Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

管理職になって1ヵ月やれたことやれなかったこと全部話す。

以前、管理職(営業開発部長)になるためにやったことについて書いた。今回はあれから1ヶ月経過した現時点における進捗状況、達成した部分と修正が必要な部分について語ってみたい。

delete-all.hatenablog.com

ホワイトな環境の職場で働いている。腹の底は知らないし知りたくもないし、僕などは「ウザっ」と思われてるかもしれないが、社員同士がリスペクトし合う、楽しい会社だ。目に見えたハラスメント言動や、足の引っ張り合いはない。昨夏入社したときと変わったのはこの四月から正式に管理職になったことくらいだ。「いつまで今の職場にいるかわからないが、若いスタッフのヤル気を搾取しないような仕組みだけはキッチリとつくっておきたい」という気持ちも変わっていない。

僕は以前、ヒドい環境の会社に勤めていた。「ブラック企業」と指摘されたりもした。職場環境や労働条件の酷さだけではなく、同僚同士、足の引っ張りも多々あった。そういう、きっつーな職場にいたので、仕事上では、他人を信じない、信じすぎない人間になってしまった。管理職になるうえで「目標の細分化」「チーム制の導入」「営業日報の廃止」を採りいれたのも(上記記事参照)、すべて、人を信じない地点からスタートしている。ただ、1ヵ月組織を動かしてみて、それらの施策に軌道修正の必要性も出てきている。

まず目標の細分化。目標を思いきり低く、細かく、そして多くの目標を設定して日々のミーティングで達成率を確認するようにしたのだが、この点については、概ね好評で、モチベーションの維持という点では僕の思惑通りに動いている。目標が小さいが故、目標の小まめなアップデートが必要になっていることが悩みだが、これは嬉しい悩みというべきだろう。実務上は大きな目標をボリュームと〆切を考慮して割っているだけなので、苦にならない。多少、苦労が予想されるのは次の大きな目標を探して設定することだろうか。

次にチーム制の導入。1案件に対して必ず2名以上担当者を置き、案件ごとにその人員の組み合わせを変えた。目的は2つ。仕事の鮮度を保つこと。案件のブラックボックス化を防ぐこと。前職で営業マンが、案件を自分ひとりで持ち抱え、よくわからない理由で失注するのを多々見てきた、その反省からである。この流動的なチーム制についてはスタッフから意見(反論)が上がってきている。「人によって得意不得意があるので、担当チームはお互いの欠点を補完する組合せにするべきではないのか」というものだ。流動性を限定的にしろ、という意見だ。確かに一理あるが、現時点では、却下することにした。表向きの理由は、「組合せを流動的にすることによる仕事の鮮度の維持と硬直化の回避を、補完関係による効率的な仕事の遂行より重視したい」というものだが、その実は、チーム固定化によるチーム自体のブラックボックス化の阻止であることは言うまでもない。

次は報告方法の改善(営業日報の廃止)だ。営業日報を全否定はしないが、あれを入力することが目的になりすぎていると感じたのと、前職で頻発したのだけれども、一日中、市営公園の駐車場に停めた営業車で、昼寝している某営業マンが営業日報上では顧客10社を回っていることになっているようなミステリーを目の当たりにすることが日常茶飯事だったからである。俗にいう虚偽報告である。これを改め、日々の細かい報告については、週イチくらいの頻度で個々に呼んで、ヒアリングする方法を採っている。交換した名刺も抜き打ちチェックしている(毎回じゃないが)。

ヒアリングは10分くらい。時間短縮になり、その分、外回りの時間を確保できると踏んでの施策だ。これについては予想以上の結果を出している。僕も驚きなのだが、30分ほどの入力時間が削減されただけでなく、アトランダムなタイミングのヒアリングに対応するために、それぞれが問題意識を持ち課題と進捗を整理するようになったのだ。フォーマットを無くした長所が出たようだ。修正点は、事前に行動予定表の入力を義務付けているのだが、その入力項目「①日時」「②会社」に加えて「③誰と(役職/決定権の有無)」「④目的」「⑤戦略」の3点を増やしたくらいだ。スタッフ増員となったら現行のヒアリング方式は難しくなると思うが、それはそのとき考えることにする。

これらに加えて40時間/週の労働時間を厳守するように改善を加えている(5月から実施)。ボスからも「スタッフのやる気だけは絶対に搾取するな」と言われている。40時間以上働く必要はないが、原則40時間は働いてもらわなければならない。弊社でもタバコ休憩問題がある(弊社の場合、喫煙スペースまで行って吸って帰ってくるまで15分程かかるので管理監督下にないため『労働時間』に当たらない)。いろいろご意見があると思うが、試験的に喫煙者には15分×2回@日のタバコ休憩を認めることにした。ただし該当者は30分だけ所定労働時間の終了時刻を繰り下げさせてもらう。非喫煙者にも平等に休憩を与えて終了時刻を繰り下げることも提案したが、ミーティングで却下された(民主的だ)。このタバコ休憩+繰り下げは来月から試験的に実施してみて、うまくいったら就業規則に盛り込むことになる。なお、新規採用者については非喫煙を条件とするので、将来的にはこのタバコ休憩問題はなくなるはずだ。(補足/そもそも営業スタッフは基本的に社外いるので、終日、内勤するのは月に1~2日程度。タバコ休憩が大問題にはなりえないけど一応ルールは決めておく)。

(雇い入れの制限については問題ないと思われる。

参考/三菱樹脂事件【憲法判例・労働法判例】 三菱樹脂事件の要点をわかりやすく解説 | リラックス法学部

万が一残業するときには、届出に理由の明記も義務付けた。この理由は残業発生のたびにミーティングで共有して、残業をしない仕組み、40時間内でおさまるチームに向けて全員で考え、新たなスキームに落とし込んでいる。僕の仕事はそのミーティングで「個人の能力不足」という安易な結論は出さないように議論を持っていき、チーム全体の能力ととらえるように促すこと。そして、ミーティングの結果を先ほど話したタスクの確認と設定にこれらをフィードバックすることである。

また、これは昨年11月に実施済みなのだが、事務パートの女性スタッフを正社員化した。部に与えられている予算(人件費)から考えたら余裕はないが、パートタイムよりもフルタイムで部内の事務をやってもらうことによる、営業スタッフの営業活動にかかる時間の確保等のメリットをボスにプレゼンして押し通した。まさか、7月から産休に入ることになるとは…それはそれで嬉しい誤算じゃないか。

以上である。流動的チーム制の導入で薄々お気づきだと思うが、僕はエース営業マンやスーパー営業マンを否定している。前職のときから、エースと呼ばれる、仕事のデキる営業マンを、数字が出せるからといって持ち上げる風潮に少なからず違和感を覚えていたからだ。たとえば重要な案件や大型の事案を優先的に与える、いわばエースの仕事(数字)を最大化するやり方である。そういう仕事のやり方を僕は否定しない。短期的には数字も出せるだろう。会社も数字を出すやり方を否定はしない。

だが、エースが退職したり死んだりしていなくなったとき、あとには何が残るだろうか。ほとんど何もないのだ。書店やネットで見かけるスーパーなビジネスパーソンの語るメソッドが僕は好きではない。それらは物語としては見栄えがするので魅かれるのも無理はない。だがそこに再現性はあるか?ない。全員がスーパーになりうるか?ありえない。ヒーローはいないが、普通の人が普通に働いて普通に結果が出る、働きやすい組織。目指すべきはそこだと僕は考えるのだ。

繰り返しになるが前の職場のこともあって、僕は仕事で人を信じることができない。だからこそ僕の下で働いているスタッフには、僕みたいになって欲しくないと強く思っている。そのためには厳格だがフェアで、特定の人に依存しない組織が必要なのだ。記憶が定かではないが、落合さんが中日の監督になるとき、現有戦力を10パーセント底上げすれば優勝できる、と仰っていた。そういう普通の人が活躍する組織を作り、維持できるような仕組みを、今の会社、今の立場にいるあいだに作り上げたいと本気で思っているしそれが僕の仕事なのだ。(所要時間42分)

「YAZAWAの勘」のスゴさについて。

こんな記事を読んだ。ロックンローラー矢沢永吉さんがチケットを完全電子化するらしい。なぜ?という問いにYAZAWAは「勘」と即答したという内容だ。

blogos.com

僕はこれは全人類にとっての教訓になる!といたく感動したのだけれど、妻は「ただの勘ですよね…」とピンとこなかったご様子。そこで僕が「YAZAWAの勘」がどう凄くて教訓になるのか妻にプレゼンをした。これはそのときの話のまとめである。

先ほども述べたが、この記事を読んで、僕はYAZAWAのロックな姿勢に感動した。見習いたいと思った。同時に、「YAZAWAのように俺たちも【勘】で動けばウマくいくのだ!」と勘違いする人も少なからずいるだろうな、とも思った。勘をただの思いつきと誤解している人たちである。おそらく妻もそうだ。だがそれは違う。「勘」の一言でまとめてしまっているが、YAZAWAは1.問題(「チケットを欲しい人がいても不正をする不届き者のせいで手に入れられない」)を見つけて2.解決「じゃあチケット全部電子化しちゃおうよ」という実に合理的な考え方で電子化を決めている。この決断と解決の導き方は極めて普通で、普通な僕たちでも導き出せる答えであり、天才性は感じられない。YAZAWAの凄さ、天才性はその決断のスピードにある。インタビューにおいてYAZAWAが「勘」と呼んでいたもの。なぜ勘で行動することができたのか。その背景を考えてみたい。

何か問題が発生したときに、その解決が遅くなってしまう理由には大きく分けて二つある。ひとつは知識不足や経験不足からの不安によるもの。未経験のトラブルに遭遇したとき、「難しそう」「わからない」という理由で判断が遅れてしまったことは誰でもあるのではないか。もうひとつは知識や経験が足かせになって素早い判断が出来なくなってしまうものだ。たとえばクライアントから近々の納期を提示されたときに過去の経験から「きっつー」と思って躊躇してしまったり、JDから告白されても「ハニートラップかもしれない」と身を構えてしまった経験がないだろうか。図にするとこんな感じ。

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一般人の場合

YAZAWAの場合はどうだろう。彼はインタビューの中で《IT技術には詳しくない》と述べている。先ほど述べたとおり、知識がなかったり、経験がなかったりすると、決めることができなかったり遅くなってタイミングを逸してしまうことが往々にしてあるがYAZAWAは違う。やっちゃうのだ。図にするとこうである。

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YAZAWAの場合

経験不足や知識不足を言い訳にせず、YAZAWAは障害を越えてピンポイントで解決にいたっている。まるでジャンプするように、だ。

なぜジャンプすることが出来るのか。それは問題の本質をつかんでいるからである。《チケットの電子化についての知識はなかった。だが勘で決めた》という文脈の裏にはYAZAWAがチケットの電子化によってファンにもたらされるメリットとデメリットを、それが直感によるものなのか、多少の知識があったからはわからないけれど、ほぼ完全に把握していた事実の存在が読み取れるのである。詳細な知識がないのを恐れない。経験に縛られない。それがYAZAWAの勘であるが、そのベースには問題を正確に把握する能力がうかがえるのだ。

もうひとつ、これは僕がもっとも参考にしたいところなのだけど、問題解決の優先順位のつけ方もYAZAWAの勘の凄さだと思う。YAZAWAはまずチケットを買えないでいるファンを第一に考えて解決を導き出している。我々は知識や経験不足を言い訳にしたり、経験や知識が足かせになったりしない。導入にあたって予想されるトラブルや面倒は後回しにして決めてしまう。いってみれば顧客ファースト。これはブレない。僕は今管理職で、顧客ファーストという視点は忘れないよう、スタッフには話をしている。正確には「【自分都合の】【顧客目線で】案件に取り組む」だけれど、ついつい自分都合に重きを置きすぎてしまいがちなので、YAZAWAの勘は顧客ファーストの教訓として非常に参考になった。

YAZAWAが顧客ファーストの解決へジャンプできた理由。それはインタビューからも垣間見えるように、ライブを大切にしているからだ。つまり現場の声を聞く耳を持っているからだ。僕は今44才で、仕事において現場の声を聞く、現場を知ることの大切さを重々承知しているつもりだけれど、様々な経験をしているせいで、知らず知らずのうちに現場の声にバイアスをかけてしまっている気がする。自分都合に。69才、ロックの年齢になっても、現場のファンの声を聞き逃さない耳。それを維持しつづけることはなかなか出来ないと思われるが見習いたいものだ。

「YAZAWAの勘」の凄さは、現場を大事にすること、顧客ファースト、問題の正確な把握という誰にでも通じるが、おろそかになりがちなことを「勘」のひとことで軽やかにやってしまっている点にある。やっちゃえは伊達じゃないのだ。(所要時間22分)

Hagex氏と飲んでます。

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神奈川県の隅っこまで僕を訪ねてきてくれた

HAGEXことハゲ子(id:hagex)と飲んでるよ。高知産のトマトを肴に生ビールを傾けながらゲスい悪巧み。意外なコンビでしょ。おほほほほほほほほ。(所要時間1分)

「生きにくさ」とは何か。

「生きにくい」「生きづらい」、そういうフレーズをたびたび耳にするようになったのは、いつ頃からだろうか?マスコミや広告代理店の活動の結果なのか、僕のアンテナのそういうフレーズへの感度があがったからなのか、わからない。おそらく両者だろう。

 確かなことは、生きにくい、という言葉に接するたびに、当事者ではなくても言いようのない閉塞感を覚えることだ。もっとも、生きにくさは、平成の世に、突如、出現したわけではなく、ずっと僕らのそばにあった。ただ、文化や生活のレベルが上がるにつれ、その内容が変わってきているだけのこと。たとえば、縄文時代の生きにくさは「今日は鹿が取れなかった。飯どうしよ…」という直接、命にかかわるような生きにくさが主だったが、現代社会のそれは(心身の病気のようないかんともしがたい事情からの生きにくさは別として)他人との関係性において感じるものが主になっている。生きやすくするための社会が高度になればなるほど、他人との関係性で生きにくさを感じてしまう。なんて皮肉なのだろうか。ひょっとしたらツイッターやSNSで生きにくいと呟くだけで、「僕も」「俺も」「私も」とあっという間に拡散、共有され、強固になってしまいがちな現代の方が、縄文時代の人間よりも、生きにくさの厄介レベルは上がっているともいえる。

 能力が劣っているから、見た目が平凡極まりないから、収入が少ないから、恋人がいないから。それら生きにくさの理由は全部、社会や他者との関係、比較で生じるものだ。クソ上司、アホ先輩、厳しすぎる妻、少なすぎるこづかい。自分以外に、多種多様な人間が存在している以上、世の中は生きにくいものなのだ。生きにくさとは「他人に自分を合わせる無理」である。皆、社会の中で生きていくうえで、多かれ少なかれ、自分を殺し、他人に合わせる、無理をしている。たとえば「こうした方がいい」「なぜあれをやらないの」「次はこれが来る!」こんな言葉に従いすぎてはいないか?いいかえれば、生きにくいとは人間であることの証明なのだ。もし、この文章を読んでいる人で生きにくさ生きづらさを感じている人がいたら、こう捉えなおして胸を張ってほしい。人間だから生きにくいのだと。ついつい人に合わせてしまう優しい人間だから、生きにくいのだと。

 もし、生きにくさが耐え難いレベルになったら、一度、人から離れてみるのもありだと僕は思う。いったん捨ててしまえ。山に籠って鹿を追ってウハー。素っ裸で滝にあたってウホー。他人を気にしないで生きてみれば、生きにくさは感じないのではないか。僕は都会生活の方が好きなので御免こうむるが、縄文人に戻るのはひとつの手段としてありだろう。なにがいいたいかというと、鹿狩りの魅力ではなく、とかく現代社会は人との繋がりを大事にしすぎているのではないかということ。繋がり至上主義のアホになっている。繋がりバカ。テクノロジーの進歩で、ライン、ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ハッピーメール、ぎゃるる、などなど、知らない人と繋がるチャンスは増えるばかりだ。繋がりが善意だけで構成されているはずがない。繋がりが増えれば、生きにくさも増える。ちょっとした意見の相違や犯罪まがいのトラブルも生じるだろう。人との繋がりを重視する一方で、孤独は避けるべきものとされすぎている。孤独が忌避される理由、それは人との繋がりは金を生むが、孤独は金になりにくいからではないだろうか。結局のところ、ビジネスになるかどうかなのだ。先ほど、これは無理、と思ったら繋がりを捨てて鹿を追えばいいと提言したのは、思い付きや勘ではなく、そういう背景があることを僕が経験と尋常ならざる観察眼で看過したからである。

 僕は生きにくさを感じない。そのせいでときどき妻から「キミからは人間味を感じない」と言われてしまうこともある。正確にいえば、僕は生きにくさを感じないようにしている。僕は人との付き合いにおいて、きっつーと感じるようになったら、その人を敵にしてしまう。生きにくさは人に合わせる無理。そういった無理をしないように自分を制御しているだけのことだ。おかげさまで敵ばかりで闘争も多く損ばかりしている気もしないでもない。もっとうまいやり方や付き合い方もあるだろうが、不器用な僕は、対象をエネミーにして、自分というものが影響されないようにしている。生きにくさのレベルは人それぞれなので、自分で対処法を見つけていくしかない。ただ、生きにくさを覚えるのが人間として当たり前であること、そしてその本質が人に合わせることによる無理、だとわかれば、付き合い方のヒントにはなるのでないかと僕は思うのだ。

 実は僕も最近イキにくさを感じている。よかった。僕はまだ人間であるらしい。綾瀬はるか様。深田恭子様。長澤まさみ様。冷めたカップラーメン。残り物のトコロテン。苦節40年。人生そのものといっていいほどの長い時間ををかけて体得したスキルをもってこれらを駆使しても、加齢のせいだろうか、全然イケない。僕にいわせれば、僕が目下直面しているイキにくさとの絶望的な戦いに比べれば、この国の皆様が感じている生きにくさなどは取るに足りない敵なのである。気楽に生きにくさと付き合おうぜ!ガンバレ、日本!(所要時間41分)

米山新潟県知事の辞職によせて。

米山新潟県知事と女子大生のけしからん交際発覚からの知事辞職!という一連の流れに際し、ざまあ、と思った心の汚い自分を今は恥じている。それが正義からではなく、嫉妬心や羨望や妬みからの「ざまあ」だったからだ。告白しよう。僕も、女子大生が、好きだ。定年まで働いたあとは、女子大のアルバイト警備員として女子大生を守りたい。それが僕の思い描く理想のセカンドキャリアだ。米山新潟県知事の会見を見て、僕が彼に感じたのは奇妙な純粋さである。そして僕は確信している。女子大生とお近づきになれるか否か、僕と知事との決定的な違いを生んだのは純粋さだと。能力ではない。東大出の医師免許と弁護士免許を所持する天才と、普通自動車免許といかんともしがたいEDを所持する僕とでは能力面では比べるべくもない。僕が知事に勝っているのは猜疑心の強さくらいのものだろう。

だが、女子大生とお近づきになれるか否かという重大な問題において、こうした能力の差は決定的な要因にはならないと僕は思っている。報道によれば知事はハッピーメールという出会い系サービスを利用して女子大生とリアルガチでお会いしてちょめったらしい。それを知ったとき悔しさのあまり僕は血が流れるほど唇を噛んだものだ。僕は手遅れと知りながら、ハッピーメールのアプリダウンロードコーナーを閲覧した。レビュー欄だ。「いいね!」「さいこー!」という利用者の声、声、声。これまでキャバクーラや店舗型風俗店で騙され、高い授業料を強制徴収されてきた僕には、こういう界隈のポジティブな声が、すべて嘘に見えてしまうのだ。全部ウソだ。みんなサクラだって。指名コーナーのお写真では麗しい御尊顔だった女性が、実際には元横綱朝青龍ことドルジさんにクリソツだった過去が僕を懐疑心の塊にしたのだ。あの夜ほどフォトショ加工を憎んだ夜はない。僕がハッピーメールをダウンロードしていても、どうせサクラだ、もしかしたら同性かもしれん、つってメッセージを送らなかったと思う。米山知事はちがった。ピュアな彼は女性陣の「新潟市在住のおじさまの好きの女子大生で~す!英文学を専攻してま~す」的はプロフを信じ、そしてメッセージを送ったのだろう。信じる者は救われるとは真理だったのだ。

1997年、米山知事が司法試験を受けて法曹への階段を上がろうとしているとき、僕はキャバクーラをハシゴしていた。真面目に学業に打ち込んでいれば、多少、世の中に疎くなるのは仕方がない。指名コーナーはドルジばかり、出会い系はサクラばかりという僕にとっての、いや、おそらく世間一般の常識は、世の中におぼこい知事にとっての常識ではなかったのだ。「サイトの向こうには出会いを求める女子大生がいる」そんな僕らにとってのファンタジーを、知事は純粋さで「おじさま好きの女子大生で~す!」をリアルに変えたのだ。先入観を持たず、疑わず、「女性にメッセージを送りますか?」でイエスをポチットできる純粋さ、それだけは尊敬に値する。先入観をもたないこと。これはビジネスにも通じることだ。先日、僕が先入観で儲からないと切り捨てた案件を、競合他社が軌道に乗せたという話をきいた。先入観がチャンスを潰すことがあること、そして純粋に信じることの大事さを知事は僕に教えてくれた。

誤解を恐れずにいえば、おぼこい知事の過ちは女子大生との付き合い方のみだ。女子大生は情熱的で燃えるような禁断の果実である。口にしてはいけない。ましてちょめちょめなど言語道断。近づきすぎてはならぬ。その禁忌を破れば、どれほど純粋な心を持つ者であれ、太陽に近づきすぎて翼を焼かれたイカロスのように墜落しても仕方がない。同じ趣味趣向を持つ者としては捲土重来を祈りたい気持ちも多少はあるが、今のところは、ざまあ、辞職やむなし、としか言えない。こんな心の汚い僕は援助交際もせず真面目に生きていても、永遠に女子大生と巡り合えないだろう。それだけが悲しい。(所要時間18分)