Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

社畜の僕が、脱社畜サロンを弁護してみた。

かの有名なプロブロガー、イケダハヤト氏からブロックされてしまった。僕とは全く違う考え方をする人なので、観察していて楽しかったのに残念でならない。マンモス悲ピー。おそらく氏が運営されている「脱社畜サロン」について僕がいささか否定的なツイートしたのが原因だと思われる。きっかけは当該脱社畜サロンの炎上である。炎上の事情や経緯について、部外者の僕が見解や意見をあれこれ申し上げるつもりはない。対岸のキャンプファイアなので、どれだけ盛大に燃えていようが、こちらに延焼してこないかぎり、いっこうに構わない。ただし、一連の炎上を観察していて、気になったこと、違和感を覚えたことがひとつだけある。それは「なぜ怪しげな有料オンラインサロンに入る人がいるのかわからない」「どうしてあんな詐欺に騙される人がいるのだろう」という言説が見られたことだ。僕はイケハヤ氏が好きではないけれども、脱社畜サロンについては世間でいう詐欺行為はなかったと断言できる。脱社畜サロンは騙す/騙されるという関係では成立しえないからだ。なぜ、多くの人が脱社畜サロンを嫌い、疑うのか。人間は感情で動くので、多くの人はイケハヤ氏に対する嫌悪や疑念を、そのまま脱社畜サロンにも持っているからだろう。まあ、それは氏の人徳のなせるわざなので、仕方ないけどね。

脱社畜サロンに入ろうと考える人は、特別な人たちではない。現状の働き方や生き方に不満や違和感を持っている、真面目で平凡な方々である。彼らは、ともすると「そんなの無理だ」「ちょっと考えなよ」などといって己の考え方に否定的なものになりがちな意見や助言を得たいのではない。「ブログや動画でマネタイズして食べていけたらいいなぁー」という自分の正義を後押ししてもらいたいだけである。つまり、動物が目の前に出された好物をペロっと食べてしまうように、自分の考え方のベクトルに合ったコミュニティを選んでいるだけなのである(多少浅はかではあるが)。脱社畜サロンの提供しているコンテンツは、完全に、後押しが必要な彼らの求めるものであり、騙されているわけではない。

一方、脱社畜サロンも、多少盛っていることはあるにせよ、騙しているわけではない。相当に頭が悪い人や社会経験の乏しい人でないかぎり、「脱社畜のためには、まず、ブログやツイッターでバリバリ情報発信しよう」なんて浅はかなことで脱社畜が叶えられるとは考えない。いいかえれば、そんなどうしようもないことで人を騙せるとは考えない。つまり、相当に頭が悪い場合を除けば、リアルガチの本気でブログやツイッターをやれば脱社畜に繋がると信じての発言ととらえるのが自然だろう。その手法が拙いかどうか、実現性や再現性の問題はさておき、そこに騙す/騙されるの構図、世間でいう詐欺行為はありえないのだ。よく考えてみて欲しい。あの程度のことで人を騙せると考える人や騙されてしまう人がこの世にいるはずがないだろう?

もっとも、騙す/騙されたの詐欺関係がないことが、「僕たちは誰も騙していないし、騙されている人間もいない、サロンの人間は真剣に働くことに向き合っているので第三者にあれこれ言われたくない」という頑なさに繋がり、それが脱社畜サロン関係者の人の意見の効かないスタンスの元凶ともいえる。それを信念ととらえるか、融通の無さととらえるかは聞く人の立場によるだろう。そもそも、脱社畜を掲げながらその実、反会社マントラを唱えているのがおかしい。社畜とは、「会社を絶対視して何の疑いも無く服従して働き続ける状態」だと僕は考えている(違う?)。脱社畜とはそういった状態から脱出することである。それはつまり「個人が自分の頭で考えて働き方を選ぶこと」だ。決して「会社否定」「会社員否定」といった反会社スタンスではない(会社員とフリーランスは対立関係ではない)。こんな単純明快なことすらわからないようない人たちを指して、「騙してる/騙されている」「あれは世にいう詐欺に違いない」などというのは、あまりに低レベルで、本職の詐欺師に失礼だと僕は思うのだ。こういう意味で、脱社畜サロンは世間でいわれるような詐欺には当たらないのだ。また、理由は各自で考えていただきたいし、脱社畜サロンにかぎらないけれど「有料だからクオリティが高い」とか「実名アカウントだから信用できる」と考えてしまう人に対しては「今まで行きづらかっただろうなぁ」「死ぬまで苦労しそうだなー」という同情と哀れみしかございません。まあ、今のところは地方やオンライン上で気の合う仲間たちと「脱社畜」をキーワードに意味不明な会社員否定を繰り返しているだけであり、そういうクラブ活動を否定するつもりも、活動に加入しようとする人や賛同する人を止める義理も持ち合わせていないので、このまま彼らの彼らによる彼らのための脱社畜を遂行していただければ大変ありがたい。頑張ってほしい。くれぐれも仮想通貨や3桁億円のM&Aで稼いだ財力にものをいわせて、反会社から反社会へとレベルアップしないないよう、心の底から祈るばかりである。(所要時間20分)

「頑張ったけどダメでした」が会社を滅ぼす。

一応、営業部長なので、良い報告だけではなく、失注や辞退といった、悪い報告も聞かなければならない。不思議でならないのは、案件を失ったとき、コンペで負けたとき、「ベストを尽くしましたが残念ながら4社中2位でした」「頑張りましたが僅差で負けました」という謎のギリギリな敗戦報告をしてくる人が多いこと。「すごいなー。全力を出しても負けたんだ!」と言いたくなるのを押さえながら、順位や僅差の根拠を求めると、「先方の担当者が『今回は残念ながら…』『次点でした…』と言っていたので…」などとモゴモゴ言うばかりで心もとなかったりする。相手が、社交辞令やお世辞を言っているとは考えないのだろうか。失注した全会社が2位になってると思わないのだろうか。随分と育ちがいいのだね。

意地悪はさておき、「頑張ったけど」「全力で挑みましたが」という敗者の弁こそが会社をダメにする元凶なのではないか。大げさではなく、そう思っている。フェアではない評価を求めているからだ。そういった敗者の弁をする理由は、頑張りマニア的な特殊な性癖でなければ、自己弁護と、あわよくばマイナス転じてプラスの評価を得ようとする図々しさからだろう。「残念な結果に終わったけれどこの頑張りを評価してほしい」というアッピールなのだ。たとえば営業マンが2名いて、同じように頑張って、同じように失注した場合を思い浮かべてほしい。同じように結果が出なかった頑張りをした2者のあいだで、うまくアッピールできる人の方がより評価されてしまうのは、どう考えてもフェアではないだろう?(結果に繋がらない努力をどう評価するかは難しいけれど)。

そういう「頑張ったけどダメでした」的な敗戦の弁が生まれるのは、それらを評価してしまう側の問題でもある。僕が、社会人になって驚いたことのひとつに、結果に出ない頑張りを評価しすぎなアホ上司の存在がある。あいつは結果出ていないけれど普段頑張っているから、といってそれなりの評価を与えてしまうのだ。それが案件に係る努力を評価してのものならいいが、往々にして、仕事ぶりとは関係なく、自分の可愛がっている人間に与えることが多かった。本当にどうしようもなかった。はっきりいえば、僅差であれ、惨敗であれ、負けは負け。ひとつの負けなのである。グッドルーザーとして、潔く力不足と努力不足を認めることから、次の機会のリベンジは始まるのだ。

僕は、営業職で働き始めた新人の数か月、まったく結果が出なかった。自分では頑張っているつもりなのに…と軽く悩んでしまったが、この頑張っているつもり、が独りよがりなものだと気付いてからは、自分に足りないものが見えてきて、次の機会に活かすことが出来るようになった。負けるということは、相手の求めているベストを出せていないということ。2位だったー!ベストを尽くしたー!と考えているうちは、中途半端に満足している状態なので、反省が不足しており、敗戦を次に活かせない。つまり、結果に繋がらなかった頑張りを活かせるのは、自分自身だけなのである。そういった頑張りの評価をアホ上司に求め、「2位で失注か!良くやった!」などと謎の評価を受ければ、誰であれ、反省の度合いが浅くなってしまうだろう。反省が足りなければ、次に繋がらない。そういったムードが会社全体に拡散すれば、多分、会社はダメになりかねない。

こんな感じで、潔く負けを認めて、悔しさと無駄になった頑張りを次につなげよう、その過程を僕は見ているから、キミたちはベストを尽くしてくれ、キミらの頑張りが結果に繋がらなくても、それは僕の責任だから安心して目の前の仕事に全力で取り組んでくれたまえ、とミーティングで話した。以来、部下からの敗戦報告が「頑張ったけれど惨敗でした!次に繋げます!」「ベストを尽くしたけれどコンペ参加5社中ダントツのビリでした!今度こそ!」などと、潔すぎるものになってしまい、今、僕をイライラさせている。違うんだよ…。そういう潔さじゃねえんだよ…って。(所要時間19分)

「週刊SPA!」の「ヤレる女子大生ランキング」について女子大生を愛してやまない僕が思うこと。

「週刊SPA!」の「ヤレる女子大生ランキング」という記事が女性蔑視として大炎上し、校名を挙げられた各大学が抗議する事態になっている。80年代にオールナイターズの洗礼を受け、立派なJD好きオッサンになった僕は、JDの知り合いが出来たらいいなーと願いながら一日一日を必死に生きている。JD最高!JDラブ!JDは僕にとって崇め奉る神秘の女神であり、生きる希望、そして太陽なのだ。そんな僕なので当該記事に対して最低で最悪な印象を持つのは当たり前なのだが、その一方で、僕が青春時代を過ごした80年代後半から90年代前半は、よりエグい性的搾取な記事や特集があったので、今回の炎上が示した日本社会の民度アップに驚いてしまう。信じがたいが、数十年前、地上波テレビで女性の裸は日常茶飯事で、中学生キッズにとってはその時間こそが勝負だった。教育に良くないという大人の声はあったけれども、今回ほどの大騒ぎにはなっていなかったはずだ。世の中は気づかないうちに良くなっているらしい。実に喜ばしい。謙虚なのでカミングアウトしてしまうが、僕にはSPA!の記事を非難する権利がない。なぜなら、僕には女性ランキングを作成した後ろめたい過去があるからだ。蝉の鳴き声でもスタンディングしていたあの頃まで、僕は、ちょめちょめ女性ランキングをノートに記録していた。女性を格付けして順位をつけるような失礼は出来ないので、ランキングとは名ばかりのただの記録一覧でしかなかったけれども、そんな黒歴史を持つ僕がSPA!に抗議することなど出来ないのである。あのノートを小田急町田駅で落としてしまったのは、一生の不覚だ。あれからかなりの時間が経ったが今のところ、悪用された形跡がないので、安堵しているが…。しかし、これらはあくまで僕の思想の自由の範疇だから許される。僕が、ごく個人的に愉しみ、妄想でチョメチョメしたりするのを、日本国憲法は保障してくれている。SPA!のように記事にして公にしてしまうのとは大きな隔たりがある。この大きな隔たりを飛び越え、記事として掲載した週刊SPA!は暴挙といわざるをえないだろう。つか、イチ記者がこの記事を書いたとして、掲載までに「これヤバくない?」とストップをかける人間がいなかったのだから、重度のバカが揃っているのか、相当に重症な女性蔑視が蔓延しているのかわからないが、擁護の余地はないし、非難が集中するのも仕方がない。ゲスなので、当該記事の問題性を棚に上げて、非難を覚悟のうえで問うし、知ったところで編集部を襲撃するような過激な行動を起こすつもりもまったくないけれど、当該ランキングが、記者の妄想の産物なのか、取材を通じ裏を取った事実に近いものなのか、それだけは知りたい。もし、実際に取材をした結果であるならば、僕は、希望の光を失い、打ちひしがれ、絶望の干物になってしまうだろう。記事を書いた記者を妬みと怨念から一生呪い続けるだろう。そして、ツイッターでときどき見かける、「性に奔放な女学生アカウント」を面白がっている人たちと、記事に抗議している人たちが完全に異なる層であると、今は信じたい。(所要時間15分)

ゲイングランドと永遠の子供たち

ニンテンドースイッチ版ゲイングランドを、難易度を落とし、コンティニューを駆使して、クリアした。

SEGA AGES ゲイングランド|SEGA AGES(セガエイジス)|セガアーカイブス|セガ

30年かけてのクリアなので感慨もひとしおである。ゲイングランドは、『「ゲイングランド」を舞台に、閉じ込められた人々を救い暴走したコンピュータを停止させるため、20人の仲間が力を合わせて戦うタクティカルアクションシューティング』で、ルールは、敵を全滅させるか、仲間を全員脱出させればステージクリアとなるシンプルなもの。ゲイングランドがゲーセンに登場したとき、僕は中学3年生で、ボンクラな友達と夢中になって遊んだ記憶があるけれども、ヤンキーの多い、ビーバップで湘南爆走族な土地柄に、その戦略性が合わなかったのか、わりと早くゲーセンから姿を消してしまったのが残念でならない。幼稚園から中学校まで一緒だったT君は、ボンクラフレンズの有力メンバーで、放課後、一緒に電車に乗って隣町のゲームセンターに出向いていた間柄だった(僕の住んでいた町にはゲーセンがなかった)。残念ながら僕もTもゲイングランドをクリアすることは出来なかった。僕の場合は、ゲイングランドの難易度に打ちのめされて純粋に挫折しただけだが、Tはゲーム内の仲間を大事にしすぎて、先に進めなかったような記憶がある。ゲーム内で弾に当たったりして死ぬと、その場所で死体になって、後から来る仲間の救出を待つことが出来るのだが、Tはさっさと出口に向かえばいいところを死体の救出に向かってやられていた。ゲームのルールがわかっていないかのように無謀に弾幕へ突っ込んでいくTのプレイスタイルのアホさを僕は忘れることができない。もうひとつTについて印象に残っているのは、ゲーセンで徘徊するヤンキーたち、不良たちの恐怖に怯えつつ、僕は絡まれないよう目線を合わさないようにしながら「頭の悪い集団」と見下していたけれど、Tはそんなヤンキー不良軍団にどこか憧れを抱いているような言動が見られたことだ。「目を合わせるとバカがうつるぞー」僕は冗談まじりで助言したけれども、冗談ではなく、もっと、マジで、強く、しつこく、言っておくべきだった、と30年経った今も後悔している。今年の正月、実家のまわりを散歩しているときにTのお母さんに会った。2年前、僕が会社を辞めて昼間ブラブラしているときに偶然に会って以来である。ボンクラフレンドのTは、平成2年、高校2年生のとき、交通事故で他界した。僕と違う高校へ進学したTはヤンキーへの憧れからヤンキーもどきになった。股を開いて原チャリに乗る、プチ・ヤンキー化したTを見たのが最後で、その数週間後、Tはトラックに突っ込んでしまった。Tのお母さんに会うたび、僕は、懐かしさとともに後ろめたさを覚えてしまう。Tのお母さんは、会うといつも「立派になって!」と言ってくれる。自分の息子のやって来なかった未来の姿を、僕の向こうに見ているのがわかって胸がつまってしまう。僕は人の親ではないけれども、彼女の、親の悲しみや無念はわかる。僕は、「立派な大人」とはとてもいえない。けれども、立派に大人にはなっている。ただのオッサンになった僕でも、子供を喪った彼女からみれば十分に「立派」なのだ。Tのお母さんに会って、「フミコ君、立派、リッパー」と言われると、まだ、全然、立派な大人になれていない、後ろめたさを僕は覚えてしまうのだ。僕はぼんやりと当たり前に生きているオッサンで、当たり前のなかで忘れてしまいがちだけど、その当たり前が当たり前ではない奴らも大勢いるのだ。Tのお母さんに「中学生のとき、あいつと遊んだゲームで今、遊んでいるんすよ」と言うと、彼女は、あら、あの子の分まで頑張って、といって笑った。死んだ人間の分までゲームで遊ぶなんて、正直、ダサくて、ごめんだ。けれどもそのときの僕は、Tの分もやってやろうという気持ちになり、本気でゲイングランドの攻略に取り掛かった。ゲームの中で、仲間を犠牲にした。かつてのTのように仲間を救うために弾幕に飛び込んだ。難易度ダウン。コンティニュー、コンティニュー、コンティニューの果てにどうにかクリアした。幼稚な僕はときどきテレビゲームと自分の人生を重ねてしまう。Tはいつまでも仲間だ。人生というゲームで途中退席してしまったけれど、彼が僕の人生をいくらか楽しいものにしてくれたこと、僕の人生という名のゲームをクリアするのに必要なかけがいのない戦士であったこと、そういうのは忘れないようにしたい。そして、ただ立派に大人になっただけではなく、ゲイングランドで重宝した勇敢なソルジャーや火の球を放つ魔法戦士でなくてもいいから、凡人のままでいいから、少しでも立派な大人に近づけるようになりたい。ゲーム終盤の猛烈な弾幕をドット単位で回避しながら、僕は、そんなことを考えていた。(所要時間24分)

(※Tについては大人になれなかった子供たち - Everything you've ever Dreamedでも書いた)

最近はダイエットもポリティカル・コレクトネスに配慮する必要があるらしい。

ここ最近で、いちばん驚いたのは、妻が、膣締めダイエットをやっていたことである。そういえば昨年の秋くらいからペットボトルに水を入れたり、鏡の前で妙なポーズを取ったりしていたような記憶がある。あのとき妻は、おぼこい顔をして、リビングで締めたり緩めたりしていたのか。なんて破廉恥なのだろう。残念ながらチンしかない僕には、チツを締めることによってどれだけの負荷がかかるのか想像もつかないので、当該ダイエットについてもどれだけの効果があるかも知らなかったけど、調べてみると書籍なども出版されたりしており、それなりに人気があるらしい。 

くびれと健康がとまらない!  膣締めるだけダイエット (美人開花シリーズ)

くびれと健康がとまらない! 膣締めるだけダイエット (美人開花シリーズ)

 

 寝正月でぽっこりした僕の腹部を見た妻が、一緒に膣締めダイエットをしましょう、と言ってきたとき僕は彼女が錯乱したのかと思った。残念ながら妻は正気でした。妻は、私は効果があらわれてきているような気がする、二人で競うようにダイエットをすればより大きな効果が出る、と付け加えた。おかしい。「いやいやいや。ダイエットの必要性は感じてはいるけれども、締めるべきツーチーを持たない僕に、そのダイエットだけは無理だよ」と僕は答えた。我ながら正論だと思った。正しいはずだ。論理的にも、生物学的にも。すると妻は、ああ、優柔不断な阿呆がまたバカなことを言っている、といっているような小馬鹿にした表情を浮かべ、「そうやって理屈をこねて、もっともらしいやらない理由をこしらえているのですね」「今はポリティカル・コレクトネスというのがあって男女は平等なんですよ…」と文末まで日本語にするのも面倒だけどあえて口にしてみたというような感じで僕に言った。そこまで言われたら僕だって膣締めダイエットをやってやろうではないか、という気分になるものである。チツがなくても僕にはチンがある。チンは力なり。新年1月3日の夕刻、茜色の夕日差すリビングで僕と妻は対峙していた。ジャージ姿で。妻は、私と同じポーズをしてください、といい、水の入ったペットボトルを太ももに挟むと、尻を突きだし、両の手の平を前面に押し出すような格好をして、「ハーイ!」と声をあげた。「締まってるの?」と僕は訊いた。彼女は「ハイ!」と答えた。正直、ダサいポーズなので真似したくなかったし、伴侶の目の前で締めるのも人としてどうかと思ったけれど、ハイ!ハイ!ハイ!と手を叩きながら声をあげる妻に気圧されて、やらざるをえない状況に追い込まれた。締めている妻にはなんというか人の域を超えた凄みみたいなものが感ぜられたのだ。僕は妻をコピーするように水の入ったペットボトルを太ももに挟み、尻を突きだし、両の掌を前に突き出し、占締めるべきチツがないので代わりにケツを締めた。ハイッ!という上ずった声が他人の声に聞こえた。これがポリティカル・コレクトネスなのか…、そんな疑問も全力で尻を締めているうちにどうでも良くなった。その瞬間は、確かにそれが、それこそが、僕らのポリティカル・コレクトネスだった…。夕暮れが二人を包んでいた。チツとケツを締めあげて向かい合う妙齢の男女の影。妻に合わせて前傾姿勢を深めた。ちょうど力士が向かい合うような恰好。尻の突き出しが極限を迎えると、肉体の構造的に、どうしても尻が緩んでしまう。僕のメタボを想って、チツを締めている妻だけに恥をかかせられない。僕は、肛門括約筋に喝をいれるべく、ハイ!と声を出した。妻は、余裕の表情を見せていたので、どうやらチツを締めるという行為は、ケツを締める行為よりも体勢に影響を受けないのだと、僕は知った。45年ただ生きてきてケツを締めているだけの僕にでも新たな学びと気付きはあるらしい。そして僕は気づいた。ケツを締めながら残酷な事実に気づいてしまった。それは妻が僕を男性だと見なしていないという事実だった。そうだろう?異性を前にした女性は普通、「私は今、チーツを締めていまーす!ピース!」なんて宣言するわけがない。一般的にチツを締めるのは誰もいない部屋だろう。つまり僕は誰もいない部屋の空気や観葉植物と同レベルということになる。その悲しい事実に気づいた瞬間、ケツに入っていた力が抜け、屁が漏れてしまった。音も、臭いもない屁。誰にも気づかれない屁。そんな屁と自分とを重ねてしまう。妻がご学友との新年会に向かうために身支度を済ませてから、鏡の前に立ち、尻を突きだしてチーツを締めながら「うん!今日もかわいい!」と鏡の前のもうひとりの自分に声をかけてから出かけていく姿を僕はただ眺めていた。眺めることしかできなかった。もう、僕には尻にいれる力は残されていなかった。(所要時間25分)