Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

経営コンサルタントをコンサルティングしてみた。

いつぞやの名刺交換会で名刺を交換した経営コンサルタントの人が、絶対に御社の役に立ちますから、時間を無駄にしませんから、一時間だけ、一度だけ、一度だけ、と下手くそなナンパみたいなラブコールを送ってくるものだから、先っちょくらいなら時間の無駄にならないかと思って面談した。ヤメときゃよかった。ま、そのときは相談に乗ってもらいたいこともないわけではなかった。新規事業の事業計画でちょっと悩んでいたからだ。その新規事業は、《新規事業アイデアを出せ》というボスから幹部クラスへの課題に対して僕が便秘気味の脳からひねりだしたものである。採用されても面倒くさいし(余裕がない)、手抜きなものを出したら失脚しかねない、という極めて厳しい条件下で、実現性は僅かながらあるがアホらしいので正気の会社ならやらないであろう、ふざけた事業アイデアを出したつもりだったが、なぜかボスの琴線に触れてしまい、「面白いから進めてくれ」のひとことで事業計画書にまとめることになってしまった。きっつー。コンサルタントの人はそんな僕の悩みを聞くと「お力になれると思います」と力強く言い、持ち帰って改めてご提案と御見積をお持ちします、と強引に約束させられた。おかしい。一度だけのつもりで会ったのにもう一度会うことになっている。なるほど、このテクニックを女性につかえばいいのだね。もういっぺん。お願いだから、もういっぺん、つって。2日後にコンサルタントの人とふたたびお会いした。提案は真っ当なものであった。守秘義務があるので詳細は話せないので、ブルーオーシャン、ニーズ、潜在的、クライアント、スピード感、プラン、ソリューション、コミットという言葉の羅列に留めさせていただくが、この何千倍の文字数があったはずの素晴らしい本提案も、これ以上の内容はなかったように思えるから不思議である。彼は、この事業には未来があります、絶対にうまくいきます、御社と一体となって頑張ります、と決意を述べてから、どぞどぞ、とそそくさと書類を差し出してきた。御見積書である。中身を拝見すると、「コンサル料(導入月)〇〇万円、アフターケア@月〇〇万円」と記されている。「御冗談を…」と僕は言った。これはかつて仕えたクソ上司の口癖。知らず知らずうつってしまったらしい。真珠湾攻撃の翌々年に生まれたクソ上司はゴジョーダンヲで先制攻撃を仕掛けるのを是としていた。コンサルタントの人は、「何か問題でもありますか?ご予算との兼ね合いがございましたら多少は…」みたいなことを言い始めたので、違う違うと話を遮った。「これだと契約期間中は一定額を払い続けることになるよね」「はい」「コンサルをお願いする新規事業がさ、順調にいって利益が出ればいいけど、もしうまくいかなかったらどうなりますか?」「PDCAでいうCA、評価して改善するお手伝いをいたします」「コンサルの人はそう仰いますよねー。でもPDCAには私、いい加減PTSD気味なんですよ」「といいますと」「さきほどウチと一体になってやると仰いましたよね」「そのとおりです」「では歩合でどうですか。完全歩合。新規事業の売上の〇パーセントをコンサル料としてお支払するというのは」「なるほど、そういうご契約のクライアント様もおりますので問題ございませんよ」「完全歩合を厳密にとらえると、新規事業がうまくいかなかったときは、赤字の〇十パーセントを逆にお支払いただくことになりますね。もちろん交通費や必要経費はお支払しますが…」「それは無理です」「なぜですか?この事業は絶対うまくいくのではないのですか。コンサルタントさんは、うまくいったときはオッケーで、ダメだったときの責任は取らないのですか?コンサル業ってそういう仕事のやり方でいいのですか?そんなイージーな仕事ないですよね」それから、この事業は専門家の目から見てうまくいくのですか、いかないのですか、教えてください、どうなんですか、失敗するのですか、教えてください、山は死にますか、川は死にますか、と立て続けに僕が詰問すると、コンサルタントの人は「正直いって少々難しいと思います」といい残して去って行った。彼は何が難しいのかは言わなかった。事業なのか、それとも、僕という人間なのか。これまでコンサルタントの方には同じような話をしているけれど、今のところ、契約まで至ったことがない。コンサル業とはそういうものなのだろうか。それとも僕がおかしいのだろうか。ただ、僕からすれば、責任のない仕事にしか見えない、ごく一部のコンサルの在り方について普段から思っていたピュアな疑問を率直に投げかけただけなのだが、なぜだろう、彼とは二度と会えない気がする。それが残念でならない。(所要時間23分)

ネットで知り合った友人のお別れ会に参加した。

事件に巻き込まれて亡くなった知人のお別れ会に参加した。事件の性質もあるので会の具体的なことには触れずに僕の思ったことだけを書いておきたい。彼とはインターネットを通じて知り合ったので、お別れ会でリアルな関係性である彼の職場関係や旧友の方々と触れて、改めて「事件が現実に起こった」と思い知らされた。知人の命は本当に失われてしまったのだと。あれから僕は「事件」をまったく追っていないので、現在、捜査がどのように進んでいるのか、事件がどのような文脈で語られているのか、知らない。直前までわりと頻繁に会っていた人が、殺人事件の被害者になってしまったという現実を僕はまだ受け入れられない。類似事件の防止策とか犯人の動機とか事件の背景などとても考えられない。だからお別れ会への参加も当日まで悩んだのだけれど、今は参加して本当に良かったと思っている。僕は44歳だ。この年齢で特に僕のように天邪鬼な性格だと、仕事以外で、人と知り合うのはなかなか難しいのだ。彼は数少ない例外で、これから親交を深めていくなかで知りえたであろう彼の人となりや彼の人生の一部を、スピーチやスライドでほんの少しでも知ることが出来たからだ。そして何よりも、ご遺族に直接お悔やみの言葉をかけられてよかった。どんな言葉をかけようか考えてきたけれども結局はまとまらずに、このたびは…、本当に残念で…などと無難な言葉の羅列に終わってしまった。そもそもこういう事件の被害者の遺族の心中に見合うお悔やみの言葉などないのかもしれない。まだ若いのに…、これからやりたいことがあったのに…という知人の無念に対する悔しさは募るばかりだけれど、お別れの会に参加してみて今までとは少し異なる感情が沸き起こってきた。知人だけはなく知人にかかわってきたすべての人の人生の一部がそれぞれの程度で奪われてしまったことへの怒りと無念だ。僕は、自分から積極的にネットから出て交友関係を築くようなことはしていないので、会に参加していた人たちは全員初対面だった(ネットを通じて知っていた人はいる)。もし事件が起きなかったら近い将来、知人を通じ、介して知り合ったかもしれない人たち。彼らと献杯をしながら「本当ならこんな形で会いたくなかったですね」と話したときに感じた虚しさを僕は忘れることはないだろう。訪れたであろう未来。築かれたであろう人間関係。事件は、知人の命だけでなく、僕らからそういったものも根こそぎ奪ったのだ。会に参加していた人たち、知人に関係した全員から。その無念と怒りはしばらくおさまらないだろうし、あるいは消えないかもしれない。会で初めてお会いした方と「ブロガーやネットウォッチャーではない彼の普通のオッサンである部分を忘れないようにしたいよね」「本当にそうっすねえ」と意気投合した。最近、僕は普通であることの難しさと大切さを思い知らされている。インスタ映えや意図的なネット炎上を狙って普通の生活を燃やすことに何の意味があるだろうか。僕はほとんどないと思う。何らかの意味があったとしてもそんなものは時間が経てば忘れられてしまう種類のものだろう。それよりも普通であること、普通であり続けることの方がずっとエキサイティングで面白いと僕は思うのだ。だから今回の事件で知人の命と彼とかかわった人々の人生から大きなものは奪われてしまったけれど、普通の生活を続けることで暴力では奪えないものがあるのだと証明したい。ごくわずかな援助をのぞけば僕に出来るのはそういうささやかな戦いを続けることしかないのが悔しいけれども。僕と彼はまだ友人といえるほどの関係ではなかった。だからこの文章でも知人としている。これから友人になるはずだった時間を奪った事件を僕は絶対に許さないし、忘れないだろう。

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形見分けも遠慮するつもりだったがご遺族から「故人は本当に物が多くて困っているので助けるつもりで持っていってください」といわれたので財布だけ分けてもらった。フォールアウトとはイイ趣味してるぜ!(所要時間19分)

「仕事を任せられる存在をつくれ」「部下に仕事を落として楽をしろ」の本当の厳しさがわかってしまった。

夏休みを7、8月中に取得できなくて社長から注意されてしまった。遊ばずに働いて叱られるのは、正直いって面白くないし、納得できないが「しっかり休もう」が会社の方針だから仕方ない。要因はわかりきっていて、仕事が予想以上に順調であったところに、ベテラン営業マン3人の退職が重なったこと。営業部長の仕事として、部下に優先して休みを取得させるようにしたので、結果的に自分の休みを取れなくなってしまった。社長(ボス)からは「管理職は部下に仕事を落とすのも仕事」といわれている。自分としては管理職としての仕事(管理業務)と自分でやらなければならない営業リーダーとしての仕事、ひとことでいえば部長としての仕事とそれ以外の自分でなくてもいい仕事を分けて、後者は基本的にすべて部下に落としていた。ボスは問題が大きくなるまえに対処するのをポリシーとしている人だ。僕の夏休み未取得問題についても、ボスは僕個人の問題ではなく、組織の問題としてとらえていて、ヒアリングがおこなわれた。ボスは僕の見解をきくと、仕事の好調ぶりについて褒めてくれたあとで、僕の仕事のやり方については不満を口にした。「それじゃダメだ」と。仕事の落とし方が足りないというのだろうか?ボスに尋ねると、「落とすだけではなく、分けることも必要だ、そう、水のようにね」とブルース・リーの禅問答みたいな答えになってない答えが返ってきた。当惑していると「右手、片腕、副官と呼べる自分の分身をつくれ」とボスは少し答えっぽい答えを教えてくれた。ボスは、部下に落とすべき仕事を落とすのは当たり前で、部下に落とせない仕事を任せられる『右腕』をつくるのも管理職として必要だと仰った。前職で同僚同士の足の引っ張り合いや謎の下剋上未遂を見てきた僕には、自分のやるべき仕事を他人に任せるという発想はなかった。もし自分の仕事を任せたら自分の居場所がなくなる、奪われてしまうと考えてしまう。ボスは、自分がやるべき仕事を右腕に分けることによって生まれる余裕を活かして新しい仕事をしろ、常にアップデートしろ、といった。確かにそうやって自分の立場を常にアップデートしていれば、居場所を奪われることはないだろう。だが、実際問題、僕の右腕になる人間となると難しいなとも思う。僕のもとで働いているスタッフは皆、仕事が好きすぎて盲目になりがちなのだ。僕が部長になって以来、仕事の効率化をはかろうと努力しているのは「出来るだけ楽に仕事をしたい」「早く家に帰って後ろ指をさされるような動画を視聴をしたい」というプリミティブな欲望に忠実に行動しているだけであり、効率化してもっと仕事するぞーというモーレツ社員精神はソコには一ミリもないのである。ボスは今のスタッフの中から右腕を育てるのも僕の仕事というけれども…。そのためには、名作漫画「寄生獣」でもミギーが泉進一より目立っていたように、もし有能すぎる右腕がモーレツな働きぶりを示したら本体の僕が劣って見えるのではないか、という恐怖感をまず克服しなければならないだろう。ボスはけっこう厳しいことをいっている。「仕事を任せられる右腕をつくれ」は、楽をしろと言っているようで、新しい仕事と居場所を見つけ続けろ、さもなければ存在価値はない、と言っているのだから。今の職場は待遇が抜群にいいし、少々、仕事を好きすぎる人が多すぎる点に目をつむれば、精神的にも落ち着いていられるので、結果の出ている今のやり方を続けながら、ボスのいう「右腕づくり」に取り組んでいくしかない。頑張ろう。まあ、右利きの僕は左手をつかって本体を握った方がぎこちなさと他人にされてる感の相乗効果で気持ちいいときもあるけれどね。まあそれは別の話だ。(所要時間20分)

さようなら、はてなダイアリー!テキストサイト界の底辺で死にかけていた僕を救済してくれてありがとう!

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▲はてなダイアリー時代の一時期、水彩画ブログにしようとしたこともありました…。

2019年春「はてなダイアリー」終了のお知らせと「はてなブログ」への移行のお願い - はてなダイアリー日記

「はてなダイアリー」が終わると聞いて、「はてな」にやってきた当時を思い出した。僕がはてなダイアリーにはじめて投稿したのは2003年の年末で、きっかけは僕が細々と運営していたテキストサイトを読んでくれていた小説家の逸木裕氏から「はてなダイアリー」をおすすめされたからだ(ご本人は忘れているかもしれないが)。それから2013年の年末までちょうど10年間、途中アカウントやハンドルネームを変えながらも書きつづけ、はてなブログへ移行して現在に至る。そう、テキストサイトだ。僕は1990年代の終わりからウェブ日記的なものを書いている。利用してきたウェブ日記サービスを挙げてみる。さるさる日記。大塚日記。ライコスダイアリー。それからはてな。渡り鳥生活だ。あくまで母体はテキストサイトで、ウェブ日記的なものは、更新頻度をあげるためのコンテンツだった。内容も、その日あったことの記録と所感を淡々と綴っていただけだ。「家系ラーメンを食べて腹を下した。今後は脂少なめにしよう」みたいな感じの。もっとも、僕が運営していたテキストサイトは、皆さんが懐古するようなゼロ年代初期の文章芸のようなサイトではなく、《映画や小説の演出効果と構造分析》をコンテンツにした暗くてニッチなものだったので、読んでいる人は少なかった。閲覧者なんて1日10人くらいだったはず。そんなテキストサイトの底辺にいた僕から見ると、いわゆるテキストサイト・ブームの主役だった運営者たちは新時代のスターに思えた。日記系といわれていたのかな、画像も少なめで、日常のちょっとした出来事を面白おかしくネタにしている彼らに、少し嫉妬をおぼえつつも憧れていた。僕と同年代か、少し上のフツーのシロートでもこんなに面白いことが出来るのか!という感動とともに。僕と同じように仕事を終えたあとシコシコと文章をかいてネットに放流している彼らの姿を想像しては、テキストサイトの底辺から、勝手に、妙な一体感を覚えていたのだ。ある日を境にテキストサイトのスターたちへの僕の憧れは急速にしぼんでしまう。ある日が、いつだったか、はっきりとはわからないけれど、テキストサイトのスター、有名人たちが連帯してイベントを企画してネットから飛び出したり、サイト以外の場所で連載を持ったり書籍を出版するようになってからだ。面白さは変わらなかったけれども、シコシコと書いている自分との距離感を感じてしまったのだ。僕にとって、テキストサイトや日記系、今でいうブログというのは、ごくごく個人的なものだ。だからイベントや出版という次のステージに進んでシロートからプロ的な存在になった彼らにシンパシーを抱くことは難しかったのだ。僕とは違う…そんなふうに考えていたときに出会ったのが「はてなダイアリー」だ。2003~4年のはてなダイアリーには僕が求めていたシロート的な面白さがあった。正直な感想をいってしまうと、テキストサイトのスターや有名人と当時の平均的なはてなダイアリー利用者では、スキルでは天と地の差があったと思う。だが、下手くそなシロートだけども面白いことやってやるというパンク精神や好きなことについてだけ延々と語る独立精神が当時のはてなダイアリーにはあった(僕の観測範囲では)。当時は「はてな」や「はてなダイアリー」のトップを眺めるたびにパンクのような勢いのあるダイアリーを見つけることが出来た。今の「はてなブログ」は、文化として成熟してしまったからだろうね、ウケる(読まれる)コンテンツみたいな方法論が確立してしまっていて、まあそれは悪いことばかりではないのだけども、正直、《その人じゃなければ書けない記事》は数えるほどしかない。はてなブロガー諸兄は、読まれることを考えすぎなのではないか。いちど、シコシコと自分語りをしてみてはどうだろうか。多くの人から読まれたいというのは結果にすぎない。書きたいことを書くのがブログだと思うし、そうじゃなきゃ続かない。それに他人からの評価を気にするのは仕事や学校だけで十分じゃないか?僕が今、はてなブログでやっていることは、かつて僕が親近感を覚えていたテキストサイトの2018年版だと最近、自分で気づいた。おかげではてなブログでは浮きまくっているけれども、まあ仕方ない。かつてのテキストサイトのスター・有名人はそのままウェブの世界でも有名人になっている方が多くて「スゲー!」と思うけどシンパシーは感じない。彼らは結局のところ芸能人枠なのだ。僕の中で。なんというか違うのだ。僕とは。その距離感は憧れだったテキストサイトたちに違和感を覚えたあの頃からあまり変わらない。あの頃のテキストサイトの空気に似た、はてなダイアリーの雰囲気が僕は好きだった。僕=フミコフミオという存在を作ってくれたのは間違いなくはてなダイアリーだ。僕に居場所を与えて、受け入れてくれたはてなダイアリーには本当に感謝しているし、終わってしまうのはやはりちょっと寂しい。願わくば、はてなダイアリーにあったパンク精神や、書きたいことだけを書きつづけるみたいな風潮が、今よりも少しでもいいので、はてなブログ界隈からも感じられるようになるといい。今、僕は「はてなブログ」で書いているけれども、気分はずっと「はてなダイアラー」のままだ。親しくしていたはてなダイアラーの多くはヤメてしまったけれど、僕はこれからもはてなダイアラーの生き残りとして書き続けていきたい。僕が「はてなダイアリー」を終わらせない!本当に、ありがとう、さようなら、はてなダイアリー。これからもよろしく。(所要時間25分)

ヒトにはオススメしないけれど40代で無職になって良かったと思っている。

前の会社を勢いで辞めてから今の会社に入るまでの約8ヵ月間は(短期間バイトはしていたけれども)無職で、精神的に辛い時期ではあったけれども、40代前半で夢や目標もない「明日はどっちだ?」期間を経験しておいて良かったと今は思っている。感謝すらしている。あのハロワ通いをした時期はこれからの僕を突き動かす燃料になってくれるだろう。無職になる前の僕は、実力もないくせになぜか強者の立場から、仕事をしていない人間、いわゆる無職を一緒くたに見下していた。「いろいろ理由をつけて仕事をしたくないだけなんじゃね?」「努力不足の怠け者じゃね?」と。だが、自分が40代で無職になり、無職の彼らと同じ目線で世の中を眺めてみて、いや、かつての僕みたいな人間から、怠け者に見られてみて、初めて見えてくるものが多々あった。僕の認識は間違っていた。それも完全にだ。まず、当たり前だが、無職の人は必ずしも仕事をしたくない人、怠け者というわけではないことがわかった。僕がそうだったように働きたくても働けない人間もいた。もっとも悲惨なのは、無気力といえばいいのか諦めといえばいいのかわかりかねるが、求職活動を通じて働くこと職を探すことに関心を失っていく人たち。ハロワで知り合った人たちとハロワから直で安居酒屋に行って酒を飲んだことが一度だけある。みんな僕より10歳ほど年長の、いわゆるバブル入社組より少し上の世代(50代後半?)だったけれども彼らの口を突いて出てくる言葉は「こんなはずじゃなかった」という後悔と「もうダメかも」という絶望一歩手前しかなく、その後、彼らをハロワで見かけることもなかった。今、彼らがどういう状態にあるかわからないが何とか生きていて欲しいものだ。そういう頑張っている人たちを目の当たりにして僕が「無職でもみんな頑張っている…僕らは働いていようがいまいが皆同じ人間なんだ…」「ビバ人間!」と人間の素晴らしさに目覚めるようなことは一切なかった。思っていた以上のクソみたいな怠け者もいたからだ。ハロワの失業認定日にいいかげんな求職活動を報告をして基本手当で飲む・打つ・遊ぶ、そういう人間は予想よりも多かった。無職は怠け者という僕の認識は間違っていた。無職のなかには無職の品格を貶めるような本当のクソ無職がいるのだ。僕はそういったクソ無職を今まで以上に見下していこうと心に決めている。そして、仕事をしていない無職に「大変だねー僕には無理だよー」つって同情しているようで上から見下している、かつての僕のような輩も同じように軽蔑していこうと決めている。結局のところこうやってひとつひとつ生真面目に対応していくと敵ばかり増えて戦場じみていくのだけど人生とはそういうものなのだろう。これが常在戦場ってやつか…。僕が今の仕事にありつけたのは、たまたま、ラッキーなだけであって、もしかしたら今もあの安居酒屋で酒を飲んだ彼らと同じように絶望一歩手前にいたかもしれない。残酷だけれども今の日本ではある程度の年齢に達してしまうとスーパーな能力がないかぎりタイトロープから落ちてしまうと這い上がるのはなかなか難しい。前の職場のラスト半年間、僕はボスからリストラ担当をまかされて、なるべくスタッフの職は守ろうと努めたけれども、何人かは辞めてもらった。一応、全員の次の職は見つけたが馴染めずに辞めてしまった者もいると聞いている。当時は、自分の責任は果たした、彼らがその先をどう生きるかは関係ない、とドライに考えていたけれども、決してスーパーな能力を持っているとはいえないリストラ対象の彼らが、サクセスしている姿を想像するのは難しい。もっと自分に出来ることはなかったか?と今振り返るのも自分自身が無職になったからだ。だからこそ「仕事がつまらないなら今すぐヤメればいい!」と無責任に言う人間が許せないのだ。責任を取らないでいいならどんなことでも言える。悩んでいる人間に無責任さは威勢の良さに見え、魅力的にみえることもあるだろう。だが無責任に人の人生を狂わせてはならない。以前の僕なら謎の強者ポジからそういう無責任人間に近いことを言っていたが、今はとても言えない。仕事を辞めろという前に、一度、無職になってハロワ通いを経験してみるといい。おすすめはしないけどね。(所要時間21分)