Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「子供が欲しいから離婚してくれ」に正義はあるのか。

女性タレントが二十歳以上も年下の旦那との離婚を自身が出演しているテレビ番組で発表した。離婚の決め手になった理由は、旦那さんが「自分の子供が欲しいから」だそうである。子供が欲しいのであれば養子縁組などの方法もあること、女性タレントは50代なので、出産を考えるのは現実的には難しいこと、関係が冷めて、それらを承知したうえでの「自分の子供が欲しいから」は、離婚の理由としては、関係修復の可能性を否定する以上に、ひたすら重いだけで、ひどく残酷に思えた。

僕も子供がいない。今、45才で生殖能力の問題もあるので、養子をもらうようなことがないかぎり、自分の子供を持つことはないだろう。女性タレントの旦那が血の繋がった自分の子供が欲しがる気持ちはなんとなくわかる。オスの本能なのかな、何も残さずに死んでいくのは、ちょっと寂しいものがあるからだ。知人友人たちの多くはインスタやフェイスブックに子供との楽しそうな瞬間を切り取った画像をアップしている、それらを見るときは、単純に「楽しそう!」と思いながら、自分にもこういう楽しい可能性はあったかもしれないのだな、とぼんやり考えてしまうときもある。自分で決めた人生なので後悔をしているわけではない。なんとなく「こうだったかもな~」とやってこなかった自分の未来を想うだけだ。この問題は僕の中では既に解決済みなのだ。

だが、世の中には血のつながった子を持つことに何よりも価値があると考える人間もいる。そういう思想を持つのは個人の自由なので、僕の知らないところで生きて死んでくれればいいだけのことなのだけども、どういうわけか他人にその考えを押し付けてくるから厄介だ。それも「あなたのことを本気で心配しているから言っているのよ」というお節介というカタチで。ときどき「お子さんは?」と質問される。「いません」と答えると、相手が「ああマズい質問しちゃったな」「可哀想なこと聞いちゃったな」と言わんばかりの表情をすることがある。なかには「ごめんなさい」と謝ってくる人までいる。そういう人は、薄っすらと子供は持つべきという思想を持っているから、そういう対応をするのだ。ごめんなさいと言われる方が悪いことをしているような気がして少し傷つくというのに。ウチの奥様にもそういう思想が見られる。僕の弟夫婦は生殖能力が極めて高くて子だくさんなんだけど、彼らとの会話の流れの中でもときどき「あ。ウチは子供がいないから…」とか言い、なんとなく気おくれしているような様子が見せるのだ。また、養子をもらえばいいじゃないか、と言ってくる人も同様で、余計なお世話である。

「子供がいようがいまいが関係ない。それぞれがそれぞれの人生を生きればいいのだ」と言いながらも、もし僕が「子供が欲しいから離婚してくれ」と言われたらどうだろう?「子供がいない人生もサイコーだぜ!」といって拒否できるだろうか。無理だ。出来ないと思う。正義の有無とか、正しいとか間違っているとか、そういう客観的な判断など関係なく、通達した側に「子供が欲しい」という大義名分があって、応じられない負い目がこちらにあったら、抗うのは難しい。「子供が欲しいから離婚してくれ」の残酷性は、抗うチャンスすら与えていない点にあるのだ。(所要時間17分)

 

やりきった仕事だけが奇跡を起こす。

自分なりにベストを尽くし、納得した仕事や研究が出来たと思っていても、期待通りの結果が出ないときがある。そんなとき、いったいどうやって己を納得させて、やり過ごせばいいのだろうか。 僕は、営業職なので、「いい仕事が出来た」と胸を張れるような企画を立てたり、相手のニーズに応えられるような提案しても、競合相手に負けてしまったり、予算をこえてしまったり、担当者と合わなかったり、その他の要因で成約に至らないときがある。酷いものになると、「トップの友人が競合他社にいるから」という理由でほぼ勝ち取っていた案件をひっくり返されたこともある。あのときは地獄だった。「ほぼ内定と言っていたのにひっくり返されるとは何事だ。つーか内定自体が嘘だろう。お釈迦様は騙せても俺の目はごまかせねえ。相手のトップの名前が免罪符になるとでも思っているのか、馬鹿者!」と上司から言われ、その夜、中ジョッキを15杯ほど自棄飲みしたものである。

厳しい言い方をすれば、仕事は結果がすべてである。だが、期待どおりの結果ばかりが出ないときは、忘れて次へ向かうことも肝心だ。結果の出なかった仕事を通じて学んだこと経験したことをこれからも活かせばいい。そう自分に言い聞かせることで、僕はやり過ごしてきた。だが、本音をいえば、勝利から学びたい、勝利の経験を積み重ねたい。負けはただひたすらどこまでも負けだからだ。僕はいいかげんな仕事をしたことはない。自分なりにベストを尽くしてきたつもりでいる。残念ながらものにならなかった仕事たちを葬ってきた。いい経験をした、と自分に嘘をつきながら。ときどき、「あのとき負けてよかった。あの負けが今の自分を形成している。むしろあのとき勝っていたら…」などとインタビューで答える成功者がいるけれども、負けからの成功というストーリーに寄せすぎなんじゃね?と思ってしまう。だいたい、「あのとき」勝っていたらもっといい経験が出来たかもしれないではないか。
「部長、〇〇社のサトウさんから電話です」と言われても、ピンとこなかった。会社名も聞いたことがない。日本に何百万人もいるサトウさんから一人のサトウを特定するのは不可能。さいわい、借金を抱えていないので取り立て電話の可能性はない。直感で詐欺だと思った。社名も洋風でいかにもだった。「いないと言ってくれ」僕は命じた。命じながら、これでおしまいだと思った。だが僕の予想に反して毎日のようにサトウから電話はかかってきた。電話をとった同僚も困り果てている。同僚たちからの「あの人、もしかしてサラ金地獄なんじゃね?」という疑惑の視線も痛い。「もしもし」僕が電話を替わると「ああ、お久しぶりです。やっと見つけましたよ」とサトウは言った。
結論からいえば、サトウ氏とは以前に何回か会ったことがあった。サトウ氏が勤務する会社の食堂リニューアルでコンペをやる際にお世話になったのだ。サトウ氏は、当時の会社の系列の会社にうつったそうだ。会社名を知らないわけである。ちなみにサトウ氏は姓も変わっていた。「お察しください」だそうである。なるへそ。会社名も名前も変わっていたらサラ金と誤解しても無理はない。僕はそのコンペでは並々ならぬ力の入れようであった。あれも出来ます。これもやります。足しげくサトウ氏のもとへ通い、要望を拾い集め、企画に盛り込んだ。熱血仕事バカだったのではない。仕事を溜まりに溜まっていた性欲のはけ口にしていたのだ。もしかしたら、性欲を仕事にぶつけていたことがキャプテンEDになってしまった要因のひとつかもしれない。残念ながら成約には至らなかった。僕とは違うアプローチをした競合相手が契約を勝ち取ったのだ。納得のいく仕事をした自信はあったが結果は納得のいかないものになった。僕はその仕事を中ジョッキを飲んで葬った。
「仕事をお願いしたいのだけど」とサトウ氏は言った。当時の僕の仕事ぶりを評価してくれていて、機会があったら頼みたいと考えていたらしい。当時勤めていた会社を僕は辞めていたので、「見つけるのに苦労した」とサトウ氏は笑った。これほど嬉しいことはない。自分がやりきったと思える仕事が、一度死んだはずの仕事が、不死鳥のごとく蘇ってきてくれたのだから。それこそ仕事の方から。
任された仕事はやりきることが大事なのだ。やりきること自体に意味があるのであって、結果がともなってくればサイコー、ともなわければザンネーン。次に繋がる経験や教訓はあってもなくても実はどうでもいいのかもしれない。そう考えると、どんな仕事でもやり切れるような気がする。奇跡なんて言葉は使いたくないけど、これは奇跡といってもいいのではないか。誰にでも起こりうるライト級の奇跡。だってサトウ氏と僕が仕事をしたのは12年前のたった一度きり。12年前だよ。ただ、当時と同じような熱をもってサトウ氏との仕事に当たれるかどうか心配ではある。あの頃、仕事に叩きつけたほとばしるような性欲は、もう僕には残されていないから。(所要時間28分)

新人を戦力にするために必要なことは何だろう。

隣の部署に在籍する新人君が仕事中に居眠りしてしまうことが問題から大問題となり部長会議のトピックになってボスから意見を求められたとき、完全に他人事と思っていた僕は「切るのは簡単ですけど彼にも素晴らしい個性や良いところもありますからねー。バッサリ切ってしまうのは僕ら大人の無責任と怠慢ですよ」ともっともらしいが無責任な意見を述べさせていただいた。そしたらボスが「そのとおり」と同意して環境を変えて様子をみることとなり、「じゃ、営業部で」とサクッと決められ、僕がその居眠り新人君の面倒をみるはめになった。2ヶ月の期間限定ではあるが、そのあいだに当該新人君の仕事に対する意識や態度を改めさせなければならない。

難しいのは「彼は営業部がぴったりだ。正式に営業部員になってもらう」という事態にならぬよう、改善をほどほどにおさえなければならないことである。だってそうだろう?入社早々、トイレの個室でイビキをかいている若者とは個人的にはお付き合いをしたくない。期間を終えたら速やかに、他の部署へどーぞどーぞするのがベターなのである。 

まず新人君と話をして、あらためて病院の診察を受けるように指示を出した。「しばらくは僕と一緒に仕事をしてもらうから」と言い、「居眠りする原因に君なりに心当たりはあるかい?」と、直球すぎるかな、ハラスメントにならないかな、とビビりつつ質問すると「もしかしたら、まったく眠くならないので毎晩深夜3時近くまでゲームで遊んでいるのが原因かもしれません」と豪速球が反ってきた。うん。原因それだね。ゲーム楽しいもんね。「せめてこれからは1時にはゲームやめようか」「やれたらやってみます」これは想像以上の難敵…と覚悟を決めたのはそのときである。

先日、外回り営業にも同行してもらった。「俺、運転しますよ」と言ってきたので運転を任せた。自信満々なのはレースゲームで腕に覚えありなのだろう。しかし数分走行したあたりから、あくびを連発しはじめ、僕が「信号青になったぞー」「黄色だっつーの」と大声で教えないとわからない状態になったので、途中で運転を替わった。そのまま助手席に移るのかと思いきや、ちょっと光が当たるとアレなのでつって後部座席に乗り込む新人君。なぜ、僕が運転手ポジで、彼が重役ポジなのか、納得できない。これでは後部座席で激務の合間に睡眠を取る若手実業家と年老いた専属運転手みたいではないか。僕は「2ヶ月、たった2ヶ月」と心の中で繰り返してやりすごした。

マンマークに近いかたちで仕事ぶりを観察しているので、彼がトイレの個室を半刻占拠するような露骨な居眠りはなくなったが、それでもデスクで大型船を漕いでいるときがある(任せた仕事はきちんとやってくれているけど)。営業部は日中、人が出払ってしまうので油断するのだろう。僕は駆け出し営業マン時代に先輩からの教わった営業心得を彼に伝えた。

「営業マンは同僚からも客からもナメられてはならない!飲み過ぎた次の朝は早めに出社しろ(二日酔いするべからず)!朝寝坊して遅刻しそうになったら午前休にしろ(遅刻するべからず) !仕事中に眠くなったら表に出て外で寝ろ!(居眠りするべからず)  」

というどうしようもない教えであるが、新人君は感銘を受けたらしく、以来デスクでうとうとする姿を見ていない。そのかわりに意味不明なショート外出が増えてしまった。きっと彼は猫なのだろう。猫は死ぬとき姿を消すと聞いたことがある。親友のまちゃき君のとこのポチも姿を消したしなぁ…と小学生時代を思い出していると新人君が帰ってくる。彼は生きているのだ。

「ゲームやってると眠くならないのか?」「なりません。集中しているので」「じゃあ仕事でも集中しようよ。何でもいいからさ、集中できる仕事を見つけていこう。2ヶ月間は僕も手助けするからさ」「ありがとうございます」僕の言葉が響いたのだろうね、営業にかかわるあらゆる仕事に興味をもって、挑戦する姿勢を見せてくれるようになった。良かった。彼が何かヒントをみつけてくれるといい。そして、あまり営業部に染まることなく2ヶ月を過ごしてくれればいい。

そんなふうに思っているそばで、先ほどから新人君が任せた仕事の合間に妙な行動を見せている。シャープペンの芯を、折らないよう最新の注意を払いながら、シャープペンのお尻ではなく先端からゆっくりと差し入れているのだ。作業が終わると芯を取り出して同じことを繰り返している。先端が気持ちいいのは否定しないけれど、まさか、これが、集中できる仕事、なの、か。きっつー。いや、彼は間違っていない。何でもいいと言ったのは僕だ。つまり悪いのは僕。まだ2ヶ月は始まったばかりだが、長い長い2ヶ月になりそうである。もし、彼が居眠りの兆候を見せたら子守唄を歌う準備は出来ている。今、僕は彼の漕ぐ船に乗っている。だが一緒に沈むほどの義理はない。船を選ぶ権利は誰にでもあるのだ。(所要時間24分)

『空母いぶき』炎上でツラい記憶が蘇った。

「空母いぶき」という新作映画に首相役で出演している俳優さんが、現職総理を貶めるようにキャラクターを変更したと発言して大炎上していた。おこづかいが少なすぎて、すでにコナン君とピカチュウ君の探偵映画2本を鑑賞してしまった僕に、当該映画を観に行ける余裕がなく、どのように貶めているのか、自分の目で確認できないのが残念でならない。そういう事情があるので、あまり人の病気を揶揄するのは感心しないなあ、という薄い感想を持つだけである。薄口すぎて、激烈な反感を覚えた人には申し訳ないくらいだ。

それでも、反感を持ったり、強い怒りを持つ人の気持ちはよくわかる。原作の設定にどれほど意味があるのかわからないが、愛着を持っている人からしてみれば、首相というキャラクターを腹くだしキャラクターへと変えられるのは、「改悪された!絶対に許せない!」となるだろう。正義感の強い人からみれば、たとえ現職総理のやることなすことアベノミクスや消費税増税が気に入らなくても、「病気(潰瘍性大腸炎)で苦しんでいる人を揶揄するのは間違っている!絶対に許せない!」ということになるだろう。

僕は現職総理の苦労が少しわかる気がする。彼が患っていた病気とは少々違うが、僕も胃腸では人並み以上に苦労したからだ。子供の頃、僕はよく腹を下していた。毎朝「飲まないと大きくなれないよ!」と親に言われて飲まされていた牛乳が体質的に合わなかったのだ。腹がピーゴロゴロになってもトイレへ駈け込めばいい。だが、草野球で守備についているとき、あるいは攻撃時にランナーで塁に出ているときにピーゴロゴロになってしまうと大ピンチになる。フォアボールで一塁に出塁したときにピーゴロゴロに襲われたことがある。ピーゴロゴロのゲリピーなのでリードが出来ない。味方からは「なんでリーしねえんだよ!」敵からは「ランナーびびってる!」野次られる。問われるケツ筋力。流れる脂汗。そこへ人の苦労も知らずに、味方がピッチャーゴロを打つものだから、二塁へ走りだした瞬間に、僕はピーゴロゴロを漏らしてしまった。それからしばらくの間、当時中日ドラゴンズに在籍していた助っ人の応援歌でバカにされる日々がつづいた。ゲーリー!ゲーリー!ホームランー!あの屈辱の時間が僕の人格を歪めたのは間違いない。この経験がなかったら、「空母いぶき」で総理役を演じた俳優さんの発言に対して何の感想を持たなかっただろう。人間は、自分で経験したことだけしか、正確に想像できない生き物だからね。人の苦労がわかるというのは、わかったつもりなだけなのである。

「空母いぶき」の炎上現象で、個人的に興味深いのは、ツイッターで「うわ!こんな非常識な発言をする俳優が出演する映画は観たくありません!」「原作に興味があったので観るつもりでいましたが、観ないこと決定!」と映画を鑑賞しないとわざわざ表明する人である。僕が知るかぎり、彼らのツイートを辿っていっても「空母いぶき」鑑賞表明をしている人はいなかった。鑑賞を表明していないのに「観るつもりだったけれど私は観ません!」と意思表明されても、本当に見るつもりがあったのかわからないし、抗議の意味で鑑賞しない意思を表明されても、もともと観るつもりのなかった人が鑑賞しなくなるだけなのであまり興行成績には関係がないのではないかな、と意地悪に思った次第である。ちなみに僕はこの炎上騒ぎがなければ映画の存在に気付かなかった派。まあ、件の俳優さんの発言は受け止め方によっては、それなりの批判を受けても仕方ないよなーとは思う。それだけ。(所要時間16分)

とある飲食店の緩やかで幸せな終焉

「違う、違う。そうじゃ。そうじゃない」とどこかで聞き覚えのあるフレーズで、提案を却下されてしまった。言葉の主は、個人で飲食店を数店経営しているオーナーさん(推定70才オーバー)である。仕事関係から、相談にのって欲しいといわれ、紹介された案件。オーナーさんからは「飲食店の経営が火の車なので、なんとかしてほしい」といわれた。最初に、知り合いの士業の人を入れて、個人でやっている店にありがちな、どんぶり勘定を改善させた。あわせて、勘に頼った食材仕入れと在庫管理をウチの会社のノウハウで正常なものにさせた。「海ぶどう定食」や「のりのりラーメン」のような1年以上も提供された形跡のないメニューもあったので、すみやかに廃止した。

 最大の問題は、集客がうまくいっておらず、1店舗だけでも苦しいのに、3店舗運営していることだった。そのうえ3店舗とも人が入らないランチ運営をやっており、深夜、閉店するまで毎日スナック形態で営業。慢性的な人不足もあって、シフトをうめるのにも苦労していた。売上は右肩下がりで、労務費は増える一方、グループ全体で赤字を計上していた。このままでは近いうちに潰れるような状況だった。

 活路はあった。3店舗中、閑古鳥がカーカー鳴く頻度の高い2店舗を閉店し、1店舗にしぼって運営すれば、人不足も改善され、客のいない時間帯に店をあけているようなムリムダムラがなくなり、ギリギリでいけるのかな、と。それでもダメならランチ運営もやめて、申し訳ないけど従業員のおばちゃんには辞めてもらって、夜の運営に絞ってやればいい。面白みはまったくないが、確実に成果の出るやり方だと思った。今のスタイルで店を続けるためにはこれしかない、という自信があった。提案にまとめてプレゼンした。その結果が、違う、違う、そうじゃ、そうじゃないであった。

 「これじゃね。意味がないんだよ」と彼は言った。「どういうことでしょう。確実にお店は守れますよ」「それはわかるけどさ、意味がないんだよ。そういう守り方はちがうんだよ」意味が分からないのはこちらである。「どういうことでしょうか」と質問すると「このやり方ではウチの店の存在価値がないんだよ」と教えてくれた。オーナーの言いたいことは以下のとおりである。

《ウチは地元の人たちに支えれている店である。何十年もお世話になってきた。苦しいときは助けられた。確かに夜の営業も人が入らなくなってきているし、ランチタイムなんかはまったく客が入らない日もある。実際、そういう日は増えている。だが、地元の人の拠り所をなくすわけにはいかない。お客は年寄りが多い。もし、店を閉めてしまったら、その人たちはどうなる?そりゃ、儲かれば嬉しいけれど、金がすべてじゃないんだよ》

何とかしてほしいという依頼であった。僕はてっきり経営の立て直しという意味だと解釈したけれど、彼は経営の立て直しを望んでいるわけではなかった。彼が望んでいるのは、今の体制を出来る限り維持すること、つまり、緩やかな店の死であった。

僕は営業という仕事をしている。お客のニーズに応えるのが仕事だ。お客に投資以上の満足感を得てもらうことであり、投資以上に儲けさせること。それが僕の仕事だ。だから、お客の利益と相反する、失血をおさえて出来る限り赤字経営を続けさせ、緩やかな死を迎えさせるというニーズに応えるのは、ひとりの営業マンとして正しいのだろうか。オーナーの意思が変わることはなかった。僕は、3店舗が出来るだけ延命できるようなプランをつくった。売れ筋メニューに限定。営業時間の短縮。商材仕入はウチの会社で取引している業者にお願いして、特別価格で納品してもらえるようにした。ウチの会社で前に働いていた人を紹介するなどしてシフトを埋める手伝いもした。そんなものは付け焼刃だとわかっていた。虚しい仕事だった。

それが去年の夏の終わりのことで、平成31年4月30日、平成最後の日にその店は閉店した。あとにはオーナー氏の大きな負債と通っていた人たちのささやかな満足感だけが残った。オーナー氏が「よくやってくれたよ」と褒めてくれたのが救いだった。彼は70才をこえていて、失礼ながら見かけからは、資産家にはとても見えない。いつも同じような服を来て、店にはボロボロの軽自動車でやってくる。きっつー。彼のこれからが心配でならない。もっと強く説得して、相談を受けたときに、店を畳ませたほうがよかったのではないか、という後悔はしばらく消えないだろう。人が望むものは、その人じゃないとわからない。それだけが本物のニーズであり、本人以外の誰かが、あの人はこんなことを望んでいるにちがいないと想像するニーズは、どれだけ理にかなっていたとしても、偽物にすぎないのだ。そんなことを思った。仕事って難しいね。(所要時間24分)