Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

元給食営業マンがタニタの社員食堂の凄さを考察してみた。

ビールの飲み過ぎでウエストが大変なことになりタニタの体組成計を家人に買わされた。しばらくは数字との戦いになりそうだ。さてタニタといえばタニタ食堂である。メタボになったのも何かの縁なのでタニタ食堂について元給食営業マンの立場から考えてみることにした。タニタの凄さはどこらへんにあるのだろう。健康的だから?メディア展開?僕は元給食営業マンの立場から「難しくないことを丁寧にやっている」がタニタの凄さだと思っている。言いかえれば「出来そうで出来ないこと」、その理由について語ってみたい。タニタ食堂ブームの大きな流れは「タニタは社員のために健康的な社員食堂を運営している」「社員の健康維持に役立っている」「タニタの社員食堂は凄い」「出版化したら大ヒット」「映画化」「タニタ食堂としてレストラン展開」、多少、順番は前後するかもしれないがこんな感じではないだろうか。タニタ物語の原点はタニタの社員食堂の成功にある。タニタの社員食堂は健康的というイメージの形成だ。先にタニタの凄さは「難しくないことを丁寧にやっている」とした。実際、タニタの社員食堂は治療食でも高級レストランでもない。言ってしまえば管理栄養士作成の500キロカロリー以下にカロリーを抑えたメニューによる、食材と食感にこだわった手作り感のある食事。特別なものではない。それがなぜ一般的な社員食堂で提供出来ずにタニタでは出来たのか。何が違うのか。タニタの社員食堂は当時(今は知らないが)一日70食程度で完全予約制だった(はず)。70食というボリュームが大量調理で手作り感のある少し手の込んだ食事を出せる規模で、これが数百、数千食になるとそうはいかない。完全予約制であることも重要。社員食堂運営は各メニューの生産数のコントロールとの戦いだからだ。たとえば200人利用の2定食設定の社員食堂ならA定食は焼き魚なので40食、B定食はハンバーグ160食を過去の実績から生産予定数を設定する。このとき焼き魚が想定以上に不人気で10食しか出ないと30食分はロスとなり、委託してる場合、業者はそのロス分を見込んだ食材費を設定しないといけなくなる。完全予約によりロスを考慮せずに食材費を100パーセント投下することができる(クオリティの確保)。数年前、社員食堂の商談をしていてクライアントから何回も「タニタみたいな食堂」という要望を聞かさるたびに「完全予約制を導入してもらえれば出来ます」と説明していた。ほとんどのクライアントは社員食堂の完全予約化に難色を示したものだ。理由としては組合との調整が難しい、担当部署の業務が増える等々。タニタはそのうえ社員食堂に管理栄養士を置いているのだ。70食という食堂規模で管理栄養士を置いている社員食堂を僕はほとんど知らない。うろ覚えだが健康増進法かその細則で栄養士の設置義務は事業所給食だと一回500食か一日1500食以上とされており、70食規模では設置する義務はない。現場に管理栄養士を設置すると当たり前だがコストはかかる。設置義務のない一般的な社員食堂は、コストを理由に設置を見送るし、給食会社も設置提案することはクライアントからの要望がない限りほとんどない(競合に負けるから)。まとめてみると僕が営業マンの目線で思うタニタの社員食堂の凄さというのは、世間一般の健康的なメニューというイメージよりも、小規模な食数にもかかわらず完全予約制を敷いて管理栄養士を設置している環境にその理由がある。これにはコストがかかるため、同規模の一般的な社員食堂では導入するのがなかなか難しいのだ。社員食堂というのは言うまでもなく福利厚生の一環である。相当恵まれた環境の会社か、景気のいい会社でないかぎり、普通、福利厚生にカネをかけようとはしない。なぜか。福利厚生は社業ではないから、社員食堂は本業ではないからだ。タニタはどうだろう?飲食業でも食品業でもないタニタは、健康というキーワードで社員食堂を本業化している。社員食堂を社業とリンクさせている。社業であればコストと手間をかける理由が生じる。社員食堂をよくすることが社業に直結する。イメージの向上。商品力のアップ。この社員食堂を巻き込んだ動きが一般的な社員食堂とタニタのそれとの違いであり、凄さなのである。さらに凄いのは、レストラン経営やタイアップでタニタ食堂を展開しても、社員食堂を運営するいわゆる給食業界へタニタが本格的に参入しないこと。タニタは社員食堂がビジネスとしてそれほど儲からないこと、そして自らがイメージを作り上げたタニタの社員食堂を一般的な社員食堂へ展開出来ないことをよくわかっているのだ。あくまで健康的というイメージでビジネスを展開している。基本的には計測機器のフィールドをメイン戦場にしている。これが本当にすごいと僕は思うのだ。社員食堂の営業をしているとき、本当に地味なビジネスで、たとえば地方で自前で調理師を雇用しているような企業にセールスするとき、新たに事業所を立ち上げようとしている企業に売り込むとき、説明するのに苦労していたけど、「社員食堂です。タニタみたいな」というと容易にイメージしてもらえて非常に助かった覚えがある。社員食堂をメジャー化してくれたタニタに僕は今でも感謝している。(所要時間38分)

昇給申請書を出してきた自称仕事出来るマンをリストラしたった。

先日、たまたま入った地元の中華料理屋で、「昇給申請書」なる忌々しい書類のことを思い出してしまった。というのもその店で先輩と思われる店員が後輩店員に対して、何回も言わせんなろーッ、そうじゃないろーッ、つって厳しい指導をしている光景が、昇給申請書を僕に思い出させたのだ。間違いだらけの仕事出来るアッピール、客商売なのだから見えないところでやれ、というのが率直な感想だ。仕事愛だか、師弟愛だか、知らないしどうでもいいが、五目チャーハンを食べている目の前でそんなマスターベーション見せつけられても、飯がマズくなるだけだ。かつて、その店員によく似た人物が昇給申請書を上げてきたことがあった。セルフ昇給申請書。思い出すだけで忌々しいその文書は、前の会社にいたとき、自称仕事出来るマンから僕に上がってきたものだ。それを受領したとき、驚きながらも、面倒くさそうな近未来の到来を予想して、きっつー、と呟いてしまったのを1年以上も経ってしまった今でも、つい昨日のことのように覚えている。上司が部下の昇格や昇給を要請する書類は見たことはあったが、私は仕事が出来る、私はよくやっている、私は給料が上がるべき人間だ、私は、私は、そんなセルフ昇給申請書なるものを目の当たりにするのは初めてだったからだ。当事、僕は統括本部長という名で営業の責任者と事業部長を兼務していた。偉そうに聞こえるが従業員から嫌われずにリストラを遂行しようとしていた当事のボスの、良くいえば盾あるいは露払い、悪くいえばただの嫌われ役にすぎなかった。昇給申請書の中身は「人材不足の中で現場を維持してこれだけの仕事をこなしているから、私の給料を上げてください」というアグレッシブなものだった。当人のことを詳しく知らないので、周りの人間に聞くと「仕事やってるアピールも凄いが、仕事は出来る」という評価であった。予算以上の数字を叩き出しているわけではないのに、何をもって「仕事が出来る」なのか営業の僕には理解に苦しむが、昇給を申請するからには借金や連帯保証人のような人生に関わる何らかの重大な事情があると思い、一応、検討することにした。その後、当人の仕事ぶりの観察結果と、現場スタッフからのヒアリングを経て、僕はその昇給申請を却下した。そして彼の名をリストラ対象リストの筆頭に加えた。会社がリストラ待ったなしの状況にあるのを知りながら昇給申請書を出すのは感情的に、ないわー、だがそれで処分を決めたわけではない。僕には評価についてひとつだけ決めているルールがあって、それは「好き嫌いで人を評価しないこと」。今は亡き部長や必要悪くんを僕はまったく評価していないが、それは彼らのことが嫌いだからではなく、ピュアに評価に値しない人物だっただけだ。好きな人物でも仕事上評価しない場合もあるし、その逆もある。昇給申請書を上げた彼は自称仕事出来るマン。彼に任せた事業所の出す平凡な数字と会社平均より高いパートスタッフの離職率。それらと周囲の彼への高い評価が僕の中で一致しなかったのだ。僕は営業部にいて直接彼のことを知らなかったおかげで、逆に彼のことが見えていたのかもしれない。距離があったので記憶や印象ではなく記録を材料に判断を下せた。僕は、観察とヒアリングにより、彼の言い分「本社が人不足を解消出来ない分を私はやって差し上げている」の実態をほぼ正確に把握していた。パートスタッフへのパワハラまがいの厳しすぎる指導。いったん出来ないと判断すれば無視するなどしてプレッシャーをかけて退職に追い込む。人不足の原因が人不足を嘆いていたと僕は判断したのだ。確かに規定より少ない人員で仕事はこなしている。予算も達成している。本社サイド、数値上から見れば問題なしとされるかもしれないが僕は看過できなかった。本社に呼び出して注意すると、今まで通り昇給が通ると信じていた(常習犯だった!)彼は不満を漏らした。あろうことか彼は昇給申請が通らないのであれば現場副責任者と退職すると言った。「辞められたら困るでしょう?」脅しである。「まったく」と僕は言った。やせ我慢でなく全然困らないので、手続きに則って彼の解雇を決めた。多少現場はバタつくことは覚悟していたが不採算で撤退した別の事業所の人員を当てて乗り切った。結果的に僕はこのようなリストラの数々による心身の消耗を理由に退職、今はホワイトな会社に就職しているし、あの現場の職場環境は改善され人材は定着、サービスも向上してクライアントからの評価は上々になったし、僕が解雇した彼はいまだに定職につけずに苦労しているなど、関わった人たち皆がハッピーになれたので、今はあのリストラの判断は正しかったと思っている。このように程度の差こそあれ、「仕事が出来る」を勘違いしているモンスターは案外多いので、印象や記憶といった曖昧なものを評価基準にしないこと、自己評価をあてにしないことが大事なのだ。「昇給申請書とかないわー」と周りには言いつつ僕が退職前の悪あがきで似たような文書をボスに提出出来たのも、「俺仕事出来ますよ」と己を高く売ったのが功を奏して転職が叶ったのも、あのときのセルフ昇給申請書のおかげといえばおかげなので、感謝とかおかしいかもしれないがそれなりに感謝している。(所要時間26分)

非正規から正社員へステップアップする知人の覚悟が悲壮すぎて絶句した。

地元のスナックで前の会社で同僚だった男と再会した。彼は、ちっぽけな自尊心ゆえだろうか、派遣なのか期間工なのか、詳しいことを語ろうとしないので詳しくは知らないが、退職後は、いわゆる非正規雇用といわれる立場で働いていた。所属部署が違ったので彼の働きぶりや能力は知らない。僕が彼について知っているのは「真面目で言われたことだけはしっかりやるが愚痴っぽくて陰気」というビミョーな非公式評価くらいだ。

その彼が、この春から正社員になるという。前の会社を辞めて、6年に及ぶ時給生活を経て、ようやく訪れた50才の春。「よかったですねー」といいながら、僕は彼を正社員として採用する会社があることに感動していた。実感が伴わず、ともすると幽霊みたいに思えたアベノミクスの効果を、はじめて目の当たりにした気分だった。僕も昨夏まで8か月続いた無職期間で、再就職のつらさをこれでもかと世間から思い知らされた身分だ。40超の平凡な男がそれなりの待遇で再雇用される厳しさはそれなりに知っているという自負がある。だから目の前にいる、あのあのあの、つって、自信なさげでまともに目を合わせられないこの男を正社員として雇用するほど余裕のある企業の実在を信じることが出来なかったのだ。「人違いあるいは何かの手違いでは?」失礼ながらそう思わざるをえなかった。

「年に一度の苦しみから解放される…」「会社の方から契約更新の際に…」「やっと有期雇用から逃げられる…」軽く乾杯をして話を聞いているうちに僕の疑念は現実のものになっていった。もろに無期転換ルールの適用例だった。労働契約法の改正について〜有期労働契約の新しいルールができました〜 |厚生労働省 「本当に正社員なのか」僕は彼に尋ねた。確実に、待遇は今よりも良くなるのか?会社からは正社員という言葉を引き出せているのか?と。彼は胸を張って言った。僕はこのときほど自信に満ち溢れた中年男を見たことがない。そしてこのとき覚えた絶望の深さも滅多にお目にかかれないレベルのものだった。「会社は私を評価してくれていますが、厳しい状況なので給料は現状維持と言われました」。齢50才の男が時給1000円で満足する世界。ここは地獄か。それ評価されていないよと核心を突くと彼は大きな声で「でも契約期間は無期なんです!正社員です!常勤さんと一緒なんですよ」と言った。彼の職場では正社員を常勤さんと呼ぶらしい。常勤さんとそれ以外。常に勤めているのは一緒のはずだ。僕は両者の間にそびえたつ高い壁の存在を感じた。

僕は今まで何で辞めなかったの?と訊いた。彼によれば「法的に有期雇用契約は途中で解除できないと会社から説明されていた」らしい。確かに。労働契約法ではこう定められている。

第十七条  使用者は、期間の定めのある労働契約について、やむを得ない事由がある場合でなければ、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。

 つまり「やむを得ない場合」があれば《使用者から》中途解約が可能とされている。で「やむを得ない場合」に中途解約できる根拠が民法の条文にある。

第六百二十八条  当事者が雇用の期間を定めた場合であっても、やむを得ない事由があるときは、各当事者は、直ちに契約の解除をすることができる。この場合において、その事由が当事者の一方の過失によって生じたものであるときは、相手方に対して損害賠償の責任を負う。

 この条文では労働契約法「各当事者は」されており、「やむを得ない場合は中途解約可能」が使用者と労働者双方に適用されることがわかる。つまり、就業規則等で定められていない場合、労働者からも「やむを得ない事由」がない限りは、有期労働契約と中途解約することはできないのが原則になっている。らしい。これのことであろう。彼は、本当かどうかわからないが、今まで転職するチャンスがあったけれど中途解約が出来ずにズルズル来てしまったと言う。そして契約更新のタイミングには転職チャンスはなく、止むを得ず更新…という感じだったのだろうか。僕からいわせれば、もう少しファイトすれば何とかなったのではないかと思うのだが、悲しいかな、彼はそういう人間ではなかったのだ。

モヤモヤする僕に彼は言った。「そういうわけで私は晴れて春から正社員なんですよ」。時給1000円のどこが正社員なのだろうか。僕の疑問を察した彼は諭すようにこう言った。「あなたは正社員として働いています。確かに私より給料や肩書は上なのかもしれない。だが、あなたより給料の低い人が正社員ではないわけではないですよね。それは待遇と立場の違いであって、正社員かどうかではない。それを前提に、あなたに聞きます。正社員て何ですか?」僕は返答に窮してしまった。正社員、正規雇用と言いながら、いざ、明確な定義を持っていなかった。「強いて言えば契約期間がないのが正社員かな…」僕は誘導尋問に導かれるように答えじゃない答えを口にしていた。「ですよね」彼はドヤ顔で首を縦に振って続けた。「だから私は正社員なんですよ」。

なんだか気の毒で、哀れすぎて、我慢出来ずに「悪い条件で塩漬けされているだけだよ」と僕は言ってしまう。その、僕の心ない言葉に対する彼の答えが悲壮すぎて僕は思わず絶句してしまった。「全部わかっているんですよ。本当は正社員じゃないって。都合よく使われているだけだって。でも、無期になったことを正社員になれたと頭の中で変換すれば、生きていける。どんな形でも、必要とされていることには変わらないのですから」。この覚悟の言葉を受けて3日経ったけれども、僕はまだ返すべき言葉を見つけられないでいる。(所要時間31分)

物忘れがひどくてきっと明日もトイレ流すのを忘れてしまう。

最近、物忘れが激しい。公衆トイレで社会の窓を閉め忘れ、そこからヤバいものがハロニチワしてたり、外出の際に鍵をかけたかどうか不安になり戻って確認することもしばしばだ。若い頃から記憶力には自信があるし、それは今でも変わらないけれど、記憶の引き出しへのアクセスに支障が出ているみたいだ。

物忘れの基礎知識|ワスノン|小林製薬

このサイトによれば「家族に物忘れがひどい方がいる」と物忘れリスクが高いらしい。ばっちり該当。70を越えている母の物忘れが酷すぎて笑えないレベルだからだ。(以前ここに書いたかもしれないが)母は友人とシニア向けの洋裁事業をやっていて、僕はその運転資金を援助しているのだが、先日も金を渡した翌日に「真顔で貰ってない」と言ってきたりした。驚きよりも寂しさが大きかった。母上、衰えられましたな…。そのとき僕は自分の物忘れのせいにしてやり過ごした。「やべー最近なんか忘れちゃんだよね」。甘いかもしれない。ただ僕は年老いた母が、残りの人生を楽しく過ごしてもらいたいだけなのだ。昨日、用があったので実家に立ち寄った。呼び鈴を鳴らしても反応がなかったので鍵をあけて入ってみると母のスリッパが玄関に並べられていた。外出していた。前日の夜に伝えておいたはずだが、僕の来訪を忘れてしまったらしい。母上。老いられたな…。父が死んで生活のために朝から晩まで葬儀屋で働く、たくましいはずの母の背中が思いのほか細かったことに気づいてしまったあの夕食どき。少しニンジンが硬かったハウスのシチュー。あれは10年前かそれとも20年前だったか、思い出せないが、そのとき胸に去来した何ともいえない寂しさとやりきれなさを思い出してしまう。仏壇に線香をあげて、火が消えるまでの短い時間、台所のシンクにあった食器を洗い、風呂場と洗面所の掃除を済ませた。それから僕は頼まれていたものをダイニングテーブルの上にあるビクター犬の像の下に隠した。鍵をかけて実家を出た。庭を見るとタローが使っていた犬小屋の前を野良猫が横切っているところだった。夜になって母から電話があった。「ありがとうね。一人で暮らしてるとこれだけでも嬉しいよ」意味がわからない。僕はお金を置いてきたのだ。例の仕事で使う金だ。確かに多くはないが、それを「これだけ」とは…。著しく礼を失するのではないか。親の顔が見てみたい。僕は言い返そうとした。しかし僕が何かを言おうとするのを遮るようにして母の口を突いて出てきた言葉に僕は何も言えなくなってしまった。「頼んだ金額より少なくない?残りは今度よろしくね」実は母の忘れっぽさにかこつけて、僕は求められたよりわざと少ない額を置いてきたのだが、母はしっかりしていた。「それとトイレも流し忘れてたわよ」僕は大便を流し忘れてしまったらしい。齢44にして、ちょうど漢字の「回」を一筆書きしたような形の一本クソを年老いた母に咎められる人生。「来るなら前もって教えてよ」もしかして僕が連絡を入れ忘れたのか。怖くて通話履歴を確認出来ない。これらの僕にとって厳しすぎる母の言葉が僕の言葉を奪い去ったのではない。僕が何も言えなくなってしまったのはこれらの厳しすぎる指摘の前に母がこう言ったからだ。「わざと家の灯りを点けっぱなしにしてくれたんでしょ。暗い家に帰ってくるの嫌なんだよね。あんたがこんな気づかいの出来る人間になれて嬉かったよ」物忘れによる消し忘れ。僕はまたやらかしてしまっていたらしい。妻には消し忘れで叱られてばかりだけどこんなやらかした本人が思いもよらない結果をもたらす物忘れなら時々あってもいいかもしれない。物忘れがひどいのは母ではなく僕かもしれない。母は僕が思った以上にしっかりしているけれど、こんなことでありがとうなんていう人じゃなかった。母は確実に老いている。あと何回、母とこういうやり取りをする機会があるだろうか。数えるほどとまではいかなくとも、もうそれほど多くはないだろう。父が亡くなって家がきつかった頃、僕はこんな時間はやく過ぎてしまえと祈っていた。だが、今は、自分の身勝手さを棚上げして、時間が出来るだけ緩やかに流れて欲しいと神様に願っている。(所要時間19分)

 

僕はフリースタイルなブロガーを目指したい。

告白しよう。僕はお金が好きだ。そしてブログでの金儲けに眉をひそめながら、一時期、「ブログ飯」っていうの?フリーランスブロガーっていうの?ブログで生計を立てている人を羨ましく思っていた。自分の言いたいことを言ったり、好きなものを紹介することが仕事になるなんて素敵だし、何よりその自由さに憧れたのだ。会社員であることに囚われすぎているきらいのある僕にとって、彼らの自由さは眩しいものだ。だが、今はそちらへ向かわなくて良かったと思う。僕の観測範囲内の事象からいえば、結局のところ彼らも自由ではないとわかってしまったからだ。好きなことをブログに書いて生計を立てるだけにとどまらず、仮想通貨に手を出してその価値の激しい上下動に一喜一憂している姿は、手足を縛られているようにさえ見えた。ブログのようにやらなくていいものを始めてわざわざ縛られるなんて。それは僕の憧れた自由とは程遠いものだ。囚われているものが会社やしがらみであるか、お金そのものであるか、その違いでしかない。その違いが大きいか小さいか。捉え方の違いでしかない。だが僕は彼らを否定しない。信じている宗教が違うだけだからだ。ありがたいとさえ思う。興味を失いつつある昨今のインターネットにおいて「文章を書くのがとにかく好きで仕方ありません」とアッピールをしていたブロガーが仮想通貨等々に染まり、お金のことばかり書くようになってしまう、その勇姿を応援することは、僕にとって数少ない楽しみになっているからだ。頑張ってほしい。ただ、ブログで生計を立てることは否定しないが、収益やPVといった数値的な目標に掲げることには疑問を感じる。それを公にすることも。往々にして数値が足かせになってしまうことがある。数値は残酷だ。たとえば公にしている収益やPVが数か月連続で下がってしまった場合、人の目が気にしたり、モチベーションを失ったりしてブログをやめてしまったり、その数字を維持するために怪しげな情報商材を宣伝したり、同じような傾向を持つ仲間へ内輪向けのことを書いたりするようになったり…。はたしてそれは自由で外に向かっているべきブログの在るべき姿なのだろうかと首をかしげてしまう。そもそも僕は営業職で日々数字に追われて仕事をしているので、これ以上数字に追われたくない。生産管理のような仕事をしている人は、もっと数値にシビアな世界で生きているので、僕以上にそう思われるのではないか。まあ、数値目標を掲げる人も僕とは違う宗教なのでその世界でうまくやってもらえればいい。今は彼らが、多分、控えめに会社員でも頑張れば稼げるくらいの、悪くいえば夢のない額を収益として発表してくれたことに感謝している。もし、毎月一億稼いでいるといわれたら僕もそちらの世界に行って、違うものに縛られていただろう。怪しげな情報商材屋に間違われないように気を付けてもらいたい。僕はブロガーと呼ばれる人たちには数値でない自分だけの目標を持ってほしいと思う。そしてウチに秘めた目標に向かってもらいたい。他人からの評価なんてどうでもいい。収益を追求していようがいまいが関係なく、何者にも縛られず、フリーなスタイルで、ブログを楽しむことがいちばん大事なのだ。僕もブロガーの端くれとして、フリースタイルな目標を立てた。大人の事情により、先日、冬季オリンピックで熱戦が繰り広げられたスノーボード競技になぞらえていうと、ブログを通じて知り合ったJDに《フロントホックバックスタイルダブルシックスティナイン》を床上でキメるのが僕の目標で、今はそれしかない。(所要時間19分)