Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

さようなら、はてなダイアリー!テキストサイト界の底辺で死にかけていた僕を救済してくれてありがとう!

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▲はてなダイアリー時代の一時期、水彩画ブログにしようとしたこともありました…。

2019年春「はてなダイアリー」終了のお知らせと「はてなブログ」への移行のお願い - はてなダイアリー日記

「はてなダイアリー」が終わると聞いて、「はてな」にやってきた当時を思い出した。僕がはてなダイアリーにはじめて投稿したのは2003年の年末で、きっかけは僕が細々と運営していたテキストサイトを読んでくれていた小説家の逸木裕氏から「はてなダイアリー」をおすすめされたからだ(ご本人は忘れているかもしれないが)。それから2013年の年末までちょうど10年間、途中アカウントやハンドルネームを変えながらも書きつづけ、はてなブログへ移行して現在に至る。そう、テキストサイトだ。僕は1990年代の終わりからウェブ日記的なものを書いている。利用してきたウェブ日記サービスを挙げてみる。さるさる日記。大塚日記。ライコスダイアリー。それからはてな。渡り鳥生活だ。あくまで母体はテキストサイトで、ウェブ日記的なものは、更新頻度をあげるためのコンテンツだった。内容も、その日あったことの記録と所感を淡々と綴っていただけだ。「家系ラーメンを食べて腹を下した。今後は脂少なめにしよう」みたいな感じの。もっとも、僕が運営していたテキストサイトは、皆さんが懐古するようなゼロ年代初期の文章芸のようなサイトではなく、《映画や小説の演出効果と構造分析》をコンテンツにした暗くてニッチなものだったので、読んでいる人は少なかった。閲覧者なんて1日10人くらいだったはず。そんなテキストサイトの底辺にいた僕から見ると、いわゆるテキストサイト・ブームの主役だった運営者たちは新時代のスターに思えた。日記系といわれていたのかな、画像も少なめで、日常のちょっとした出来事を面白おかしくネタにしている彼らに、少し嫉妬をおぼえつつも憧れていた。僕と同年代か、少し上のフツーのシロートでもこんなに面白いことが出来るのか!という感動とともに。僕と同じように仕事を終えたあとシコシコと文章をかいてネットに放流している彼らの姿を想像しては、テキストサイトの底辺から、勝手に、妙な一体感を覚えていたのだ。ある日を境にテキストサイトのスターたちへの僕の憧れは急速にしぼんでしまう。ある日が、いつだったか、はっきりとはわからないけれど、テキストサイトのスター、有名人たちが連帯してイベントを企画してネットから飛び出したり、サイト以外の場所で連載を持ったり書籍を出版するようになってからだ。面白さは変わらなかったけれども、シコシコと書いている自分との距離感を感じてしまったのだ。僕にとって、テキストサイトや日記系、今でいうブログというのは、ごくごく個人的なものだ。だからイベントや出版という次のステージに進んでシロートからプロ的な存在になった彼らにシンパシーを抱くことは難しかったのだ。僕とは違う…そんなふうに考えていたときに出会ったのが「はてなダイアリー」だ。2003~4年のはてなダイアリーには僕が求めていたシロート的な面白さがあった。正直な感想をいってしまうと、テキストサイトのスターや有名人と当時の平均的なはてなダイアリー利用者では、スキルでは天と地の差があったと思う。だが、下手くそなシロートだけども面白いことやってやるというパンク精神や好きなことについてだけ延々と語る独立精神が当時のはてなダイアリーにはあった(僕の観測範囲では)。当時は「はてな」や「はてなダイアリー」のトップを眺めるたびにパンクのような勢いのあるダイアリーを見つけることが出来た。今の「はてなブログ」は、文化として成熟してしまったからだろうね、ウケる(読まれる)コンテンツみたいな方法論が確立してしまっていて、まあそれは悪いことばかりではないのだけども、正直、《その人じゃなければ書けない記事》は数えるほどしかない。はてなブロガー諸兄は、読まれることを考えすぎなのではないか。いちど、シコシコと自分語りをしてみてはどうだろうか。多くの人から読まれたいというのは結果にすぎない。書きたいことを書くのがブログだと思うし、そうじゃなきゃ続かない。それに他人からの評価を気にするのは仕事や学校だけで十分じゃないか?僕が今、はてなブログでやっていることは、かつて僕が親近感を覚えていたテキストサイトの2018年版だと最近、自分で気づいた。おかげではてなブログでは浮きまくっているけれども、まあ仕方ない。かつてのテキストサイトのスター・有名人はそのままウェブの世界でも有名人になっている方が多くて「スゲー!」と思うけどシンパシーは感じない。彼らは結局のところ芸能人枠なのだ。僕の中で。なんというか違うのだ。僕とは。その距離感は憧れだったテキストサイトたちに違和感を覚えたあの頃からあまり変わらない。あの頃のテキストサイトの空気に似た、はてなダイアリーの雰囲気が僕は好きだった。僕=フミコフミオという存在を作ってくれたのは間違いなくはてなダイアリーだ。僕に居場所を与えて、受け入れてくれたはてなダイアリーには本当に感謝しているし、終わってしまうのはやはりちょっと寂しい。願わくば、はてなダイアリーにあったパンク精神や、書きたいことだけを書きつづけるみたいな風潮が、今よりも少しでもいいので、はてなブログ界隈からも感じられるようになるといい。今、僕は「はてなブログ」で書いているけれども、気分はずっと「はてなダイアラー」のままだ。親しくしていたはてなダイアラーの多くはヤメてしまったけれど、僕はこれからもはてなダイアラーの生き残りとして書き続けていきたい。僕が「はてなダイアリー」を終わらせない!本当に、ありがとう、さようなら、はてなダイアリー。これからもよろしく。(所要時間25分)

ヒトにはオススメしないけれど40代で無職になって良かったと思っている。

前の会社を勢いで辞めてから今の会社に入るまでの約8ヵ月間は(短期間バイトはしていたけれども)無職で、精神的に辛い時期ではあったけれども、40代前半で夢や目標もない「明日はどっちだ?」期間を経験しておいて良かったと今は思っている。感謝すらしている。あのハロワ通いをした時期はこれからの僕を突き動かす燃料になってくれるだろう。無職になる前の僕は、実力もないくせになぜか強者の立場から、仕事をしていない人間、いわゆる無職を一緒くたに見下していた。「いろいろ理由をつけて仕事をしたくないだけなんじゃね?」「努力不足の怠け者じゃね?」と。だが、自分が40代で無職になり、無職の彼らと同じ目線で世の中を眺めてみて、いや、かつての僕みたいな人間から、怠け者に見られてみて、初めて見えてくるものが多々あった。僕の認識は間違っていた。それも完全にだ。まず、当たり前だが、無職の人は必ずしも仕事をしたくない人、怠け者というわけではないことがわかった。僕がそうだったように働きたくても働けない人間もいた。もっとも悲惨なのは、無気力といえばいいのか諦めといえばいいのかわかりかねるが、求職活動を通じて働くこと職を探すことに関心を失っていく人たち。ハロワで知り合った人たちとハロワから直で安居酒屋に行って酒を飲んだことが一度だけある。みんな僕より10歳ほど年長の、いわゆるバブル入社組より少し上の世代(50代後半?)だったけれども彼らの口を突いて出てくる言葉は「こんなはずじゃなかった」という後悔と「もうダメかも」という絶望一歩手前しかなく、その後、彼らをハロワで見かけることもなかった。今、彼らがどういう状態にあるかわからないが何とか生きていて欲しいものだ。そういう頑張っている人たちを目の当たりにして僕が「無職でもみんな頑張っている…僕らは働いていようがいまいが皆同じ人間なんだ…」「ビバ人間!」と人間の素晴らしさに目覚めるようなことは一切なかった。思っていた以上のクソみたいな怠け者もいたからだ。ハロワの失業認定日にいいかげんな求職活動を報告をして基本手当で飲む・打つ・遊ぶ、そういう人間は予想よりも多かった。無職は怠け者という僕の認識は間違っていた。無職のなかには無職の品格を貶めるような本当のクソ無職がいるのだ。僕はそういったクソ無職を今まで以上に見下していこうと心に決めている。そして、仕事をしていない無職に「大変だねー僕には無理だよー」つって同情しているようで上から見下している、かつての僕のような輩も同じように軽蔑していこうと決めている。結局のところこうやってひとつひとつ生真面目に対応していくと敵ばかり増えて戦場じみていくのだけど人生とはそういうものなのだろう。これが常在戦場ってやつか…。僕が今の仕事にありつけたのは、たまたま、ラッキーなだけであって、もしかしたら今もあの安居酒屋で酒を飲んだ彼らと同じように絶望一歩手前にいたかもしれない。残酷だけれども今の日本ではある程度の年齢に達してしまうとスーパーな能力がないかぎりタイトロープから落ちてしまうと這い上がるのはなかなか難しい。前の職場のラスト半年間、僕はボスからリストラ担当をまかされて、なるべくスタッフの職は守ろうと努めたけれども、何人かは辞めてもらった。一応、全員の次の職は見つけたが馴染めずに辞めてしまった者もいると聞いている。当時は、自分の責任は果たした、彼らがその先をどう生きるかは関係ない、とドライに考えていたけれども、決してスーパーな能力を持っているとはいえないリストラ対象の彼らが、サクセスしている姿を想像するのは難しい。もっと自分に出来ることはなかったか?と今振り返るのも自分自身が無職になったからだ。だからこそ「仕事がつまらないなら今すぐヤメればいい!」と無責任に言う人間が許せないのだ。責任を取らないでいいならどんなことでも言える。悩んでいる人間に無責任さは威勢の良さに見え、魅力的にみえることもあるだろう。だが無責任に人の人生を狂わせてはならない。以前の僕なら謎の強者ポジからそういう無責任人間に近いことを言っていたが、今はとても言えない。仕事を辞めろという前に、一度、無職になってハロワ通いを経験してみるといい。おすすめはしないけどね。(所要時間21分)

「家事をやらないオット」と「ママ閉店」について家事を妻と折半している僕が考えていることは果てしなくゲスい。

家事は妻とほぼ折半している。「ほぼ」とあるのは妻の下着の洗濯が妻に独占されているからである。「肌への密着で汚染された布を殿方に触れさせるわけにはいかない」だそうだ。愛情なのだろうか。はたして僕がブラジャー洗濯童貞を捨てる日は来るのだろうか。最近、家事を積極的にやるようになったのは、家事の楽しさに目覚めたから、家事の大変さがわかったから、男女平等の観点から、という素晴らしい動機から、ではなく、一年前の無職時代の後ろめたさと、《家事をちゃんとやるマン》の方が《やらないマン》より確実に女性にウケてモテるという極めて純粋で現実的な動機からである。大事なのは行動。誤解を恐れずにいえば、動機や理由などはどうでもいいのだ。

僕が子供の頃、実家はいつもピカピカだった。専業主婦だった母が完璧に家事をこなしていたからだ。板張りの廊下は埃ひとつなく綺麗に磨き上げられていた。だが、ある日を境に廊下から輝きが失われてしまった。まるで成長とともに僕の股間の可愛いゾウさんがグロく黒ずんでしまったのと足並みをあわせるように。父が亡くなり家計を支えるために母がフルタイムで働きはじめたのだ。仕事と家事を完璧にこなす人ももちろんいる。だが、母はそういうタイプではなかった。慣れない仕事と格闘した結果、家事がおろそかになってしまった。プライドの高い母は、仕事での苦戦を口に出すような真似はしなかったけれど、ときおり見せる疲れ果てた表情から、彼女の苦闘は伝わってきた。だが若い頃の僕は、母の代わりに家事を引き受け、汚れてしまった廊下を元に戻そうとはしなかった。それどころか、口に出すことはなかったけれど、なぜこんなに家が汚くなってしまったのか、という不満を態度に出したことすらあった。どうしてそんな態度を取ったのか今となっては理由はよくわからない。ただ、なんとなくとしかいえない。なんとなく、汚い家がイヤだった。なんとなく、なぜ僕がそんなことをやらなければならないのかと憤っていた。ただなんとなく、それが自分の役割ではないと信じきっていた。トンがっていたからでは許されまい。

母は約20年、定年まで働き退職した。今、家はもっとも生活が不安定であった時期に比べればだいぶマシになったが、それでも父の生前と比べてしまうと、経過した年月をあって、古くなり汚れが目立つようになった。母も年を取った。健康ではあるけれど、かつてのように家の隅々まで掃除をするような体力の余裕はない。もちろん休みの日に実家に帰れば、掃除や整理をしてあげるけれども、所詮は素人オッサンの仕事なので、かつての廊下の輝きを取り戻せはしない。今、僕は家事代行サービスに掃除を頼んでいる。かつて自分がやりたくないと思っていたことでも、今ならできる。カネをかけて他人の手を借りれば。当たり前だが、親のため、親孝行のためにこんなことをやっているわけではない。全部、自分のためだ。過去の酷い行いを帳消しにするためである。問題は行動なのであって動機などは本当にどうでもいいのだ。

「家事をオットがやってくれない」「家事の分担が不公平!」みたいな話題には事欠かない世の中である。オットがやるのか。ヨメがやるのか。はっきりいって他人の家などどうでもいいのにほぼ毎日のようにネットであれこれ議論になるのが不思議でならない。もちろん平等に分けるのがフェアでベストなのは誰の目にも明らかだ。そのなかであえてゲスな言い方をするなら、家事をやらない男性はそのままやらないままでいてもらいたい。彼らが批判のターゲットとなることによって、「家事は基本的に妻と折半ですよー」「ごはん美味しくできたよー」とSNSでアッピールしている僕という人間の価値、つまり女性からのモテ度数は相対的にあがるからである。決して綺麗な動機ではない。だが大事なのは行動と結果なのである。この文章を書いているときに「ママ閉店」というキーワードが炎上していた(詳細は各自確認してくれ)。僕には子供はいないけれど、もし妻が「ママ閉店したいの…」といってきたら喜んでパパ開店する。その動機については言うまでもないだろう。

今朝、弁当当番なので早起きしてパリパリに焼いた鮭をオニギリに入れてみた。妻にもオカズと持たせた。昼食べたら1個100円もかかってないけどやたら旨かった。やってないことをやらないと、こういう小さくて新たな発見ってないんだよね。(所要時間19分)

ブラック上司が身をもって教えてくれた「時間を生み出す方法」が魔法レベルで役に立っているので全部話す。

「責任を取るためにお前たち部下がいるんだろう?」「俺はチャンスをピンチに変える男だ…」「腹を切って話合おうや…」「価格は安いぶん内容もそれなりのロストパフォーマンスに優れた商品です」「刺身が生なんだが」「女房の配偶者が死んだ…」数々の暴言とハラスメントで僕を休職に追い込んだブチョーが孤独死してから早4年。認めたくないが、もう、この世にはいないクソ上司ブチョーから教えられたことが今の僕を救ってくれている。

管理職になってから新規面談をする機会が増えた。そのすべてが商売に繋がっているのならいいのだが、残念ながら、実際には商売にならない無駄な面談も多い。もっとも困るのが時間の価値がわかっていない人との面談。時間は一番貴重な資源である。だが、世の中には「ちょっとだけ時間をもらえますか」つってどういう内容の話になるのか説明もせずに他人様の時間をかすめ取ろうとする人間が結構いる。本来、そういった時間の大切さがわかっていない人間とはいい仕事が出来るとは思えないので、僕は会わないようにしている。だが、ここ数が月間にかぎっていえば、新規部署の責任者になったばかりという事情もあって、ハードルを下げてコンタクトを取ってくる人とは基本的には会うようにしてきた。予想通り、具体性のない話をする人がそれなりにいた。雑談マンである。バカなビジネス書に雑談ができる営業マンがホンモノの営業マンとでも説いているのだろうか。

暑いですねからの子供あるいはスポーツネタからの業界裏話。雑談マンは無駄に話を伸ばす技術だけは長けているので困る。いちおう話を受けて容赦なく「そろそろ本題に…」と切り出すのだが、それくらいでめげる雑談マンではない。営業苦労話。最近体調良くない話。会社業績イマイチ話。こちらの話が聞えていないように話を続けるのだ。そらそうだ。雑談マンは商談が目的ではなく、長話をして親密な関係を築けば有利な条件を引き出せると信じて、出来るだけ長く話をすることを目的にしているのだから。アホか。

死んだブチョーもその手の人物だった。「雑談王」を自称し、意味不明の、ただ、謎の自信と勢いだけはある自慢話を相手に投げつけ続けた。その結果、出入り禁止になることも多かったが、「わかった、ハンコ押すから勘弁してくれ」と根をあげて契約に至ったレアケースもあった。そんな自称雑談王のブチョーが返り打ちにあったことがある。僕はその現場にいて、馬鹿雑談を打ち切るにはこれしかないと感銘を受けたものだ。その人は新規見込顧客の担当者で、「実は…我が社のおにぎりは軍事転用が可能です…」とブチョーがくだらない話をはじめるや否や、手をパーにして遮り、「最初に要点をお願いします」といった。やべえと思った僕がフォローして面談を進めると、ブチョーの繰り出すくだらない雑談に対しその担当者は、ほう、ほう、はーん、とさも小馬鹿にするような相槌を打っていた。誰もがみてもバカにしているとわかったような露骨な小馬鹿。だが、悲しいね、己に対するマイナスな感情の存在を信じないクレイジーなブチョーには通じなかった。ブチョーはほう、ほう、はーんに心から気を良くしているようだった。こやつ俺の話に感動しているな…というふうに。ブチョーは気持ちよくなったのだろうね、さらに話のトーンをあげていった。「ほう、ほう、はーん」小馬鹿相槌と「ホニャララピンチはあったけど全部自分の力で乗り切りました。なるへそなー」トークとの宇宙一無駄な戦争を僕は傍らで目撃した。人生でもっとも無駄な時間だった。

担当者が先に仕掛けた。「いやいや部長の面白い話で場もあったまってきたところで、そろそろ本題に行きましょうよ。今日は何ですか?」ブチョーは良くも悪くも、というか悪いところしかないけれど、バカ正直に「今日は雑談に参りました!」と絶叫した。担当者が呆れて硬直しているところに「雑談に参りました!」と追い絶叫。雑談に来た!わざわざ僕をつかってアポ取らせておいてこれかよ…。絶望しかなかった。ブチョーは本当に何も用事はなかったのだ。すると担当者氏は目の前に広げていた手帳を、雑談ならこれはいらなかったですな、と嫌味っぽく言いながらパタンと勢いよく閉じて、「雑談を続けるならご自由にどうぞ、こちらのミーティングルームはお貸しいたします。私は次の用事がありますので」といって出て行った。「奴は怖じ気づいたな…」と客のいなくなった部屋で自慢気に話す部長を横目にみながら、僕は恥ずかしさのなかでここには二度と来られないなと思っていた。

 雑談マンに対しては、一度話をさせてからこの手帳パタン作戦を実行するようにしている。雑談に一度乗ってからの手帳パタン「雑談を続けるならご自由にどうぞ」退室。これをやられた人は二度とやってこなくなるので、雑談マンを遠ざけ貴重な資源である時間を守るために最高の作戦だと思う。今のところ雑談マン退治に絶大な効果を発揮している。超おすすめ。あのブラックを体現していたかのようなブチョーから教えられたことが、ホワイト環境で働く僕を助けてくれている。ありがたいことだ。今、おかげさまで平穏な環境にいるけれど、あの過酷でハラスメントしかなかったブチョーとの時間を、僕はときどき懐かしく思い返す…ことはない。絶対にない。(所要時間23分)

どうすればよかったのだろう?施設から学校へ通っていた友人に言われた言葉が忘れられない。

自転車に乗った小学生くらいの男の子2人組が、会社へ向かう僕の脇をすり抜けていった。夏真っ盛りの海に行くのだろう、浮き輪を腕に通して大騒ぎだ。すれ違いざまに見た男の子たちの姿に、僕はかつての自分たちを重ねてしまう。子供の頃の僕自身と、懐かしくて、苦い、あの夏にいるショウちゃんの姿を。僕は、なぜ、あんなことをしてしまったのだろう?と過去の自分に問いかけてもどうにもならないのだけど、問いかけることしか出来ない。

 

ショウちゃんは小学3年~6年まで同じクラスにいた男の子だ。仲間たちと一緒に遊んだ記憶はあるけれど、2人きりで遊ぶような特別仲のいいクラスメイトではなかった。ショウちゃんには両親がいなかった。児童養護施設から小学校へ通っていた。当時は気が付かなったけれど、今思えばそういう環境にいた彼を少し避けるような空気が確実にクラスにはあった。《シセツの子を誘ったらカワイソウだよ》みたいなことをいう友達や、ショウちゃんを映画やプラネタリウムに誘うのを躊躇するクラスメイトを僕は覚えている。クラスで何か問題があると根拠もなくショウちゃんを疑うヤツが必ずいた。僕らの「カワイソウ」の裏には「シセツの子は普通じゃないから」という思い込みがあった。

 

僕はショウちゃんと背丈が同じくらいだったこともあって(チビだった!)、座席でも背の順整列でも近いポジションを与えられており、先生からショウちゃんの相手をするように言われていた。ショウちゃんは大人しかったので僕の方が一方的にあれこれと話すような奇妙な関係だった。今、振り返ってみてもショウちゃんが話している言葉、会話というものをほとんど思い出せない。記憶の中にあるのは僕の声ばかりなのだ。

 

ショウちゃんは勉強がまるで出来なかった。宿題や係の約束事や決められたことも出来なかった。そして遠足や学外活動になると必ず行方不明になった。ショウちゃんが行方不明になるたびに僕らはクラス全員で探し回った。「ショウはシンカンセンなんじゃね?」「あいつシンカンセンだろ!」という声をあげる者に「そんなこと言うな!」と言い返す者も出てきて、クラスが微妙な雰囲気になった。当時、特殊学級というクラスがあって、ハンディのある子はそのクラスで学ぶようになっていた。特殊学級=トッキュー=シンカンセン。無邪気な残酷さが生んだ忌むべき造語だ。確実なことはいえないけれど、ショウちゃんは何らかのハンディを抱えていたのかもしれない。

 

僕も行方不明になったショウちゃんを見つけたことがある。公園のトイレの裏にいて、悪びれたり反省する様子もない、ただヘラヘラしてる彼に虚しくなってしまった。なんで決められたことが出来ないのだろう?こんな簡単なことができないのだろう?まだ子供だった僕には普通のことができないショウちゃんは理解不能な生き物で化け物のように見えた。そしてショウちゃんが何か変なことをやるたびに僕は先生から「なんで目を離したの?」「わからなかったの?」と毎回注意をされるのが本当にイヤで、ショウちゃんに対してというよりは先生に対する不信感から、ショウちゃんが新幹線に乗ってくれるのを僕は望むようになっていた。当たり前だけれど、その希望を僕は口や態度には出さないようにした。必死に隠し通した。

 

僕はいい友人であろうとした。彼が変なことをやりそうなら、ダメだよ!と注意し、事を起こしたら、事態をおさめるように動いた。もちろん草野球も一緒にやったし、サッカーやドッヂボールの際は声をかけた。でも「ショウちゃんとのあいだに友情が芽生えていたか」と誰かにきかれたら「あった」とは言い切れない。先生や周りからショウちゃんのことであれこれ注意されたくないという気持ちが大きかったからだ。もしかしたら、いや間違いなく、クラスのなかで彼のことを一番疎んでいたのは、一番近くにいて、一番面倒を見ている僕だった。それでいて、ショウちゃんは僕のことを一番信頼している、僕に感謝してくれていると信じていた。これだけやってあげているのだから、こんなにも庇っているのだからと。

 

ショウちゃんは勉強が出来なくてヘラヘラしていたけれど、僕のそういう傲慢さを見抜いていた。小学校を卒業して、中学生になった僕らは夏休みに駅前でばったりと会ったのだ。同じ中学校に進学したけれども、違うクラスになっていた僕らにとって久しぶりの対面だった。僕が声をかけると彼は「嘘つき」とだけ言った。穏やかな水面に小さな石つぶてを落としたときのポチャンという音みたいな静かな口調だった。響いた。ショウちゃんは、新幹線と揶揄されていたショウちゃんは僕の欺瞞に気づいていた。そう、彼は僕という人間を見抜いていたのだ。

 

ショウちゃんが今どこで何をしているのか僕は知らない。施設を出て大人になった彼がどのような人生を歩んでいるのだろう?そもそも彼は大人になれたのだろうか。タイトロープみたいな人生をうまく渡れているだろうか。たぶん何度も落ちかかったりしているだろう。だから、どうか、ロープから落ちそうなとき、彼の傍らに救いの手を差し伸べてくれる人がいますように、そう、僕はかつての僕とショウちゃんの姿を重ねた男の子たちの背中に向けて、祈った。「嘘つき」といわれたときの恥ずかしいような逃げ出したいような気持ちは、いつも僕の中に残っていて時折、今日みたいな良く晴れた夏の日になると、咎めるように顔をのぞかせる。それが僕の犯した罪に対する罰なのだろう。(所要時間27分)