりトップダウンで事業全体の責任者になり聖域なきリストラの断行を命じられている。ボスの言うことを信じるならば彼は社員を解雇したことがない。「社員は会社の財産」が口癖のボスは、目を付けた社員を間接的にいたぶり自分から辞めていくように仕向けていく心優しい人だ。ビバ自己都合退職!嫌われたくないから己の手で部下の首を切りたくない。されど会社はヤバい。ならば適当な外様に返り血を浴びる汚れ役を任せればよいではないか。そこで登用されたのが僕だ。おかげで僕は同族企業でリストラを行うことの難しさに直面し頭を抱える日々を送っている。よくよく考えてみれば「聖域なき」というフレーズは矛盾している。なぜなら、すでに聖域の存在を前提にしているからだ。聖域がないのなら「聖域なき」というフレーズが生まれる土壌はない。しかし、それでも僕はボスの言う「聖域なき」を信じた。わざわざ肉声で聖域なきリストラを掲げたのだ。信じるしかないだろう?ボスの言葉を信じた僕はボス親族をリストラ対象にリストアップ。ウチはガチガチの同族経営である。今思えばテロすぎる。他意はない。純粋に使えないボンクラ・トップテンを挙げたらボスの血が流れていただけだ。そのデスノートを見たボスの「彼らは対象外!」という一喝で僕は聖域の存在を知った。ボスは「『聖域なき』と言わないと暴動が起きて収拾がつかなくなるから経営者は仕方なく言ってるけどあるに決まってんじゃん聖域」と教えてくれたのだ。こうして表向き聖域のないリストラは始まった。通常、同族経営のリストラが難しいのは、ダメな同族が重要ポストを押さえているから、と考える人が多いのではないか。違う。本当に激ムズなのは使えない同族が本来なくてもいいポストに就いて遊んでいるからだ。何もしないから失点やミスがない。馬鹿×無駄イコール無敵。結局、真面目に事業を回している社員をリストラ対象にしなければならなくなる。仕事をしていればミスやしくじりもある。今、僕がやっていることは仕事をしない人を切ることではなく、やっている人のやっているが故に起きてしまうミスやしくじりの収集。きっつー。スタッフのほとんどはいい人達で、突然重責を負うことになった僕の心身を想って「いい性格してるなー」「会社の犬」「裏切り者」「見た目パッキャオのくせに」と声をかけてくれる。ありがたいことだ。こうした発言は今回のリストラ評価に影響しないけれども全てが終わったら、僻地や赤字壊滅事業所への異動という形で報いたいと思う。偉い同族は切れないし無駄な同族はミスをしない。仕事をやっている社員はよくやっている。僕は《人員削減はまったく進んでおりません》という中間報告をボスに上げた。「仕事をしていない人間は必ずいる。そいつが第一対象になる」「色々理由をつけて仕事を遂行しない人間がいるだろう?」ボスが笑う。うそーん。ボスがリストラしたいのは僕みたいだ。薄々気づいていたけれど、僕も聖域サイドではなかった。くっそー。立たないインポの分際で、という批判を承知の上で言うが、今の僕の心境は立つ鳥跡を濁しまくりん。(所要時間16分)

起業のために大学を辞めた君を僕は信じてる。

大志を抱いて大人たちに逆らって挑戦する若者たちのしくじりを目にするのはいつも悲しい(^ ^)。やりきれない。歴史は繰り返されるものでございまして、レールのひかれたツマラナイ人生を拒絶して起業のために大学を中退した石田君(仮名)が居候先の大学生から追い出されるという悲劇が起こってしまった。きっつー。追い出された理由は、ダーイシがグータラしていてエナジーを感じられないし家事もやらないから、らしいがそれが家主大学生の主観的な観察結果にすぎないこと、「それ見たことか」の大合唱が僕をますます悲しくさせた。世間は石田君(仮)のスタンスに対して懐疑的であるが、僕は彼がただグータラしていたわけではないと推測している。僕は彼が完全ノープランで中退したとは思っていない。プランやアイディアというものは表に出した時点で陳腐になり模倣される。彼はそれを避けるために表面的にはノープランを装っているだけだ。もし、そうでなかったらただの阿呆な若者ではないか。そんなことはありえない。これはまだ確証を持てずにいるのだが、石田君(仮)は天才なのではないかと思い始めている。天才は規格外、時に一般人の理解を超えてしまうこともある。起業を目指して居候をするならば、普通の人間なら、人の目を気にして仕事をしているフリをしたり炊事洗濯掃除を率先してやろうとするもの。実際、凡人の僕は今の仕事に就くまでの空白の数ヶ月間、必要以上にエネルギッシュに家事をやったり仕事探しをして家族へアッピールしたものだ。そういうことをせずにグータラしているダーイシは理解を超えた天才なのではないかと思い始めている。そのグータラも怪しい。「グータラしていた」という観測はあまりにも主観が入りすぎていやしないか。実際は違う。僕は考える。かの有名な外山滋比古先生もかつて著作でアイディアを寝かせることの重要性を説いておられたが石田君(仮)もそれを実践していただけではないか、と。

思考の整理学 (ちくま文庫)

その実践の仕方が愚直すぎて傍目から見るとグータラしているようにしか見えないだけなのだ。そう。石田君(仮)は何もしていないのではない。その頭脳の中で事業アイディアを寝かせ、熟成させているのだ。もし、寝ているのがアイディアではなく本人だったら…、いや、まさか、そんなことはありえないけれども、ただのボンクラということになってしまう。石田君(仮)は理解が得られずに無念の極みだっただろう。後ろめたい気持ちがあったのだろうね、追い出した大学生もアイディアを寝かしている石田君(仮)の頭脳活動に薄々気づいていたからこそ厳しい言葉を浴びせられなかったに違いない。石田君(仮)は僕ら一般人の理解を超えた場所にいる。それを批判をしたり非難するのはナンセンスというか時間の無駄なので各自自分のために時間を使った方がいい。どんな人生を選ぼうと本人の勝手だけれどもその選択した場所で何もやらなかったらどこへも辿り着けないし何者にもなれないのは間違いない。石田君に限ってそんなことはないと安心しているけど、他人の選んだ人生をレールのひかれたつまらないものと決めつけて道を外れた人が、簡単にレールに戻れるほど世の中が甘くないことだけは忘れないようにしたい。頑張れ石田!(所要時間14分)

プロ小説家志望の独身中年ニートから夢を追い続けることの大切さを教えられた。

20年。僕のサラリーマン生活も随分と長いものになってしまった。決して短くはないサラリーマン生活を送るうちにいつの間にか忘れてしまった《夢を見ることの大切さ》をある一人の中年ニートが僕に教えてくれた。告白しよう。僕は夢を追うという名目でマトモな生き方をしない人が好きではなかった。軽蔑すらしていた。しかし僕は間違っていた。夢を見ること、追い続けることは決して悪いことではない。認めたくないが自分の社畜ゆえの誤ちと言うヤツだ。そんな偏見で凝り固まっていた僕の目を覚まさせてくれた中年ニートの彼にはもう会えない。

 

 彼…太宰君とは、プロ志望のガチから僕のような暇つぶしまで、様々な人が参加していた文章講座で出会った。太宰君の本当の名前を僕は知らない。文豪の太宰治に似ているわけではない。文学的才能、無頼感、洒落っ気その他才能的なものを取り除いた後に残る身勝手さや女々しさといったネガティヴな要素が太宰治に少し似ていたので勝手に名付けさせてもらった。話は逸れるが書くことで食べていこうと考えているのなら文章講座は有意義だ(僕はスポット参加だったけれども)。第三者に自分の文章を見てチェックしてもらい、仲間と切磋琢磨するのは実に有効だ。オススメである。そこで太宰君と話をするようになったのは気が合ったからではなく、たまたま似たような中年男性だっただけである。

 

先日。人身事故で足止めされた僕らは喫茶店で話をした。にわかには信じがたいが、太宰君は高校卒業以来四半世紀、1秒も働いた経験のない完全体ニートである。「どうして働かないの?」と僕が訊ねると太宰君は「プロの小説家になるためさ」と胸を張り、講座の担当であるホニャララ先生に講評していただけることの尊さを僕に説いた。《ホニャララ先生は素晴らしい、僕はホニャララ先生に評価をいただくことに生活のすべてを捧げている…》。

 

僕はふつふつと湧き上がる疑問を口に出してしまう。「先生の評価を貰うのはあくまで過程だよね?《プロになるため》にすべてを捧げるのならわかるけど…」僕には手段と目的を取り違えているように思えてならなかったのだ。「そんなことはない。君は文学界を知らないからそういうことを言うが先生から評価を得ることはプロ小説家になることと同義なんだよ」「なるほど。僕が間違っていた」サラリーマン生活で短期的な結果を求め慣れた僕は己の非をまとめた。後日、当該講座からのプロ作家輩出がゼロという事実を知ったとき、悲しかった。それでも夢があればいい。夢が無くなったとき人は死んでしまうのだから。

 

「しかしまったく働いたことがないとは剛毅だね」「働いているよ。世帯としては」聞くところによると年老いたご両親が働いているらしい。定年を迎えておられる父上はシルバー人材センターから派遣されて、母上は…いや、これ以上はやめておこう。辛すぎる。「自分の人生だろ。もう少ししっかりしなよ」「してるさ」「どこが」「両親から頂いている小遣いの中からきちんと国民年金保険料も支払っている」と彼は続けた。きっつー。厚生年金保険料を自力で払っている僕になぜ自信満々でいられるのだろうか?

 

根源的な問題に触れてみた。「働きながらでも小説家は目指せるよ。ほとんどのプロはそうなんじゃないかな?」すると太宰君は悲しげな目をして「僕はそれほど器用な人間ではない」と吐き出すように答えた。しかしどれだけ腐っても四半世紀、25年だ。それなりのものが書き上げられているはずだ。「まだひとつもモノに出来てない」と太宰君はケロリと言った。太宰君の言い方をそのまま拝借すると、自分が書く小説は名作でなければならない。名作というものは滅多に降りてくるものでない。四半世紀の間、自分は降臨を待っている。証明は出来ないが己の中で名作が熟成されているのを日々感じている、らしい。「僕はね。女性を知らない」「それが?」「つまりピュアな感性を維持しているということさ。ピュアな感性が必ず名作を紡ぎ出してくれると確信している」きっつー。

 

昼過ぎまで寝てお菓子を食べながらワイドショーを視聴する25年間(童貞)がこの地上に何を生み出すのか、非常に興味深いところだ。しかし、突き詰めれば技術と努力と経験不足を「降臨」という言葉で誤魔化しているだけではないか。親身ではなく悪意から僕がその点を指摘すると太宰君は「いろいろな生き方がある。君と僕は違う線路を走っているだけで、どちらが正解というわけではない」と言うので厳しく「具体的な目的のない線路は廃線になるだけだよ」と言った。「君のように目的のない人生が廃線になるのは仕方のないことだ」と太宰君は冷酷に答えた。廃線は太宰、君のことなんだが。

 

将来的な展望を聞いてみた。「名作なら100万部売れるはずだ」と彼は言った。その前提としてお笑い芸人になることが必要ならお笑いの道に踏み出したって構わない…とナメた発言もしていた。「あのさ」「何?」「25年で一作もモノにしてないよね」「降臨が…」「処女作が明日降臨するとしても周期でいえば次は25年後、68歳の時だ。親が亡くなったあとどうやって生きていくつもりだい?」僕は太宰君の気持ちを折るつもりで強く言った。

 

すると彼は「アイハブアドリ〜〜ム」と軽薄な感じで答えた。「アイハブアドリ〜〜ム」涅槃でキング牧師が泣いているような気がした。「サラリーマン人生で豊洲市場の地下空洞のように虚無的になってしまった君に教えてあげましょう。人間はね。他に何もなくても夢があれば生きていける生き物なんですよ。夢さえあれば。僕はね。人生を賭けてそれを証明してみせますよ」永遠の証明…。絶望している僕に追い討ちをかけるように「まもなく降臨する僕の名作にご期待ください」と彼は言った。彼の声は僕に打ち切り漫画の《先生の次回作にご期待ください》を思わせた。果たして次回作のある人生がどれだけあるだろう?

 

「僕も大人だ。両親が亡くなったときのことはちゃんと考えてますよ」「ホントに?」「そのときは生命保険が僕に支払われることになってます」斜め上の意味で彼はちゃんと考えていた。《安心してください。入ってますよ》という彼の駄洒落を笑う気力は僕には残されてなかった。僕たちはそれきりで別れた。彼の名刺は捨てた。《プロ小説家》という肩書きがキツすぎたからだ。

 

人は夢があれば生きていける。夢さえあれば。彼は人生を賭けて僕に教えてくれた。彼は正しい。夢だけを見ていれば現実を直視しなくて済む。夢を追う人たちにはどうか夢だけを見て邁進して欲しい。現実を直視することなかれ。現実を目の当たりにして公共交通機関にダイブして、真っ当に生きている人に迷惑をかけることだけはやめて欲しい、そう願うばかりだ。(所要時間40分)