Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

パワハラ野郎と呼ばれて。

かつて、一度だけど、パワハラで訴えられたことがある。数年前、僕がまだ会社員の頃の話だ。そのパワハラは意味不明だった。僕をパワハラで訴えた人は、当時ヘッドハンティングでやってきた管理職女性で、意味がわからない理由は、仕事でほとんど接点のない彼女、挨拶をのぞいたら会話らしい会話をしたことのない彼女が僕をパワハラで上層部に訴えたからだ。この問題は、彼女自身が、メンがヘラヘラを原因とした不可解な行動で失脚し会社からいなくなったこと、「あのさー。こういう訴えが出てくること自体がメンド―なんだよね。とりあえずパワハラって認めておいてよ」というボスの鶴の一声で、ペナルティこそ課されなかったが、僕がパワハラを認めたということにして一応解決ということにはなっていた。だが、あれからの数年間、僕のなかでは、意味不明の部分、つまり僕がなぜパワハラで訴えられたのかという疑問は、心の片隅にありつづけていた。その謎がついに、ついに、ついに解明された。昨日。かつての同僚とお茶をした際、僕のパワハラ認定の話になった。当時、僕とは違うセクションに在籍していた、とある女性社員が(この方はヘッドハンティングされてきた女性とは別の人である)、異動と異動先の仕事内容を不服としてモメていたらしいのだが、突如、「私、来月結婚することになりました。さようなら」といって、退職することになった。その事情の一切を知らなかった僕は、ちょうど、社内懇親会の会長兼経理兼パシリを任されていて、懇親会の規定どおりに結婚に対するお祝い金を彼女に出したのである。お茶を飲みながら同僚はいった。「キミのその行動が問題だったんだよ」。意味がわからない。規程どおりにお祝い金を出すことがなぜパワハラに繋がるのか。むしろ喜ばれるのではないか。話は摩訶不思議な方角へ飛んでいく。寿退職を宣言した当該女性社員も、不安定な人だったらしく、結婚退職を宣言して、社内で「私、結婚するんです」「○○ちゃんも幸せになれるよ!」などと誰にも求められていない宣伝活動をしたあとで、突然、結婚は嘘でした、本当は辞めたくない、今の仕事もやりたくない、自分のやりたい仕事だけやりたい、とメンがヘラな言動をはじめたのである。そこに、事情を知らない僕が「おめでとう。幸せになってね」とアホ面を下げてお祝い金を渡しに行ったのがことの発端、よろしくなかったらしい。知らんわ。で、その女性社員が「私を追い出そうとしている悪い人間が会社にいる。しかもそいつは絡みのない営業課長の分際で、手切れ金一万円を持ってオメデトーつって笑ってる。絶対に許せない」と僕の知らぬところで一方的に憎悪の炎を燃やし、ヘッドハンティングされてきた意識高めで、いち早く、社内で存在アッピールしようとしていた管理職女性と「あの男だけは許せない」「不当労働行為よ。戦いましょう」と意気投合して、僕をパワハラで訴えたというのが事件の真相であった。僕、関係ねー。アホすぎる。世の中には意味不明のままでいいこともあるらしい。永遠に意味不明でオッケー。自分の力が及ばないことってのはよくあることなのはわかっているけれども、こんなバカバカしいことで査問にかけられ、下手をしたら会社員人生が終わってしまったかもしれないのだから、たまらない。皆様におかれましては、くれぐれも情緒不安定な人の取り扱いには気をつけていただきたいものである。寿退社をほのめかした彼女は、まだ健在で、今でもときどき結婚詐欺を繰り返しているらしいが、周りも慣れてしまって「ハイハイ、結婚結婚、今度の相手は誰でちゅかー」と言われる始末、その効果は減退しているらしい。まさに付き合いきれん地獄。辞めてよかった。ずっと「パワハラ野郎」という汚名をそそぎたいという気持ちはあったけれど、今は、もう、本当にどうでもいい。(所要時間18分)

世界でいちばん悪い夏が僕を救ってくれました。

もし、大人になる瞬間というものがあるとしたら、それは進学や就職といった人生の節目を経過したときでも、異性とのホニャララを経験したときでもなく、「夏が長いやと感じたときではないか。その瞬間をいつの間にか越えていたことに、少しばかりの寂しさとともに、後で気付くのだ。先日、いつまでも夏が終わらないでほしいと祈っていた、あの頃の自分を思い出す出来事があった。梅雨明けを予感させる7月の午後の野球場。夏の高校野球県予選。グラウンド整備の合間、「そういえばホームランって打ったことないや」とスコアボードの上に広がる青い空を眺めていて、ふと、今はもういない一人の教師のことを僕は思い出していた。僕の通っていた高校は県立の進学校で、良くも悪くも勉強ファーストの世界だった。僕のような勉強の出来ない、愛想も良くない生徒が教師の皆さまから良く思われることはほとんどない。こんなことがあった。生物のテスト。どうしても埋められない空欄の前で悶えていると教師様から「何でもいいから空欄を埋めろ。何も書かなかったら可能性はゼロだぞ」と声をかけられた。ピュアな僕は、世界史のテストに備えて「カノッサの屈辱」と書き、猛烈に怒られた記憶がある。怒られた事実は覚えているが、細かいことは覚えていない。きっとたいした話をされていないからだろう。どうでもいいことはどうでもいい。そういうものだ。その高校に、一人、僕みたいなボンクラの数少ない長所を見てくれる教師がいた。その国語教師とは現代文と古文の授業でしか顔を合わす機会がなかった。その高校は【補習】と称し、夏休みの間も半強制的に予備校みたいな受験対策授業を行っていた。当時受験シーンに登場したばかりの小論文、その対策講座に僕は参加して、その担当がその教師だった。与えられたテーマに対して時間内に文章を書く。遊びみたいな授業。これでイリーガル夏期授業のノルマを達成できるなら…そんな軽い気持ちだった。小論文のルールも知らない。真面目でもない。やる気ゼロ。そういう適当を見透かされたのだろう、突然、国語教官室に呼び出されて、その教師から「お前の文章メチャクチャで受験じゃ使い物にならないけどバカバカしくていいよ。受験は難しいけどそのままでいけよ」と言われた。褒めているのか、バカにしているのか、フィフティーフィフティーってところだけれども、平々凡々な学生時代を通じて教師に褒められたのはそのときが最初で最後だった。プール脇の分校舎にあった国語教官室。そのときその二階から見えた青い空とスコアボードは26年という時間を越えて完璧に重なって見えた。正しいとか、間違っているとか、そういうテストでしかはかれないような尺度だけで物事を見ることが全てではないと教えてくれたその人に僕は少なからず感謝している。彼は僕が教師ではなく先生と呼ぶ数少ない人間の一人だ。1991年。レッチリの「ギブ・イット・アウェイ」がFMラジオから流れていた夏。僕も、先生も、まだ何の罪も知らなかった。僕は何も知らないガキだった。先生はまだ犯罪者ではなかった。卒業したあと、「今すぐテレビを見ろ」と先生の逮捕を教えてくれた友人からの第一報で見たワイドショーで、あの、離れにあった国語教官室から卑猥な写真とVHSテープが発見されたと知ったとき僕の胸に去来したのは、子供に手を出してバカだなあ…先生は変態だったのか…という野次馬めいた感情と、先生は正しいとか間違っているという判断が出来ない人間だったのか、というある種の絶望だった。僕は分別のある大人から、そのままでいけよ、と褒められたと思っていたのに…。自分を褒めてくれた数少ない人間が、変態犯罪者だったというのも事実だが、僕があの言葉に救われたのも間違いようのない事実なのだ。あの、変態な写真とビデオテープに囲まれた嘘だらけの教官室で、あの夏、僕にかけてくれた言葉だけは嘘でなかったと僕は信じている。教師を辞めた先生が今どこで何をしているのか僕は知らない。もう会うこともないだろう。僕の中で先生は死んだのだ。僕を生かしてくれた言葉を延命させるために僕は先生を殺したのだ。言葉が神であり続けるために。金属バットに硬球が当たるカーン!という僕の好きな音がした。ライン際。ファールかフェアか。真夏の日差しが白く、ラインに跳ねて、僕のいるスタンド席からは見えない。ホームベースからみて90度の角度内にフェアゾーンはある。その狭いゾーンのなかにボールが落ちるように僕らは祈りながら生きている。エロい格好をしたギャルをガン見しないように。ファールになりませんように。痴漢冤罪にならぬようつり革から手を離さないように。フェアでありますように。「そのままでいい」という言葉が救済の言葉で在りつづけるのか、呪いの言葉になってしまうのかは僕次第だ。僕に出来ることはフェアゾーンに強い打球を打ち返すだけ。フェアゾーンに飛べばそれが凡ゴロだろうがキャッチされようが抜けようがたいした問題ではないのだ。フェアゾーンの中で他人の評価など気にせず好きなようにやればいい。そのことを教えてくれた先生とあの熱すぎた夏を、大人になった僕は、これからも人類史上もっとも暑い夏から振り返ることだろう。(所要時間23分)

あの夏、いちばん静かな罪

たぶん僕たちは、インターネットに魅せられ、引き裂かれた最初の世代で、Rちゃんはインターネットで僕の心を引き裂いた最初の女性だ。Rちゃんと初めて会ったのは18年前、1999年の夏。取引先主催の夏祭り(強制的に模擬店をやらされた)で少し話をしたのが初めての会話。「焼き鳥ください」「ウチの会社の新人さん?タレにする?塩にする?」「タレでお願いします」「ごめん塩しかないんだ」今だから言える。そのときの塩対応が僕の第一の罪だったのだと。当時、僕は新卒4年目の営業マンで20代半ば、Rちゃんは高卒で入ってきたばかりの経理ガール18歳。職場では交通費の精算で週に1回か2回、顔を合わせるくらいの関係でしかなかったけれど、僕は彼女の、長めの前髪をヘアピンでとめて露出したおでこが醸し出す妙な色気に、いつしかノックアウトされていた。お近づきになりたいというピュアな気持ちから、ナメクジのようにジリジリと接近をはかり、数日で当時若者のあいだでマストになりつつあった携帯のアドレスをゲットすることに成功した。赤外線ピピピで連絡先が交換できるようなスマホや、SNSもない1999年において、キャバクラ嬢とお袋以外の女性からメールアドレスをゲットするということがどれだけ重いことか、今の若者はわからないと思う。あの、アドレスをゲットした夜の、フルチンで真夜中の街を疾走したい気分を僕はもう味わうことはないだろう。毎晩の僕の無難なメールに対する翌朝のRちゃんの返事。「そうですね」「いいですね」「またこんど」きっちり5文字。通信ヤリホサービスのなかった時代。無駄に通信費を使わせないように、という彼女の気づかいが嬉しかったのを今も昨日のことのように覚えている。事件が起こったのは、ノストラダムスの予言が外れたことが明らかになった1999年秋。いつものようにメールを送ると、Rちゃんからすぐにメールが返ってきた。嬉しさでメールに飛びついたあのときの自分を恥じたい。「ヤス君のところの先輩のフミコさんから毎晩しつこくメールが送られてきて困っちゃう」今、思い出すだけで憎らしさと切なさと心細さで涙が溢れてしまいそうになるけれど、そんな文面だった。別の世界の出来事と思いたかったが、営業部にヤスという後輩はいた。シグナル赤。僕。そのまま大人の男の余裕を見せてスルーしようかと思った。水洗便所のように水に流そうと。どんなにしつこくこびりついたウンコでも何度も水を流せば、綺麗さっぱり消えてピカピカの便器になる。いつかは。だが、このメールは消しても僕の心のメールボックスから消えることはないとわかっていた。どうしよ、どうしよと躊躇しているうちに次のメールが送られてきた。「本当にキショイからなんとかしてもらえないかな」。生き地獄だ。何かのミスで僕のアドレスがヤスの名で登録されているらしい。僕は涙でぼやける画面に苦労しながら一字一句間違えないようにして、事実をRちゃんに伝えた。「君は君がメールしたくない人間に今メールを送っています」。メールは返ってこなった。その後、経理で顔を合わせても彼女はいつもと同じように微笑んでくれた。それがかえって惨めで、そのままRちゃんと会話することもなく別の理由で会社を僕は辞めてしまった。きっとあの子のケツは醜い魂と同様にブツブツで汚いにちがいない、そう思い込むことで僕は彼女を記憶の底にとじこめたのだ。何年か経った2006年の秋頃、30代になっていた僕に突然Rちゃんが電話をかけてきた。今すぐ会いたいという。「キショイ私に何か御用でしょうか」僕の大人な対応にひるむことなく「生命保険で働いているんです。話だけでも」とRちゃん。ふざけるな。バカにしやがって。純粋で熱を伴った激しい憤りが僕の全身を駆け巡ったけれども、お下劣雑誌で読んだ真偽不明のエロ生保レディのマクラ営業の記事がどうしても頭から離れず、僕らは数年ぶりに会うことになった。面白くもないマニュアル通りのセールストークを聞かされ、mixiフレンドになった。僕が正式に保険加入を断ると同時にmixiもブロックされた。僕は祈った。ブツブツ汚いケツと共にインターネットの底に沈んでいてくれ、二度と僕の前に現れないでくれと。それから10年経った2017年夏。会社を辞めて不惑を迎えた僕のもとに三たびRちゃんが現れた。Facebookで僕を見つけたらしい。会いたいという。LINEでフレンドになり、やり取りをしているうちにわかったのは、生保は退職、未婚、髪型は変わったけれどケツはブツブツじゃない、ということ。信じがたいことだが、18年前に僕を地獄に突き落とし、焼きつくしたあのメールがミスではなくワザとやったことだということ。なぜそんなことをしたのか、なぜそんな秘密を今さら明かしたのか、そして今、何を企んで僕の前にあらわれたのか。一切は謎。何はともあれ悪い予感しかないので、LINEでお断りのメッセージを送っているけれど、既読、既読、既読の二文字がスマホの画面に浮かぶばかりで沈黙を守っているのが不気味だ。そう。ヤスは関係なかったのだ。僕はあのメールのあとヤスに少々キツく当たってしまった。僕の理不尽な厳しさに驚き、目を見開いたヤスのあの表情。ヤスとはあれ以来疎遠になってしまった。僕は18年前に犯した己の罪を償うために三たび魔女と対峙しなければならない。彼女を見極めるために。ノストラダムスの夏がはじまる前の、あの、魔女を知らなかった頃の自分とヤスを取り戻すために。(所要時間25分)

それでも家を貸しました。

かつてパーッ!と使ってしまった100万円が、今、財布に残っていたら。そんな後ろ向きな考えをするようになったのは僕の失業が7か月目に突入したからだ。後先考えずにあんな大金をつかってしまうなんて、狂っていたのかもしれない。夏になると庭いじりをする祖父の姿を思い出す。元旦に生まれた祖父は震災の約一週間前ヒナ祭りの日に百歳で死んだ。亡くなる前年の夏まで足腰はしっかりしており、ロッテ・オリオンズの野球帽をかぶってシャカシャカ街を歩き回る姿は、僕に、永遠に生き続ける鬼や、すでに死んでいるゾンビを連想させた。ゾンビマンは庭いじり中に大きな石を持ち上げようとして、バランスを崩し、倒れ、急速に衰えはじめる。あっという間に通院からの入院コンボを決めてしまう。衰えていく祖父は、死に直面して達観した人間のような静謐さとは正反対で、喧嘩別れした親戚や、金を貸したままになっている飲み友達をやり玉に挙げてボコボコ。やり玉に挙げられた人たちが全員天国組で刃傷沙汰になる心配がないのが不幸中の幸い。祖父が悪口で自身を奮い立たせているのがよくわかった。その無理矢理に元気な姿に、僕は祖父の最期がそう遠くないと感じたのをよく覚えている。祖父が帰ってくる日に備えて100万かけて家の風呂をバリアフリー仕様にリニューアルした。《家の風呂にもう一度入る》祖父と家族の願いは叶う。祖父は一度だけ家に帰ることを許された。今でも不思議なのだけど、病院でほぼ寝ていただけの祖父は、以前と同じように風呂に入ったのだ。じゃ、風呂浴びてくるわ、つって、風呂ってるのが自然すぎて、家族の全員が介助を忘れてしまう。奇跡というのは、気が付かないうちに、自然と、さりげなく起こってしまうものなのだ。案外。「ありがとう気持ちよかった」それだけを言って翌日祖父は病院に戻り病院のベッドの上で死んだ。祖父は亡くなる前日、叔父の前で頭を下げ、「俺は明日死ぬ、本当に今までありがとう、みんな元気で」といって死んだ。祖父の100年暮らした大きな古い家だけが残った。鎌倉の端っこの、広すぎ、古すぎ、使いにくすぎな家だが、僕はどうしても売る気になれない。庭いじりが好きだった祖父が庭の片隅にいるような気がする。5月5日の背比べでキズがついた柱。ガタついてうまく閉まらない雨戸。からっぽの犬小屋。毎年同じように咲いてくれる紫陽花、向日葵。歪んだピントで心のフィルムに焼付いたセンチメンタルな情景が決断を鈍らせているのもあるが、大きな理由は死の直前に僕にだけ祖父が遺した言葉があるからだ。「あの屋敷にはお宝が隠されている」。お宝が何か。どこにあるのか。語らずに逝ってしまった祖父。無職期間が延びるにつれ「家族の無病息災を気遣う言葉を残している暇があるなら、なぜ、お宝情報を残さないんだ」、そんな俗物じみた恨み節がついつい口をついてしまう。僕は、お宝があるかぎり、祖父の家を他人の手に譲ることはできない。そういえばテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」が本放送だけでなく日曜午後の再放送も見ているくらいに大好きなのだが、最近、再放送を見るのをやめてしまった。老人たちが会場に持ち込んでくるお宝がゴミ認定されて落胆する姿を愉しめなくなったからだ。もし、祖父の言い遺した「お宝」が千円以下のゴミだったら…という不安が僕をテレ東から遠ざけた。ひょっとしたら祖父の遺した宝物はゴミかもしれない。存在しているかどうかもわからない。あの、百年生きた怪物たる祖父のことだ、死後も、ゾンビのごとく、大好きだったあの家を、庭いじりするあの庭を守るために、僕に宝物の存在をほのめかしただけかもしれない。執念深い性格をした僕は、祖父の亡霊の監督下、宝物の番犬として生き続けて死ぬ…。やっべー、それ、すげー、ありそうだ。実のところ宝物の価値を決めるのは自分自身だ。たとえば僕は祖父が一度だけしか使えないのを知っていながら風呂を新調した。正直、もったいないと思うこともあるが、あの、祖父にとっても家族にとっても、奇跡としか思えない夢の時間を100万で買えたのなら安いと思う。人間に与えられている時間は有限で、増やすことは誰にもできない。時間に値札をつけるという行為は、時間というものの価値を過少評価しているということに他ならない。ましてや、その時間が特別な時間だったら…僕は一億でも安いと思うだろう。100年生きた祖父が生に執着したように、生きている時間というのは何者にも替え難い大事なものということだけは忘れないでいたい。さて、祖父が愛した祖父の屋敷だが、経済的な理由により、この春より人に貸している。どうか、どうか、宝物が見つかりませんように、そう祈りながら家賃収入で僕は生きている。生きながらえている。生きるというのは、このように、美しくも、醜く、矛盾に満ち、大変なことなのだ。(所要時間23分)

仕事はじめました。

仕事が見つからないので仕事をはじめた。現在従事している駐車場バイトは、時給930円、8台という収容台数の少なさ、天候に左右されてしまう等々、男子一生の仕事にするには不安要素が多すぎた。金を出しているので起業になる。実をいうとちょっと前からはじめていた。昼スナックの氷川きよしズンドコで意気投合した70オーバーのオバハン3人組と、シニア向けファッションを売りはじめたのだ。婦人向けに限定したのは、女性の方が長生きでリピートが見込めるという極めて現実的な理由からだ。3人とも伴侶に先立たれていることが影響しているかもしれない。《未亡人》は大きな共通点であるはずだが思い出したように、主人はクサかった、ケチだった、キタなかった、と言うくらいのもので、その汚物扱いは僕をひどく悲しくさせた。業績は2回ほど貸しスペースで販売して即日完売し次はネットで…と画策しているのでおおむね好調といっていい。オバハンたちが作ったオリジナル洋服を売り切るスタイル。メンバー全員70オーバーだが元気に働いている。そう。元気なのだ。あの昼下がりのスナック。生ビールにとろけた耳で聞いた言霊たち。「働きたくても働くところがない」「面接で《求人に年齢制限は記載していないけど自重してくださいよ》と笑われた」「生きている実感がない」「私たちは使い捨てか!」使い捨てという言葉に僕は揺さぶられた。同情ではなく、その言葉と会社勤め時代の自分の姿と自分の近未来の姿とを二重に重ねてしまったのだ。年齢こそ違えど、僕らはそれほど変わらない。自分の引き際くらい自分で決めたいという願いは皆同じだろう。《一億総活躍社会》《シニアも働ける元気な社会》建前は立派だが現実はどうだろう。シニアの仕事に現役世代と同レベルのスピードとボリュームを求めるのは酷だ。それなりに会社勤めをしてきて現場でシニアを使うこともあったが現役世代に比べると体調不良による《恐怖!急なシフト穴空け!」も多かった。労災の可能性も高くなるだろう。なので建前ではシニア雇用を掲げていても出来ることならシニアを雇用したくないというのが多くの企業の本音なのではないか。一方でシニアはシニアで譲れないプライドを持っている。《俺が若い頃はそれくらい》《昔は普通にやっていた》そのプライドが悪い方向に働くのを何度も見てきた。シニアが主導権を持ったうえで皆が気持ちよく働ける環境が理想だけれどそれをバックアップする体制を構築するのは余裕がないとはなかなか難しい。このたびはじめた仕事がうまくいっているのはちょっとした奇跡かもしれない。僕にやる気がないからだ。僕がやっていることは商品を運んで陳列するくらいで完全にサポート役。企画。発注。仕入。販売。すべてお任せ。現場に出てバリバリ仕事をやりたいシニアと、働くことに疲れ、しばらくは人目のつかない陰でそこそこの収入が得られればいいなあという僕の利害が一致しただけだ。それでもオバハンたちからは「昨今珍しいすばらしい中年男性だ。親の顔を見てみたい」「どんな高等教育を受けてきたのだろう!」「何を食べたらあなたのようになれるのかしら」と誉められている。もちろんビジネスの常としてうまくいっていることばかりではない。僕が「シニアの皆様には長生きすることは素晴らしいと日々感じながら若い頃と同じように歌いながら生きて欲しい」という願いを込めて提案したブランド名「結言(YUI‐GON)」「シニゾン(シニア+ユニゾン)」が、不吉すぎるという感情的な理由でメンバーが納得せず、いまだに無名で商売をやっているし、僕のギャラの支払いが滞ってもいる。待遇について話し合いの場を求めると、たくましいよね、「体毛?」などと都合よくボケたふり。ギャランドゥではなくギャランティの話がしたいのだと言うと、驚いたね、オバハン3名は練習なしでコンマ0.0001の誤差もなく「善意で」と口を揃えて言ってのけたのである。善意って自分の意志からではなく他人から言われてポン!とガチャガチャみたいに出てくるものだったとは。たかだか43年しか生きていない僕にはわからなかった。その後「イイ人ヅラをしている役人と同じか」「気持ちでやってくれていると思っていた!」「新型のオレオレ詐欺かい!」等々、筆舌に尽くしがたい人権侵害を受けた。何を食べたらそれほど都合のいい考えが出来るのか、性格が悪くなれるのか。親の顔を見てみたいものだと言いかけて、無駄な闘争に身を投じるのを僕はやめてしまう。70オーバーの老人の親なら鬼籍に入っていて当然、そんな常識的判断からではなく、僕が最も性格のよろしくないリーダー格のオバハンから生まれたからだ。この仕事がうまくいくかどうかわからないが、今のところ似たような性格の親子が一緒に仕事をするデメリットばかりが出てしまっているので、僕ならうまくいかない方に有り金全部賭ける。(所要時間22分)