Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

とある飲食店の緩やかで幸せな終焉

「違う、違う。そうじゃ。そうじゃない」とどこかで聞き覚えのあるフレーズで、提案を却下されてしまった。言葉の主は、個人で飲食店を数店経営しているオーナーさん(推定70才オーバー)である。仕事関係から、相談にのって欲しいといわれ、紹介された案件。オーナーさんからは「飲食店の経営が火の車なので、なんとかしてほしい」といわれた。最初に、知り合いの士業の人を入れて、個人でやっている店にありがちな、どんぶり勘定を改善させた。あわせて、勘に頼った食材仕入れと在庫管理をウチの会社のノウハウで正常なものにさせた。「海ぶどう定食」や「のりのりラーメン」のような1年以上も提供された形跡のないメニューもあったので、すみやかに廃止した。

 最大の問題は、集客がうまくいっておらず、1店舗だけでも苦しいのに、3店舗運営していることだった。そのうえ3店舗とも人が入らないランチ運営をやっており、深夜、閉店するまで毎日スナック形態で営業。慢性的な人不足もあって、シフトをうめるのにも苦労していた。売上は右肩下がりで、労務費は増える一方、グループ全体で赤字を計上していた。このままでは近いうちに潰れるような状況だった。

 活路はあった。3店舗中、閑古鳥がカーカー鳴く頻度の高い2店舗を閉店し、1店舗にしぼって運営すれば、人不足も改善され、客のいない時間帯に店をあけているようなムリムダムラがなくなり、ギリギリでいけるのかな、と。それでもダメならランチ運営もやめて、申し訳ないけど従業員のおばちゃんには辞めてもらって、夜の運営に絞ってやればいい。面白みはまったくないが、確実に成果の出るやり方だと思った。今のスタイルで店を続けるためにはこれしかない、という自信があった。提案にまとめてプレゼンした。その結果が、違う、違う、そうじゃ、そうじゃないであった。

 「これじゃね。意味がないんだよ」と彼は言った。「どういうことでしょう。確実にお店は守れますよ」「それはわかるけどさ、意味がないんだよ。そういう守り方はちがうんだよ」意味が分からないのはこちらである。「どういうことでしょうか」と質問すると「このやり方ではウチの店の存在価値がないんだよ」と教えてくれた。オーナーの言いたいことは以下のとおりである。

《ウチは地元の人たちに支えれている店である。何十年もお世話になってきた。苦しいときは助けられた。確かに夜の営業も人が入らなくなってきているし、ランチタイムなんかはまったく客が入らない日もある。実際、そういう日は増えている。だが、地元の人の拠り所をなくすわけにはいかない。お客は年寄りが多い。もし、店を閉めてしまったら、その人たちはどうなる?そりゃ、儲かれば嬉しいけれど、金がすべてじゃないんだよ》

何とかしてほしいという依頼であった。僕はてっきり経営の立て直しという意味だと解釈したけれど、彼は経営の立て直しを望んでいるわけではなかった。彼が望んでいるのは、今の体制を出来る限り維持すること、つまり、緩やかな店の死であった。

僕は営業という仕事をしている。お客のニーズに応えるのが仕事だ。お客に投資以上の満足感を得てもらうことであり、投資以上に儲けさせること。それが僕の仕事だ。だから、お客の利益と相反する、失血をおさえて出来る限り赤字経営を続けさせ、緩やかな死を迎えさせるというニーズに応えるのは、ひとりの営業マンとして正しいのだろうか。オーナーの意思が変わることはなかった。僕は、3店舗が出来るだけ延命できるようなプランをつくった。売れ筋メニューに限定。営業時間の短縮。商材仕入はウチの会社で取引している業者にお願いして、特別価格で納品してもらえるようにした。ウチの会社で前に働いていた人を紹介するなどしてシフトを埋める手伝いもした。そんなものは付け焼刃だとわかっていた。虚しい仕事だった。

それが去年の夏の終わりのことで、平成31年4月30日、平成最後の日にその店は閉店した。あとにはオーナー氏の大きな負債と通っていた人たちのささやかな満足感だけが残った。オーナー氏が「よくやってくれたよ」と褒めてくれたのが救いだった。彼は70才をこえていて、失礼ながら見かけからは、資産家にはとても見えない。いつも同じような服を来て、店にはボロボロの軽自動車でやってくる。きっつー。彼のこれからが心配でならない。もっと強く説得して、相談を受けたときに、店を畳ませたほうがよかったのではないか、という後悔はしばらく消えないだろう。人が望むものは、その人じゃないとわからない。それだけが本物のニーズであり、本人以外の誰かが、あの人はこんなことを望んでいるにちがいないと想像するニーズは、どれだけ理にかなっていたとしても、偽物にすぎないのだ。そんなことを思った。仕事って難しいね。(所要時間24分)

「弊社は派遣社員の方を正社員と同様に扱っております」が全然フェアじゃなくて驚いた。

フェアとアンフェアの違いって何だろう?今日、取引先の担当者の口から「仕事はフェアにやらないといけない」というフレーズが出たとき、そんなふうに思った。

数年前、某企業の工場の社員食堂リニューアルに携わったときも、当時の担当者から似たようなフレーズを聞いた。「弊社では、派遣で来て働いていただいている方も、社員と同じ1人のスタッフとして大切に扱っております」と彼は言った。だから社員食堂も工場で働く人全員に開放しているのだと。工場見学の際、3~4社の作業着を見かけた。あれは派遣スタッフだったのだろう。依頼された仕事は、生産ライン拡張にともなって予想される増員に対応した食堂リニューアル・プランの作成である。何回かの打ち合わせを経て、概案がまとまってきた段階で、精算方法をどうするかになった。そちらの工場では現金と各種カード対応の券売機を使っていた。券売機で発行された食券を提供カウンターで食事と引き換える、昔ながらの方法だ。

「最近はもう券売機方式は古いですね。社員カードを利用して、提供カウンターに設置した端末で精算する方法が主流ですよ」と話をした。「それだと社員しか使えなくなりますよね」「ですね。社員以外には別のカードを発行することになります」「あーダメダメ」彼は即座に却下した。「派遣の方々や協力会社の方々も社員と同じでないと。フェアが大原則ですから。それにシステムを変えるのは今回のリニューアルでは想定していませんから」実に素晴らしい会社だと思った。そのときは。「 なるほど、それならこれまでと同じように利用者全員がフェアに券売機を使うやり方ですね」と僕が言うと「そこでちょっと相談があるのですが」と彼は切り出してきた。その相談とやらに僕は驚いてしまった。次のような内容だ。券売機はメニュー拡張に伴って新規導入をするが、その際、二重価格を設定できないか?というものである。意味がわからなかったので質問すると、社員とその他スタッフとで価格を変えたいとのこと。「社員と派遣社員には合理的な理由があるので福利厚生で差をつけています」と彼は「フェア」を強調した。何が合理的なのか今でもよくわからない。要するに、派遣スタッフには社員より高い価格設定をして、社員との差額を委託管理費から差し引いて欲しいという依頼であった。たとえば社員は300円だが派遣社員は500円というふうに。実際に社員と社外とで価格差をつけている企業は多い。社員カードで決済すると社員価格が適用されるようなカタチで行われる。もちろん、それは派遣で働くスタッフにオープンにされている。とはいえ派遣社員は経済的に厳しいので、価格差をつけている、とある企業の社員食堂で、派遣で働いている人たちは自宅から持ち込んだ弁当を食べていたのを見たことがある。

だが、彼の依頼は価格差をつけるというだけではない点が特殊であった。《今までのやり方を変えずに価格差をつけたい。価格差はつけるが派遣スタッフの気持ちに配慮して、社員が社員価格で食券を購入しているのを知られないような方法を考えて欲しい》というものだったからだ。きっつー。僕は、苦し紛れで、同一メニューに社員とその他で二重価格ボタン設定する「別ボタン方式」、社員とその他とで違う場所に設置した券売機を使う「券売機自体を分ける方式」を提案したが、いずれも「フェアでないから」という理由で却下。結局、社員だけにキーカードを発行して、そのカードを券売機に差しているあいだだけ社員価格のボタンが液晶に表示される方式が採用された。怪しまれないように「キーカードは社員の食堂利用率データを取るためです。総務部」というポスターがご丁寧に貼られた。その仕事の後すぐに会社を辞めてしまったので、確かなことは言えないけど、変わっていなければ今もあの工場で働く派遣社員たちは、正社員の倍近い価格を同じ食事に支払っているのを知らずに社員食堂を使っているはずである。

 打合せの終わりに、担当者の人が「私もこんなことはやりたくないのですけどね」と言った。同調して「これがフェアなんですかね」と思わず呟いてしまった。それから二人で、うーん、と首を傾げたのを今でも覚えている。「でもね、アンフェアだからこそ見た目だけでもフェアでないと」と彼は言った。だったら社員と派遣も差別なくフェアに扱うなんて言わなきゃいいのに、とは口が裂けても言えなかった。やり方はフェアかもしれないが、見方を変えたら派遣社員の人から搾取した金で、社員食堂運営を楽にしてるようなものだからだ。恩恵を受けるのは会社、そして正社員。

フェアにアンフェアをやるなら、それはフェアじゃないのではないか。僕には何がフェアなのかわからなくなってしまった。今はフェアにフェアな仕事をやりたいと強く思っている。言ってみればそれが僕の軸だ。もちろん、仕事なのできれいごとばかりは言っていられない、アンフェアなことをやらなかえればならないときもある。だからこそ、自分が戻っていける場所として《なるべくフェアでありたい》という軸が欲しいのだ。そういう強い軸を持ち続けることが、もしかしたら仕事にかぎらず人生においていちばん大事かもしれない。ま、ああいう仕事は楽しくないからなるべくやりたくない。悪事の手伝いしてるようで、きっついし。(所要時間25分)

僕の子供が宿題拒否不登校ユーチューバーになったら。

「不登校は不幸じゃない」10歳のユーチューバー 沖縄から世界に発信「ハイサイまいど!」(琉球新報) - Yahoo!ニュース
宿題拒否不登校ユーチューバー(沖縄在住/10才)が物議を醸しているけれど、別にいいんじゃないか、というのが僕の感想である。これは「いろいろな生き方があること」「今の世の中に感情のはけ口があること」に対しての限定された「いいんじゃないか」である。プラスでも、マイナスでもない。もし、彼が自分の子供だったら「もっと賢いやり方があるだろう」と助言くらいはする。知人の子供だったら「申し訳ないけど僕に近づけないでくれ」とお願いする。だいたい、僕の子供ならば彼よりもずっと賢…いや、僕の子供時代に近い思考と性格と能力を持っているであろうから、かつての僕がやったように宿題をちゃちゃちゃっと瞬殺して学校で友達と遊んでいるはずであるが。

そもそも、他人の子供、それも僕の住む神奈川県から遠く離れた都道府県で暮らす小学生が、どのような生き方を選ぼうが僕には関係ないのである。人生が交差しそうなときに対応を考えればいい。それよりも「学校へは行った方がいい」「人生ナメてる」「親にコントロールされすぎ」などと人生において彼と交差することのないであろう人たちが本気で熱くなっている事態に驚いている。その優しさに感動している。皮肉ではなく、世の中、捨てたものではないと思った。この優しさが彼に対する心配から生まれたものであって、「責任を取らなくていい奴だからTwitterで言いたいことだけ言っておこう。優しくて正しいアッピールになるからね」という、いい加減な気持ちから発生したものではないと信じたい。

僕は彼の生き方を否定できない。なぜなら僕にも、一秒ほど血迷って「宿題やりたくないから学校へ行きたくない」と思ったことが小学生時代にあったような気がするからだ。多くの人は一瞬くらいはそう思ったことがあるのではないか。だが、ほとんどのボンクラ小学生は母ちゃんから「バカ言っていないで宿題をやれ」と一喝され、「何バカなこと言っていたんだろう?可能性を広げるために算数ドリルを広げよう」と我にかえって机に向かうものだ。もし、そういう普通の親がいなければ、算数ドリルの入ったランドセルを捨てて、ユーチューブへ向かっても仕方ない。僕らには普通な親がいた、それだけのことである。

彼の動画も拝聴させていただいた。残念ながら45才の僕には響かなかったけれど、小学生なら響くものがあるのだろう。20年くらい同じような動画を放ち続ければ、世の中は変わるかもしれない。ただ、宿題を拒否して不登校をするのは彼の人生だからオッケーだけど、なぜ、周りを巻き込むように不登校を呼びかけるのかが引っ掛かった。一人でやれよ、と。もちろんイジメを受けている子供たちはガンガン逃げるべきだ。イジメをするようなバカから、そういうバカを野放しにする学校から。だが、宿題拒否という彼にとっては大真面目でも周りからみればバカな理由で不登校を推奨する動画をつくられて、これだけ話題になったら、イジメられてナイーブになっている子供たちが、「あんな宿題拒否の人と一緒にされたくない」といってかえって学校から逃げられなくなってしまうのではないかと心配になってしまった。大人であれ子供であれ、自由に生きるのは大変結構だけれども、その自由には責任がともなうのを忘れてはならない。

動画の評価を見る限り、彼の活動に対して世の中の大人はマイナスの評価を下しているようだ。それは我々大人が生きてきた人生や社会を、宿題拒否というふざけた理由で否定しているように感じるからだ。ナメられているように思えるからだ。ひとことでいえば「なんかムカつく」。ムカつくは非常に強い感情であり、一度、ムカついてしまうと彼の考えや行動だけでなく、動画における顔面や態度まですべてがムカついてくる。ムカムカムカー!覚えていてほしい。ムカついたからといって彼を否定するとき、あなたは宿題にムカついた彼そのものだということを。まあ、冷静になろうぜ。

僕はイキっている若者を観察して「ムカつくなあ」といいながらお茶をすするのを老後の楽しみにしている。僕の老後のために、ムカつくからという理由で彼のような逸材を潰さないでいただきたいものである。(所要時間25分)

時代が変わっても芽生えてくる生きづらさの蕾について

平成から令和になった瞬間、世間ではお祭り騒ぎをしている方々もいたようだが、我が家は就寝中であった。奥様はガチ寝。僕はウソ寝。なぜ僕がウソ寝をしていたのか。平成最後の夜に、平成という時代を自分なりに総括しておきたかったのだ。奥様は「元号が変わるだけでしょう。あたしはあたしだから」などと化粧品のCMのようなことを言っていた。僕は、時代の変化に対して不感症な奥様に合わせて、布団に入っただけである。本当は渋谷で若者たちと「平成!女子大SAY!令和!東洋英和!」と大騒ぎしたかった。

僕にとって平成は生きにくい時代だった。僕だけではない。平成を通じて、多かれ少なかれ生きにくさを感じていた人は多いのではないか。平成の30年間で、世の中は便利になる一方であったはずなのに、なぜ、僕らは生きにくさを感じてしまうのだろうか。そして生きにくさのつぼみは、日々芽生えているように見える。令和は皆にとって、生きにくさのつぼみを刈り取る時代であって欲しい。

そんな願いを込めながら、隣室から聞こえる妻のイビキをバックミュージックに、僕は平成を総括していた。数多の女性にお世話になったけれど、平成という時代、もっともお世話になったのは、つぼみさんである。ヘッドフォンを耳にあて、ズボンとパンティーを脱ぎ捨て、彼女のDVDを再生。クライマックスまでチャプターを飛ばした。気持ちはエキサイティンしたが、エキサイティンはパオーンに伝染しなかった。

昭和時代は無差別テロ的にパオーンしたのに、平成になると次第にパオーンが思い通りにイカなくなった。そして平成20年に僕のパオーンは完全に絶滅危惧種に…。画面では、綺麗にお化粧したつぼみさんが可憐に微笑んでいた。一方、僕は相変わらずのイケないルージュマジックである。平成という時代、僕を悩ませ続けたイキにくさを抱いて僕は時代を越えた。令和が少しでもイキやすい時代であればいい。そう祈っている。(所要時間8分)

天皇陛下のカレーライス

   こんなツイートが話題になっていた。話題になったのは、陛下の食に対するスタンスに感銘を受けたから、そして「どれだけ不味いカレーライスなのか」「そこまでカレーが不味くなるのか」という不味いカレーライスに対する興味からだろう。はっきりいってカレーは、素人でも不味く作るほうが難しい。普通に作れば、そこそこのものが出来る。プロの調理師のいる学食ならなおさらである。さいわい、僕も学生のときに食べられないレベルのカレーライスには出会ったことはない。ただ、学食ならではの事情で不味くなりうるのもカレーライスなのである。当時の学習院大学学食がどういう運営をされているのかわからないので、なぜ学食のカレーは不味くなるのか、僕の経験から考えてみる。実は、前職の研修で学食の厨房に2週間ほど入ったことがある(東海地方の大学学食)。毎日提供されるカレーライスがどのように作られ提供されているか見てきた経験から学食のカレーライスが不味くなる理由について考察してみよう。


大前提にあるのは一般的に学食の運営はどこも厳しいということ。学食専門で受託運営している給食会社が倒産したニュースも記憶に新しい。

元給食営業マンが話題の大学学食倒産を考察してみた。 - Everything you've ever Dreamed

学校サイドから(委託費/運営費)補助がない場合、運営はかなり厳しいものになる(あっても厳しいけど)。売上が少ないからだ。基本的に(一般開放されていても)対象者は限定されているし、運営期間も短いからだ。年間180日もあればいいほうではないだろうか。
①「学食カレーライスの厳しすぎるコスト」 というわけでカレーライスにも学食運営の厳しさは反映される。僕が研修で入っていた学食のカレーライスは原価120円だった(販売価格は250円だった…はず)。原価におさめるために食材は格安なものになる。学食はお米のランクは低いものを使用。肉は少なめで見つけられたらラッキーなレベル。野菜は安いものを使用、じゃがいも、人参、玉ねぎがごく少々。それでもカレーライス単体でのコスト的に厳しいので、前日に炊いた白米をふかしたものを使う。カレールウをかけてしまえばごまかせる。カレールウ自体も前日に具材を入れて仕上げたものを使う。既製品のルウは薄める。ボソボソになったライスにしゃばしゃばになった野菜の入ったルウで美味しいカレーライスになるわけがない。
②「学食カレーライスの値段」 他にもメニューがあるのにカレーライスが犠牲になるのは学食のカレーライスが安いからだ。一般的に他のメニューより安く設定されていて、利益が確保できない。お金がない学生に人気があるので、メニューから削ることも許されない。学食を任されている業者が力を入れる意味がない。
③「学食カレーライスは手抜きができる」 カレーは手抜きができるというのも要因だろう。学食カレーライスのサンプルを思い出してもらいたい。いたって普通であるはずだ。食器に盛り付けられたごはんにカレールウがかけられている。日替わり定食は見た目でわかるような手抜きができない。たとえば先月のから揚げ定食には5個ついていたから揚げが今月は3個にするようなことは許されない。即クレームになるからだ。ちなみにルウをライスにかける理由については以前書いた。

不味いカレーライスは1秒見れば分かる。 - Everything you've ever Dreamed

学食のカレーライスが不味くなるのは上記3つの理由が大きい。調理師にカレーに対して妙なこだわりがあって、偏った味覚と趣向から奇天烈なオリジナル学食カレーライスを作ってしまった実例を知っているけれども、それは例外だろう。

学食カレーライスが不味くなる理由はおわかりいただけたと思う。でも学食のカレーライスがずっと不味いままである理由にはなっていない。それにプロだったら、美味しいものを提供しなければならないのではないかと思うのが一般的だ。でも、学食の不味いカレーライスはプロだからこそなのだ。あえて、美味しくないカレーライスにしているのだ。僕が研修で入った現場では、カレーライスを美味しくしてはいかん、という空気が確かにあった。

学食のカレーライスは安い。カレーライスは国民食といわれることもあるように、嫌いな人も少ない。もし、美味しく作ってしまって、学生の人気が集中してしまったら、利益が確保出来ずに、その学生食堂の運営は圧迫される。だから、あえて美味しくつくらない。あえて不味いカレーライスを提供し続けることによって、定食などの他の価格の高いメニューに人を流す。「それがプロだ」と研修先の現場責任者が教えてくれた。陛下が食べられていた学食のカレーライスも、あえて不味いままにされていたのではないか。つまり「学食の」カレーライスならではの事情から不味いものになっていたのだと僕は推測する。国民的人気のあるカレーライスゆえの悲劇である。

もっとも、これは15年も前の話だ。当時と比べると顧客重視になって、現在の学生食堂は充実したものになっている。カレーライスも専門店に負けないくらいのものを提供しているところもある。もし、今陛下が学食でカレーライスを食されたら、米一粒も残さない、ではなく、おかわりをお願いしたくなるのではないかな。そういう美味しすぎる学食のカレーライスが増えてくれることを、食品業界の片隅に身を置くものとして願うばかりである。(所要時間25分)