Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

森博嗣著「ジャイロモノレール」は超高齢化社会を生き抜くためのサバイバル・マニュアルなので読んだほうがいい。

「ジャイロモノレール」という言葉を聞いたことがあるだろうか。おそらくほとんどの方が初めて聞く言葉なのではないだろうか(僕は古い写真を見た記憶とその言葉だけは知っていた)。ジャイロモノレールを簡単に説明すると、ジャイロ機構で姿勢を機械的に自動制御することにより1本のレール上を走れるようにした乗り物、となるだろうか(間違っていたらサーセン)。諸事情により実用化はされなかった幻の技術でもある。

ジャイロモノレール (幻冬舎新書)

ジャイロモノレール (幻冬舎新書)

 

 本著は100年前に滅びた技術「ジャイロモノレール」とその再現について書かれたものである。そして技術系の新書という皮をかぶった人生の指南書でもある。感想を一言でまとめると、めちゃくちゃ面白かった。

著者はミステリィ小説家の森博嗣氏。ジャイロモノレールの再現を本題テーマとしながら、これまでの氏の著作(新書)と同様、人に依存しない生き方、自分の頭で考えることの大切さについて書いている。まったくブレない生き方をしていて尊敬に値する。僕は文系人間なので、本書に書かれているジャイロモノレールの理論の細かいところまでは理解できなかったが、著者のわかりやすい解説とイラストで大まかな仕組みは理解できた(なんとなくだけど)。作例も多数掲載されていて、実に、楽しそうである。「ジャイロモノレールをつくってみよう!」という気分になる人もいるだろう。

本書が素晴らしいのはジャイロモノレールという機械技術の再現を開示しながら、ジャイロモノレールの素晴らしさを讃えたり、「一緒にジャイロをつくろう!」という展開にならないところにある。著者のジャイロモノレールという技術に対するある種醒めた目線が貫かれていて、文中にも、姿勢制御を機械的に再現しているが、現代ならコンピュータ処理してモータやエアで行ってしまえばいい、とあるように、伊達と酔狂でやっていて、それを万人にすすめようという姿勢がまったくないのだ。そう、著者はジャイロモノレールの伝道師になるつもりはまったくなく、ジャイロモノレール再現という個人的な愉しみについて語っているだけ、というスタンスなのだ。

僕を含めた一般人のなかで、いったいどれだけの人がジャイロモノレールの情報を求めているだろう?。かぎりなくゼロに近いはずだ。極端な言い方をすれば、普通の一般人からみれば、どうでもいいこと、なのだ。この、どうでもいいことをやっているのが素晴らしい、ロマンだと本書は謳う。そして人の目を気にしたり、繋がりを意識して、自分だけの愉しみを見いだせないことは不幸であると。自分の頭をつかって楽しみを見つけること、試行錯誤したっていい、その過程も含めて、それが趣味であり、人生の豊かさにつながると著者は訴えている。

定年退職後にやりたいことが見つからないと嘆く人がいる。深刻なケースになると心の病を患うケースもある。我が国は高齢化が進んでいるので、今後、そういったケースは増加の一途だろう。趣味は人生を豊かにする。ただしその趣味とはレジャやスポーツとは異なるものであって、著者はそれを研究(探究)と位置付けている。研究といっても大袈裟なものではなく、日々の疑問や不思議を自分なりのやり方で調べ、検証することであると(前著でも「孤独の価値」で孤独であることは楽しいものと述べていた)。この、どうでもいい、が著者にとってのジャイロモノレールであったにすぎない。

「世界初!人気ミステリー小説家が100年前の幻の技術を完全復元!」というと大げさに聞こえるが、身も蓋もない言いかたをすれば、他人様からみればどうでもいいことをとことんやりました、という話なのである。人生を豊かにするためには趣味をもつこと、人から与えられたものではない自分だけの楽しみを見つけること、それが著者にとっては個人研究でありその一部がジャイロモノレールなのだ。はたして、今、どれだけの人がその人なりのジャイロモノレールを持っているだろうか、そんな問いをこの本は僕らに投げかけている。これはありそうでなかった本だよ。個人的には森博嗣のベストだと思う。(2018/9/29 所要時間21分)

憎しみはクソになる。

憎しみからは何も生まれない。きれいごとではなく本当にそう思う。憎しみを出発点にしているかぎり、高くは飛べない。憎しみに足を引っ張られてしまうから。

僕は犬の散歩を眺めるのが好きだ。我が家は、車の通りがほとんどない、旧家や資産家が居宅をかまえる非常に環境のよろしい土地にある。前の小路は小鳥がさえずり、下水道のせせらぎが心地良く、人々の散歩コースになっていて、そこをいろいろな人たちが柴犬、チワワ、ブル、レトリバー、さまざまな犬たちを連れているのを眺めていると、僕は心がすっと落ち着く。こんな時間が永遠に続けばいいのにとさえ思う。「柴犬狩り」がはじまった今、その思いは強くなるばかりだ。一週間ほど前の話だ。ウチの前に大きなウンチが落ちていた。サイズと形状から人糞だと思われた。人糞を見つけたのは、僕で、早朝。発見時刻となかば液状化している人糞の状態から、酒をしこたま飲んだ人間が猛烈な便意を耐えきれず、「御免!」という一喝とともにパンツを下ろしブリブリブリと盛大にやらかしたものだと推測した。誰かが片付けてくれる、たいていの日本人のように僕も、見て見ぬふりをするつもりだったけれど、アスファルトの上にあるはずの人糞が、僕の頭の片隅から消えることはなかった。これが罪の意識というやつか。なぜ、僕が罪の意識、申し訳なさ、おもてなしの気持ちから他人様の人糞を気にしなければならないのだろう。僕は祈った。この人糞の施主も、少しでいい、罪の意識を持っていてほしいと。僕は、人糞に砂をかけ、時間をおいて水分を吸収させてから片付けた。かがんで処理をしてみて気付いたのは、人糞のサイズだ。大きい。「大きい…」と言われる側の人間で在り続けてきたので、他人のブツの大きさに免疫がなく、人糞の大きさに圧倒されてしまった。同時にこれは絶対に人糞だと確信した。否定しきれずにいた牛馬の可能性を切り捨て、この糞の主を女子学生と特定した。路上から立ったまま見ているときは人糞そのもので死角になっていた向こう側にポケットティッシューが添えられるように置いてあったのだ。そのポケットティッシューが無地ならば男性の可能性も否定しないが、ファンシーな柄が印刷されていた。仕事を持っていたら翌日を考えウンコを漏らすまで深酒をしない。それらの要素から論理的に人糞の主が女子学生だと導き出したのだ。それにクサくてデカくてキタない人糞の主が女子学生でなければ救いがなさすぎるだろう。僕は紙の前でだけは神を信じたい。僕の迅速な人糞処理が裏目に出てしまう。実は、女子学生の人糞があったのは隣家との境であった。隣りに住むオジサンは、顔を合わせれば挨拶をするくらいの関係だが気さくで優しそうな方だ。縁側で猫を撫でながらエサをあげているときの穏やかな表情を柴犬狩りがはじまってしまった今もはっきりと思い浮かべることができる。人糞はそのオジサンをダークサイドに転落させた。僕が人糞を処理した日の夕方、オジサンは貼り紙を人糞のあった場所の近くの壁に貼った。こんな文面だった。「いつもここで糞をしている柴犬!美化条例違反です!柴犬に糞をさせるな!柴犬に糞をさせるな!柴犬!」タイミングが一致するので、人糞か、僕の迅速な人糞処理がオジサンのトリガーを引いたとみていい。しかし、オジサンの柴犬に対する憎しみはどこからきているのだろう?義務教育を終えていれば、普通、あの糞のサイズからカワイイ柴犬の仕業とは考えない。そして、なぜチワワやブルやレトリバーではなく柴犬なのだろう。柴犬によって大けがを負ったり、柴犬にご両親を殺された辛い過去があるなら、理解できるが…。おそらく、オジサンは糞に悩まされていた。片付けても片付けてもそこにある糞糞糞。くっそー。おじさんは憤る。犯人は誰だ。どこのアホだ。張り込みをつづけるオジサンの前でかわいらしい柴犬がブリブリ!爾来オジサンは柴犬を狩る好機をうかがっていた。柴犬そこに巨大な糞が!暗黒面に堕ちているオジサンには柴犬の糞にしか見えない。この恨みはらさでおくべきか!こうして心優しいオジサンは柴犬狩りとなった。この悲しい実話を妻に教えたら「完全にキミのせい」と言われた。ホワイ?妻が言い分は次の通りである。《僕が謎の罪悪感により人糞を迅速に処理してしまったため、オジサンはチラ見した巨大な糞が柴犬のものだという思い込みを実物を再確認して修正することが出来なかった》《仮に僕が主張するように女子学生の糞だとしても、あのような憎悪に塗れた貼り紙を出されたら、お尻は出せても、出頭する勇気は萎えてしまう》《キミのせいで柴犬、人糞の施主、オジサン、散歩をする人たち、みんなが迷惑をしている、悲しみに打ちひしがれている》と。憎しみは何も生まない。ただし憎しみにはパワーだけはあるので、それをエネルギーに動くことは出来る。ただ、憎しみに引っ張られてしまうから、幸せな結果をみるのは難しいと僕は思う。オジサンは憎しみで判断力を失ってしまった。歪んだレンズで物を見てしまった。柴犬狩りの貼り紙が出されてから、犬の散歩をする人たちが、ウチの前を小走りで通過するようになってしまった。柴犬だけではない。ブルもチワワもレトリバーも。僕が永遠に続いてほしいと願った風景は憎しみの連鎖で喪われてしまった。妻は言った。「ひとつだけ解決できる方法があります」「教えてよ」「キミが出頭するのです。オジサンの怒りは鎮まって、犯人も逃亡できて、柴犬ちゃんの平和も少しだけ取り戻せます」うむ、確かに、大事なものを守るためには犠牲を払わなけれならぬ。でもなぜ僕がウンコ犯にならなければならないのか。マイ・トイレからそう遠くない隣家の前で深夜わざわざウンコをする方がヤバいような気がする。却下。たとえ大切なものを守るためであれ隣家の前で野グソするような野蛮人にはなれない。無実の柴犬には申し訳ないけれどさ。(所要時間26分)

推定50代独身男性の結婚に対する幻想を完全破壊しようとして遭遇した想定外の事態に心が折れかけました。

先週末、前の職場の同僚と飲みに行った。老夫婦が二人で切り盛りしてるような居酒屋のカウンター席に並んで座った、今、振り返ってもしょうもない酒だった。同僚は僕より年上の男性で、正確な年齢は存じ上げないが、50~65歳くらいだと思う。退職後、派遣会社に登録して働いていたはずだが現在何をしているのか知らない。知りたくもない。だから彼が「俺、今さ…」と切り出そうとしたときは「仕事の話はヤメましょう」といって話を打ち切った。苦楽をともにした、世話になった、という実感はない。仕事ぶりがイマイチな彼のおかげで、苦労するのも、世話をするのも僕の役割だったからだ。ビールを飲みながら彼は言った。「自分は努力してきたが政治家と社会が悪いせいで今のようなていたらくだ」「バブル崩壊後の不安定な雇用状況のせいで収入も少なく貯金もない」「ストレスの多い現代社会のせいで酒もタバコもやめられない」「世の中のせいで婚期を逃してしまった。ねるとん紅鯨団に出てさえいれば…」「医療の発達のせいで寿命が延びてしまった。高齢の両親の面倒を見なければならない」せい、せい、せい。彼の話を僕は生ビールを飲みながら聞き流していた。そんな僕の様子を「SAY YES」つまり肯定的なスタンスと勘違いして調子に乗ったのだろうね、彼はアホなことを言い出した。「あんたのように結婚すれば生活が安定してまだ俺はイケると思うんだよ…」「結婚すればヤル気になると思うんだ。家族を支えるためにさ…」。ビールが不味くなりそうな話。仕事も貯金もないのに、結婚って正気か。支える家族ならもういるじゃないか。しかも要介護で。その甘えた考えの根底にある、結婚サイコーみたいな妄想が、そもそも万死に値する。僕は生ビールで潤した喉で彼に彼の知らない結婚の真実を伝えた。「結婚は万能じゃないっすよ。それほどいいものでもない。僕なんて妻から汚物扱いされてますからね。独り身の方がずっといいこともある。なぜ『結婚っていいなあ』と言う人間が多いって?そう思い込まないとやっていられないからですよ。まあ、ウチは基本的な考えは一致しているから安泰ですけど。おかげ様で。特に、生まれ変わったら絶対違うパートナーを選ぶって点では考えが完全に一致してますから…」結婚のマイナス面を強調し、結婚を知らない彼の幻想を破壊するつもりだった。僕の思いは裏切られる。彼が、実は30年前に妻とは別れたんですよ、と告白したのだ。驚いた僕が元奥様の現状を訊くと、彼は、壁に掛けてあるビール会社の水着ギャルのポスターをまぶしそうに見つめながら、もういないんですよ、と呟くように言った。もういないんですよ。知らなかった、ではすまされない。僕はすみませんといってジョッキを掲げた。彼も僕にあわせてジョッキを掲げながら「死んだってことにしないと、離婚を妻のせいにできませんから…」と言った。今、なんと?詰め寄ると彼の浪費癖が原因で一年で離婚に至ったらしいが、そこまで浪費した覚えがないから自分の非を認めたくない、という謎理屈で元奥様は死んだことにしているらしい。うそーん。きっつー。彼に拠れば、今の冴えない現状はすべて他人のせい。仕事も、生活も、離婚も。そんな都合のいい甘ちゃんな考えはここで断ち切らなければならない。彼を真人間に矯正するためではなく、鬱屈した彼が社会に対して復讐しないようにするために。僕がその復讐に巻き込まれないために。僕は言わないように我慢していたことを彼に伝えた。「あなたのために言いますけどね」と前置きしてから、あなたが仕事、生活、家庭、人生のあらゆる場面でパッとしないのは社会のせいじゃなく、ひたすらあなた自身の無責任と努力不足によるものだ、と。世の中は不条理で不公平ではないのは否定できない事実だけれど、その不条理さと不公平さは、程度の差こそあれ、誰もが被っているものなのだと僕は思う。いささかマッチョな考え方になってしまうけれど、この不完全な世の中で、社会が、政治が、時代が、つって他人に不満を募らせているだけの人間は、自分の人生を生きずに生を終えてしまうのではないか。哀しいけど、この世は、自分のためだけに存在しているわけではないのだから。彼は無言だった。僕の話に、何か思うところがあったのかもしれないが、十中八九、理解出来ずに言い返せなかっただけだろう。彼は「責任を持てと言いましたね」と言った。少し震えていたかもしれない。「言ったよ」「自分のためにと言いましたよね」「言ったよ」「今の職場で管理職なんですよね。じゃあ責任をもって私の人生のために手を貸してくださいよ」日本の国語教育の弊害だろうね、僕には彼が何を言おうとしているのかわからなかった。戸惑う僕に彼の無慈悲な言葉が襲いかかった。「じゃあ、私を雇ってください」「断る!」速攻で断った。「どうして!」「だって仕事出来ないじゃん。自分の居場所を守るだけで必死なのにあなたのような危険因子を抱えるのはごめんです」「冷血!」彼には、僕のいないところで、人がどこまで他人に依存して生きられるのか、人類の可能性を切り開いてもらいたい。彼とは退職後に何回も会っている。毎回同じようなしょぼい話ばかりしている。そしてそのしょぼさは加速度的に増している。こうなることはわかっていたことではないか、弱いものイジメではないか、という僕に対する批判もあるだろう。僕だって彼には会いたくなかった。だが3万円を返してもらうまでは仕方がなかった。今回無事に返してもらえたので彼とは金輪際。やったー、これでニンテンドースイッチが買えるぞー。(所要時間26分)

すべての言葉はクソリプ。または「アンチが湧いた」という自己防衛テクニックについて。

ツイッターなんてもはや面白くも何ともないけれど、「アンチが湧いた」という呟きを見かけたときだけは、今でもちょっと面白い。自尊心、虚栄、弱さ、それらのミックスを見せつけられて、こちらが恥ずかしくなってしまうからだ。「アンチが湧いた」とは「ワタシは人気者。この絶大な人気にともない、アンチというマイナスの副産物が発生するのはしょうがないよね」などとアンチを嘆くポーズを決めつつの、人気アッピールである。

 「人気者にはその人気相応のアンチがあらわれる」

なるほど、然り、と頷いてしまいそうだけれど、はたしてそうだろうか。僕のように自己評価がきわめて低い人間には特に顕著だが、自分に否定的な意見が大量に発生したときに「ワタシは嫌われているのではないか。もうダメだ…」という希死念慮にとららわれてしまう。否定的な意見は、肯定的な意見よりも言葉が強いものになりがちであるし、ヤクザがそうであるように、まともなトークよりもオラ!ワレ!ボケ!ナス!デべソ!といった罵声の方がどうしても目立ってしまう。

僕は食堂のプロデュース的な仕事もしていて、意見箱とアンケート用紙を設置して、後日確認してみると、投じられた意見は否定的な内容のものが多い。圧倒的に。その一方で、リサーチ会社の調査結果や、来客数の増加、リピート率は高評価を示している。つまり否定的な意見の方が言いやすく、美点を具体的にほめるのは難しいものであるみたいだ。SNSでも「いいね!」「ファボ」と肯定・賛同のスタンスのみを示すシステムが多いのは、美点を具体的に示すことが難しいからではないか。人間は汚いもので、褒めるよりも貶すほうが、ハードルは低いらしい。

 そういう、褒めの弱さと貶しの強さがわかっていても、否定的な意見が大量にわいてくると、「嘘、もしかしてワタシ嫌われている…?きっつー」という気持ちになるのが、むしろ、素直な人間の気持ちの動きなのではないか。「アンチが湧いてきましたね…」にはならない。ましてや、SNSで「いいね」数の割に否定的なレスが多かったり、アップした動画に高評価よりも低評価が多くついたりすれば、単純に嫌われているのではないか、ととらえるのが自然だろう。厳しい現実というやつである。きっつー。

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そういう認めたくない現実から心身を守るために否定的な反応が多い状況を「アンチは人気の証拠」と脳内で変換するのは有効な防衛手段だと思う。人気ゆえにアンチが湧くのだと都合よく変換するのである。「僕は人気者なんだ!だからアンチが湧いてくるのだ!」と。それは対処としては完全に正しい。ただ、否定的な意見をアンチにするのはまだしも、自分と異なる意見をアンチ扱いしていると、裸の王様というかカルト化しかねないので注意してもらいたい。

そして自分以外の人間から「人気者はアンチが湧いて大変ですねえ」「アンチなんて気にしなければいいんすよ」とお世辞で言われるのはともかく、自ら「アンチが湧いた」と騒いでいる姿は、認めたくない現実から目を逸らしてる感が強すぎて馬鹿っぽく見えてしまうからこれまた注意していただいた方がよろしいかと。まあ、そんな奇特な人は少ないと思うけれどね。

話は少し変わるが、僕はツイッターを10年以上使っているけれど、自分からブロックをしたことがない。例外は1件だけだ。その方はプライベートな事由でおかしくなられて、無関係な僕に意味不明の言葉を投げかけてきており、僕自身は「なんでこんなこと言うのだろう。おもろー!」と特に反応することなくスルーしていたのだが、その惨状を見かねた知人からのブロックをしてあげてくださいと忠告に応じてブロックしたのである。 もちろんブロックをしない、というのは僕のスタンスであって、各々ムカついたらブロックしていけばいい。ただ、最近は、どこの誰だかわからない人物の発言を気にしすぎではないかと思うときも多い。そもそも他人なのだ。他人が遠くで、悪口や自分にかかわるデマを言っていても、無視するか、粛々と運営に通報したり、法的な措置を取るなどすればいいだけで、いちいち当人に反応しているのは時間の無駄ではないかと僕は思うのだ。

極端な言い方をすれば、すべての言葉はクソリプなのだ。レスの内容がクソならばクソリプなのは当たり前だが、まともなレスであっても、求められていなければクソリプといえばクソリプ。自分が求めている言葉が、求めたとおりに、返ってくることはないのだ。クソリプはクソリプでそれ以上でもそれ以下でもない。対応するだけ無駄なのだ。僕もツイッターでときどきワケのわからない絡み方をされることがある。たとえば、数年前、ヨンダだかトンダだか(忘れた)というアカウントの人に「妻に逃げられ、ブログも読まれなくなってザマあ(w)」みたいなことを言われた。そのとき、なぜ、会ったことも話したこともない人がこのような発言をインターネット上でするのだろう?と不思議でならなかった。現実は、妻に逃げられてもいないし、ブログは当時の数倍も読まれているのに。

僕はこう考えることにした。この方は、頭も見た目もあまりよろしくなくて、仕事もいまいちなうえ住宅ローンの審査に堕ちてしまった怨みを僕にぶつけている可哀想な人なのだ、と。世の中へのヘイトを解消する度胸も力もないからツイッターにぶつけているのだ、と。極端な見方だが、それがザ・クソリプの本質だと僕は考えている。そして、僕は、こういう人に時間を消費するのはもったいないので、心の中のどうでもいいポジションに置くようにしている。もっとも無駄なのは、どうでもいいものごとに対応している時間と手間であって、僕から言わせればツイッターでブロックする手間ですら勿体ない。僕の時間は僕だけの時間であって、どうでもいいポジション人間のために浪費する時間はコンマ1秒もないのだ。まあ、長々と書きましたが僕が言いたいのは、「アンチが湧いてきた」という発言は生温かくスルーし、すべての言葉はクソリプという諦念をもつだけでインターネットは少しだけ楽しく快適になるということだけです。(所要時間28分)

入社8ヵ月で管理職になった僕が半年かけて断行した会社改革を全部話す。

今年の4月、「新しい風を入れてくれ」とボスに言われ入社8ヵ月で食品会社の営業部長になった。ホワイトな環境下で、健全で平均以上の能力をもった同僚と、気分よく仕事が出来ている。だが、大卒後ずっとブラック環境で働き続けてきた僕には、彼らの「仕事嬉しい!楽しい!大好き!」なスタンスは長所でもあるが弱点にもなりかねないように見えてならなかった。それならば、ブラック環境を生き抜いた経験を活かして彼らの力を最大限に発揮できる組織に変えてみようと考えた…とは社内的な建前で、本音は、出来るだけ楽に仕事をしたいだけである。仕事ってそういうものだ。 

部長になった前後に書いた記事。

労働条件の改善(固定残業代について/時短勤務の導入)

労働条件を改善するためにやったこと全部話す。 - Everything you've ever Dreamed

方針の策定(『営業に携わる時間をつくり小さい目標をチームでクリアしていく』)

入社8カ月で管理職になるためにやったこと全部話す。 - Everything you've ever Dreamed

 これらは環境の整備であり、準備段階。ボスからは新しい営業チームをつくって欲しいといわれており、数値目標を達成できる営業チームと仕組みを早急につくることを求められていた。『営業主体の商品開発』『無駄な営業活動の廃止』をスローガンに掲げた。この二つは、まったく別のものであるようで、密接に関係している。 

①4月/まあ、これも環境整備の追加になるのだが、会議や打合せを終了時刻事前申告制にした。結論が出なくてもヤメる。打ち切る。ダラダラした会議や打合せが見受けられ、あたかもそれをやることが仕事だと考えているようなフシが見受けられたからだ。調査のため、僕も会議や打合せに出席してみてテーマに関わりのないトークの多さに驚いた。数字で示さないと納得させられないので計測もした。すると1時間で平均15分弱程度はテーマと関係のない話をしていた。「営業の仕事とは?」「辞めた人間が今何しているか?」のような「仕事のようで仕事ではないそれでいて仕事をしているかのような気持ちよさ」を得られる無駄なトークが原因。

営業という仕事は、営業に関わる時間の量で結果が変わってくる。会議の時間を出来るだけ短縮させることが営業にかかわる時間につながると考え、打合せや会議をする際は原則「終了時間事前申告制」とした(最長45分間)。結論が出なくても強制終了させた。当初はうまくいかなかったけれども、実行していくにつれ、短くなった会議や打合せ中に結論を出すため、各自、入念な準備をするようになった。無駄な会議や打合せもなくなり、夏からは営業部だけでなく全ての部署で導入されている。

 ②7月/3名の優秀な営業マンの退職をプラスにとらえて営業支援ツールを刷新した。以前ここでも書いたが7月に3名の優秀なベテラン営業マン、通称「黒い三連星」が退職した。退職の理由は「僕のやり方に付いていけないから」だそうだが、ご本人たちより正確に記述するなら「付いていきたくない」からだろう。目標達成は厳しくなったけれども、僕は「新しいやり方を進めやすくなる」とポジティブにとらえた。個を否定してチーム制で取り組むような体制に移行していたので、彼らが考えているほど損害が出ないとも計算もしていた。

他の業界ではどう呼ぶのかしらないが、僕のいる業界では営業マンが同業他社にうつるときに「お土産」といって得意先や案件を持っていくことが多く、前の会社のときは辞めていく人間のお土産の多さで見通しを立てるのが困難なくらいだった。「俺の仕事」「自分の仕事」といういわば仕事を個でやってしまうことの弊害。僕はそういうのをなくすために(完全には無理だけど)チーム制を敷いたのだ。黒い三連星は予想通りお土産をもって同業他社への移籍をするようだったので、お土産候補の得意先やクライアントに出向いて、チームで担当しているので黒い三連星が退職しても今までと同様のサービスが可能であること、特典とサービスを付けることをアッピールするなどのお土産対策をした。「ふたたび彼が辞めるときにはまた彼に付いて行かれるのですか?継続的な長いビジネスをしましょうよ」という僕のセリフに効果があったか知らないがお土産対策、防衛戦は現時点で完全に勝利。黒い三連星には踏み台になっていただいて本当に申し訳ない。

 だが3名退職で穴が空いたのは事実である。欠員補充についてはボスからも対策を講じるよう求められたがあえて補充しないことにした。僕は人間を信用しない。そんな僕が7月にブラブラしてる人間が優秀な営業マンであるとはとても信じられるわけがない。それにいい人材かどうかは入れてみないとわからない。「採用、試用期間、うーんイマイチ」の繰り返しはウチのような規模の会社では致命傷になってしまう。

それなら現有戦力を底上げして戦い抜く作戦を採ることにした。底上げといっても現有の営業部員たちの能力が、突然向上するようなことはないので、彼らの事務作業の軽減と行動管理の徹底で効率的に稼働させるようにした。具体的には3人辞めて浮いた予算で営業支援ツールを導入した(営業日報は無駄なのですでに廃止済み)。営業部員各自が毎日どの時間にどのエリアにいてどれだけの顧客にどれだけの時間を割いているかを管理して、部全体での営業活動をサポートするツールで、少ない戦力を今まで以上に有効に活用できるようになった。とりわけ管理者である僕の仕事が楽になった。やったー。

 ③3月~5月中旬/僕は昨夏に自分を売り込んで今の会社に入った。そのとき僕が掲げたのは「営業主体の商品開発」である。完全にハッタリだったのだけど、入社したから僕のハッタリはあながち間違っていなかったと知ることになった。僕が入社したとき営業部はなかった。それぞれの事業部に営業部門がある組織だった。まあ、そういう組織体制が完全に悪いわけではないし、メリットもあるけれども僕にはデメリットの大きさが目についた。つまり売る側目線で「売りたいもの」「作りやすいサービス」を商品にしていた。これを僕は買う側目線から「買いたいもの」「欲しいもの」を商品にしなければ売上は伸びないと考えた。大きな原因のひとつに事業部付営業部門の問題があると考え、年始からボスにかけあって営業部を独立させた(その流れで、僕が部長になった)。

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営業マン=お客さんサイドの意見を商品・サービス開発に活かす、これまでの仕事の流れを逆にするためには営業部を独立させるしかないと思ったのだ。。(付箋イラスト参照 上段と下段で矢印が逆になっている。)

「え?何で?」「変えなきゃいけないの?」「クレームないよね?」抵抗は大きかった。そりゃそうだ。いきなり下にいた営業部門が対等の関係で要求をだしてくるのだから。それに「問題がないからオッケー」という捉えかたを変えるのはなかなか難しい。僕は新参者で会社に対する愛着はゼロなのでこれらの声を気にすることなく組織を変えることができた。「商品開発の流れを変えた!」というと大げさだが、今のところ営業部門からのリクエストで商品に反映させたのは、ロット単位を変えるとかパッケージ変更という些細なことだけだ。中身も生産工程も大幅に変えずに商品によっては数倍の売上を記録したものもあったので効果はあった。これからはお客目線のいろいろな商品やサービスが生まれてくるはずだ。売りやすいと営業が楽でいい。

 ④6月~7月/営業とは、かける時間が結果に直結すると信じて疑わないけれども、「営業は足で稼ぐ」は前時代的とも考えている。特にローラー営業は無駄な達成感だけしかない。営業は顧客に会ってナンボ。アポの数があって、商品・サービスの魅力があって、成約に至る。その母数はあくまでアポの数であり、アポに至らない外回りは無駄撃ちにすぎない。僕は20年営業という仕事をしていてそのうち15年くらいは足で稼ぐ、きっつー、な営業スタイルを強いられてきたのでこれ以上無駄なことはしたくない。無駄足人生もうイヤ。てっとり早くアポを取って、商品やサービスをどう提案に組み込むかという提案営業に時間と労力を注ぐような働きかたをしたいとずっと考えてきた。

そこで、この夏から営業を外注することにした。営業外注といってもアポ取り業務の外注である。もっと早い段階で外注したかったけれども、営業外注は万能ではなく、売れる商品とサービスがあってこその道具だと経験から知っていたので、営業主体の商品開発体制のメドが立つまでは控えていたのだ。アポの数が増えても、お客目線の商品がなければ、意味がないのだ。冒頭に掲げた『営業主体の商品開発』『無駄な営業活動の廃止』、一見、関係性のない二つの目標はここで繋がってくる。営業外注は上層部からの反発が強かった。「それじゃ営業がやることがなくなるだろ」的な。営業は足で稼ぐという前時代からの神話を僕は、外回り営業、ローラー営業の低い成約率を提示して、数字で破壊していった。そんな簡単な検証すらしていないことに驚いてしまったが。営業部の皆も、その能力を商品開発と提案営業に傾けてくれて楽しそうに働いているように見える。仕事が楽しいというのは楽をしたいだけの僕には理解できないけれども。

 まとめ的なものを書くと、9月末半期終えた時点で売上は対予算130%弱を達成している(利益は企業秘密なので言えない)。そのほとんどを暑かった7月からの3ヵ月間で稼いだ。仕事の体制が整ってからだ。つまり仕事とは仕組み次第なのだ。まあ、ボスのバックアップもあったし、前任者や会社組織が古いままだったり、うまくいったのはラッキーだったから。もし、僕が他の人より優れている点があるなら、「うまくいかなかったらヤメればいい」という軽いスタンスと、シビアなブラック環境を生き抜くために身に付けた猜疑心だろう。いいかえれば、人ではなくその人の仕事を信用するという姿勢だ。

目下の僕の仕事は部下の業務管理と新しい仕事アイデアを考案・採用し、トライしていくこと。これからもホワイトな会社をブラックな感性で良い方向に活性化させて、自分のようなブラック精神が染みついた人間を生まないようにしながら、早期リタイアまでテケトーに頑張っていきたい。(所要時間48分)