Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ホワイト企業がブラック企業に堕ちる瞬間を目撃しました。

残業ないし、破綻もないし、クソ上司もないし、今の職場には概ね満足していて、少なくとも50才になるまでは働きたいなあと考えている。だから、出る杭にならないよう、注意して生きている。今朝の定例部長ミーティングも、出る杭になって悔いを残す結果にならぬよう、注意しつつ、営業部の長として出席した。守秘義務があるのと、嫉妬の対象にされたくないのとで、詳細はひかえるが、業績は好調そのもののいい数字が上がっているので、なかなかの冬季賞与になりそうである。ちなみに前に勤めていた会社は賞与が0.1ヵ月だそうで、本当に、本当に、転職して良かった…このままの調子でいっていただければありがたい…と会議の末席で感慨に浸っていた。

するとボス(社長)が「本当は社員をもっと追い詰めて、数字を絞り出したい。実際もっとできると私は考えているよ」と本音らしきことを口にした。取り巻きっぽい人たちが、ですよね、私もそう思います、とワッショイワッショイ神輿を担ぎ始めた。前の会社の上役が同じようなことを言っているのを何回も聞いた。この神輿の色はブラックだ。僕は二度とこの神輿は担ぎたくない。ボスが「社員にはもっと、その能力を活かして働いてもらわないといけない」といったとき、ブラック神輿のボルテージは最高潮。ワッショーイ!ワッショーイ!「やりましょう社長」「潜在能力を覚醒させましょう」と何か沢尻的なものをキメたかのような調子。

ブラック神輿メンバーの誰かが「せめて社員には、我々のような経営者感覚をもってもらいたいですね!」と言った。出た~。経営者感覚。僕は出る杭になって悔いを残したくないので、「バカ」と言いたいところをぐぐっと押さえつけ、「面白い」と言い換えて心が壊れないようにした。「経営者感覚!面白い(バカ)ですねー」僕は言った。そして「そうお考えになるのなら社員に株でも配りましょうよ。でないとただの面白い(バカ)話で終ってしまいますよー」と続けた。ブラックな環境にいたとき、散々耳にしてきた「経営者感覚」。社員は社員でしょ。普通に考えて。実に面白い。

ブラック企業がやたら社員の「ヤル気」「達成感」を訴えていたように、会社サイドが、感覚や気持ちといった社員の感情的なものに訴えはじめたら、気を付けたほうがいいだろう。本来会社の責任であるべきものを、社員個人の責任に転嫁しているからだ。転職に失敗し、駐車場バイトを経てやってきたこの会社も、ダークサイドに堕ちていくのかと悲しい気持ちになってしまった。僕はまもなく46歳。ふたたび駐車場バイトをやるのは、きっつー。

空気は一変する。ボスが「いや。社員を追い詰めて働いてもらいたい気持ちはあるけれど、追い詰めるようなやり方は絶対にやめてくれ。時代遅れだよ」と言った瞬間、大騒ぎしていたブラック神輿は静まりかえってしまったのだ。ボス曰く、ガンガン追い詰めてやらせれば短期的に数字は出るが、追い詰めずに気持ちよく働いてもらった方が結果的にたくさん働いてもらえて長期的にはより数字が出るよ、ということであった。なるほど然り。ブラック神輿の方々は、ですよねー、さすがです、と言い出すものだから面白い。ボスは普段のんびりしているけれども、実は腹黒い人だなあと感心してしまった。だってそうだろう?シビアな考え方を見せつつ、部長連中をふるいにかけて見定めているのだから。よかった一時のノリでブラック神輿を担がなくて。

ボスは「経営者感覚を社員に持たせると考えるのはいいが、それを今よりも強く持たなきゃいけないのは君たち部長の仕事でしょ。社員は社員の仕事があるのだから」と部長連中に釘を刺してミーティングは終わった。ブラック企業とホワイト企業は、トップに立つもの考え方次第で、実は紙一重なのだ。僕らは間違った神輿を担がないようにしないといけない。(所要時間21分)

会社員による会社員のための会社員の生き方本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

若手に頼みごとをしたら「これは仕事ですか?」と言い返されました。

人間は自分の聞きたいことしか聞かない生き物だとあらためて思う出来事があった。隣の部署に所属する比較的若手の社員が、以前から交際していた女性と結婚すると報告してきたのだ。挙式はやらないらしい。で、同僚の皆さまと飲んでいるとき、ささやかながら彼のお祝いのパーティーをやろうではないか、来月12月は忘年会もあるから11月中に、という話になり、賛成する強い理由はないが、反対する理由も特にないので、なんとなく、いいね、いいねと中ジョッキを傾けていたら、どうぞ、どうぞ、って感じで幹事になっていた。

数日後、「祝!比較的若手氏結婚!」と毎日顔を合わせている本社スタッフ全員にパーティーをアナウンスした。比較的若手氏には本社メンバー全員に声をかけると告げた。大失敗であった。「申し訳ないですが…」といって欠席表明する人が続出したのだ。寂しい気持ちになった。なぜ、仲間の門出を喜べないのか。ワン・チームじゃないのか。必死だった。比較的若手氏のためではなく、幹事失格の烙印を押されたくなかった。僕を愕然とさせたのは断られた事実よりも「部長、これは仕事ですか?」と言われたこと。「コレハ業務命令デスカ」と僕には聞こえた。仲間の結婚パーティー、イヤだけれど業務命令なら従いますよ、という従順の皮を被った拒否であった。内心では、半分仕事みたいなものだと思っていても、昭和時代ではあるまいし、この令和の時代に「仕事だよ」つって強制できるはずがない。ましてやウチの会社は時間外労働ゼロを目標にしている。

なぜ、比較的若手氏の結婚を祝えないのか。それほど良いヤツではないかもしれないが、猛烈にイヤなヤツでもない。謎すぎる。比較的若手氏と同年代の社員何人かに質問してみた。総合すると、比較的若手氏は、陰口をしている相手と陰口の対象の関係性を考えずに陰口を叩くのでイヤな気分になる、付き合っていると人間関係が壊れる、だから仕事以外では付き合いたくない、ということであった。「仕事ではないけれども、円滑に仕事をすすめるための準仕事だと思って参加してよ」と食い下がっていると、とある若手の1人から「部長も言われてますよ」と気になるひとこと。「何を」「悪口」「嘘。絡みないんだけど」「聞きたいですか」「うん。やめとく」きっつー。

聞きたくないものは聞きたくない。聞きたい話だけを聞きたい。好き嫌いを職場に持ち込むのはやめろと常日頃から言っているが、僕も血の流れている人間。悪口を言っているような人間のためにわざわざアクションしようとは思わない。だから「部長、これは仕事ですか」という態度には「仕事じゃないから無理に参加しなくていいよー」「こっちでうまくやっとくわー」と対応した。そもそも幹事は仕事ではない。ノルマもない。ねえ?神様。

結局、参加者は僕を含めて数名であった。比較的若手氏には本社メンバー全員を誘ったと言ってしまった手前、この惨状をどう本人に伝えればいいか、令和元年11月14日18時すぎのデスクで僕は頭を抱えてしまった。正直にチミの人望がないからだと告げるべきか。それとも君の結婚を祝うことより重大な用事があるらしいよと忖度すべきか。出たとこ勝負と心を決め、比較的若手氏が帰ろうとするところをつかまえ「パーティーの件、参ったよ」と声をかけた。ノー・プラン。だが僕も営業畑で生きてきた男。相手の反応にあわせて対応する。そう。いつだってそうだった。アドリブだった。ノリだった。何とかなる。進学も結婚もその場で決めた。そして後悔した。我が人生にいっぱいの悔いあり。いまさら悔いのひとつふたつ増えたところでたいして変わらんさ。

「だと思いましたよ」比較的若手氏はそういって笑った。まさか、こいつ人望の無さを自覚しているのか。だとしたら大人物だ。「月内に本社のメンバー50人近くが入る会場を押さえるのは今からじゃ難しいでしょう」「ちがう」「いいんですよ気をつかわなくて」「ちが」「来月、忘年会の席で皆さんに祝っていただくということでいかがですか。その方が私も気が楽です。ではそういうことで」比較的若手氏はそれだけ言って去っていった。彼もまた自分が聞きたい話だけ聞きたい人間のようである。それから僕は「このたびは私のために」と挨拶する上機嫌な比較的若手氏と、し~んと静まり返った面々、悲惨な忘年会を想像して胃が痛くなってきてしまう。きっつー。「これは仕事ですか」なんて甘すぎる、こんなの仕事だと思わないとやっていられないよ。マジで。(所要時間22分)会社員生き方本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

仕事は出来るけど残念な人がキツすぎる。

仕事は出来るけれども他部署からクレームの絶えない部下がいる。営業部なので仕事が出来る=ノルマを達成しているという意味だ。今年の営業成績はトップ。だから営業部員としての評価には文句なく二重マルをつけている。だが、人事考課となると営業スキルだけではない。他部署との調整や協調の項目があるのでそこはマイナス評価せざるをえない。勿体ない。営業マンは程度の差こそあれ、基本的に自分の関わってきた仕事が気になる生き物である。僕にはわからない感覚だが、自分の取った仕事を「子供のようなものだ」と評する先輩もいた。もちろん仕事を取ってくるだけで丸投げするタイプもいるけれども、そういう感覚では、よほどスーパーな営業マンでないかぎり、これからはやっていけないと思っている(それはまた別の話なので詳しくは割愛)。自分が関わった仕事が気になるスタンスは大切だけれども、関わり方を間違えてしまうと、営業職として優れていても、周りからは「あいつキッツ―だよね」と残念な評価をされてしまうから、難しい。


僕がイチ営業マンだったときは、他部署からの同僚のザンネンな評価を聞いても「うまくやれよ。もったないなあ」と我がことのように悔しがるフリだけをしていたが、管理職になった今、そうはいかない。「誤解だ。彼は仕事のことを考えているナイスガイだよ」と他部署にアッピールしなければならない。さもなければ、僕の管理能力が疑われてしまう。つまり僕がこの問題に真剣に取り組んでいるのは、当該部下の評価や立場向上の為ではなく、純粋に僕の評価ファーストの観点からなのである。


当該部下氏の評判がなぜよろしくないのか原因は明確で、それは彼が「俺が取った仕事イエーィ!」という「しょぼすぎる全能感」を持っているからである。仕事を持ってきた俺イズGOD。きっつ…。僕は当該部下氏を呼び出して「仕事を持ってくるのは営業の普通だからね」と諭した。重々承知しています、と部下氏は答えていたが怪しい。それから、なぜそこまで自分の関わった仕事に過剰にこだわるのか質問すると、「お客さんに自分の話したとおりのサービスが届いているか確認するのも営業の仕事だからです」と返されて「素晴らしい心がけだよ」と諭すつもりが僕撃沈。実際素晴らしい心がけなのだ。だが問題は心がけからの行動アクションなのだ。当該部下氏の問題は、他部署に任せた仕事において現場で何かトラブルが発生したときなどに、お客との距離の近さを盾に介入して、わざわざ本社でその問題を大ごとにしてしまうことなのだ。

 

たとえば先日カニクリームコロッケを納品しなければならないところを、誤って柿とホワイトクリームソースを納品してしまったことがあった(実例)。確認を怠らなければ、ありえない単純なミスだ。当該部下氏は実際に現場を動かしている者に事実関係の確認もせず駆けつけ、客と面談して社に持ち帰り、担当部署に駆け込んで「こんな仕事をされていたら契約がなくなってしまいます。どう責任取るっすか」と文句をいい、対応を求め、そこで終わりにしておけばいいものを、さらにその後、社内で「俺がお客さんのところに行ったから、問題が大きくならなかったけれど、本当に困りますわー!」と関係のない部署にも聞こえるような大声で大騒ぎしたのである。このようなトラブルを数ヶ月に一度の頻度で起こしている。顧客サイドに立ちすぎ、というのもあるが、同僚がそういうことをされてどういう気持ちになるのかという小学生レベルの想像力が決定的に足りていないのである。僕も相手の気持ちがそこまで分かるタイプでもないし積極的にわかろうとは思わないが、これを言ったら相手が怒るかもしれないという境界線は分かっているつもりだ。

 

僕は当該部下氏に、やりたい気持ちはわからないでもないがやり方を考えろ、仕事は君ひとりでやっているんじゃないぞ、チームワークだ、たとえばコロッケの件なら担当者を呼んで注意するだけにしときなさい、と諭した。「わかりました!気をつけます!」という反省の言葉を期待していると彼は「それは甘すぎです、部長!」と僕を非難したのである。今、なんと?戸惑う僕をよそに彼は「チームとしてダメだからあえてやっているんですよ。多少強引なのはわかっています。でもそうしないと直らないでしょう。部長は仕事を取ってくるのは営業の普通と仰いましたが、必死になって取ってきた仕事を普通にいい加減にこなされても困るんです!」と畳み掛けてきて僕はというと「ま、その気持ちはわかるけどさ、ちょっとはやり方を考えてみてよ、次は僕も間に入るからさ」という歯切れの悪さ。

 

営業という仕事をやっていれば、多くの人が感じるやりきれなさが彼の言葉にはあった。でも一点だけ間違っているのでそれは注意した。「仕事をきっちりやらないのは責められるべきだ。だが、その人を社内で晒し者にする必要はないよね。仮にする必要があっても君はその立場ではないよ」と言って「仕事を任せることを覚えなさい。なかなか難しいけどね」と締めた。反論はなかったので「じゃ。この話はこれで」と打ち切って面談スペースから出て行く彼を見送った。少しの間は静かにしているだろうという淡い期待。根底にある考え方が決して間違ってはいないので完治は難しいという観測からの絶望。両者にプラスされて疲れてしまった。与えられた仕事をするのは普通だが、その普通さを当たり前にして雑にこなされることに対しての苛立ちを無くしてはいけない。それは営業だけでなく全ての仕事に共通することだと僕は思う。事務所に戻ると妙に賑やかだ。そこには当該部下氏が「今、あなたがたのせいで部長から大目玉を食らってしまいましたよ!気をつけてくださいね!」と大騒ぎする姿があった。どれだけ営業として優れていても、いくらなんでもきつすぎる。(所要時間28分)

会社を生き抜くヒント本を出しました→

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仕事に好き嫌いを持ち込むな。

前々から「仕事を好きになる必要はない」とぼんやり思っていたけれど今はそれが正しいと確信している。そう確信したのは、一連の査定のための個別面談を通じて「仕事が好きか否か」が評価につながると考える人がいることを知ったからだ。僕は社会人になって以来、仕事の好き嫌いについて考えては来たけれども、それが評価に繋がるという視点は僕のなかになかったので新鮮であった。同時に、きっつー、とも思ってしまった。

僕自身は仕事が好きではない。出来ることなら仕事などやらずに、誰もいない部屋でひとり生まれたときの姿で一日中テレビゲームをしていたい。ただ、一日の大半の時間を仕事に費やすのなら、その時間が無駄にならないよう、しっかりと丁寧に仕事をして、相応の報酬をもらいたい、そう、考えている。マトモな仕事を通じて報酬が良くなっていけば好きではない仕事も続けていられる、いいかげんな仕事でトラブルやメンドーに巻き込まれて好きでもない仕事へ行くのがイヤにならないようにしたい、これが僕のスタンスだ。

仕事が好きか嫌いかと、仕事ぶりやその評価とはほとんど関係がない。今の僕は仕事が嫌いだからこそ、丁寧にこなして、これ以上時間を費やさないで済むようにしている。もちろん、その結果、相手が喜んでくれれば悪い気はしない。仕事が好きな人やそういう感情を馬鹿にしているのではない。仕事が好きな人や好きなことを仕事にしている人は本当にラッキーなので今の状況を守って欲しいと本気で祈っている。


かつて「家庭の出費が収入に対して過大で死にそうです。昇給お願いいたします」という間違いだらけのワークライフバランスを掲げて賃上げを求めてきた年上の部下との面談。彼は面談中、仕事が好きです、好きだとつい仕事に熱が入ってしまいます、と仕事好きを前面に出して面談に臨んでいた。そういうのは気持ちの中だけにしてほしい。百歩譲って、ご自身のユーチューブチャンネルだけにしてほしい。営業という仕事は残酷でございまして、数字に全部あらわれてしまう。面談は、目の前の数字をどうとらえているかと今後の見通しの確認作業にすぎないので、お仕事好き好き大好きとアッピールされても評価には影響しない。スルーである。

僕が何も言わないことをポジティブに解釈した彼が調子に乗って「仕事が嫌いな人間より好きな人間を部長なら評価しますよね」と言ってきたときは、勢いよく流れ込むモヤモヤに、心のダムが耐えきれなくなり「仕事の好き嫌いは評価に何の影響もありませんよ。あらわれた数字と勤務態度で粛々と出来るだけ公平に評価するだけです」と緊急放流していた。彼は、よほど絶望したのだろうね、ゾンビのような顔になっていた。

彼はゾンビのような執拗さで「仕事が好きなことは、いい仕事につながりますよ」と言うので「その可能性はありますけれど、仕事の良し悪しを評価するのはお客様であり、その結果が数字ですから。時間もかぎられているので本題に戻りましょうか」といって議論を打ちきった。彼は善良な人間なのだろう。そう考えるしかない。

実際、仕事が出来るかどうかと仕事が好きか否かはまったく別の問題だろう。仕事が好きでも仕事ができない人は腐るほど見てきたし、仕事が好きすぎるあまり周りにも同じような熱意を求めてチームを崩壊させる人もいた。仕事が好きすぎて、365日24時間仕事のことばかり考えてましたー!とアホなことをいうひと昔前の経営者はこのタイプだろう。好きは時に人を馬鹿にする。僕がこれまで出会ってきた仕事が出来る人は、仕事が嫌いな人も多かった。仕事が嫌いなぶん、プライベートときっちりわけて、時間内にきっちりと終わらせるのだ。嫌いだから自分やチームが楽できる仕組みをつくる。ムリムダムラをなくす。僕はこういうスタンスを仕事ができることだと思う。

もちろん、仕事が嫌いすぎて、仕事をまったくやらない論外な人間もいるので、仕事に対する過度の好き嫌いはよろしくないということだろう。仕事が好きor嫌い、仕事が出来るor出来ないの組み合わせをランク付けすれば、ビリは「仕事が好きだけど仕事は出来ない」で、トップは「仕事は嫌いだが仕事が出来る」になる。仕事が好きだけど仕事は出来ない状態は、悲劇としか言いようがない。

面談の終わりに当該部下から「部長はこの仕事が好きですか?」と質問されたので、正直に「好きじゃないです。でも仕事だから」と答えた。仕事だからやるしかないのだ。「好きじゃないのになぜやってるのですか!そんな人の下では働けない!」そんな反発を予想して構えたが、裏切られた。彼は「私を部長を補佐する役職にしてもらえませんか」と謎な提案をしてきたのだ。その心は「この仕事が好きで仕事を愛している私が、副部長としてこの仕事が好きではない部長をサポートすることで組織のバランスが取れます」というものであった。「具体的に何をするのです?」「部長の傍にいてバランスを取ります」。どうやらバランス感覚が決定的に欠けている自覚がないらしい。僕はその瞬間、好き嫌いで仕事をしないという自分のポリシーの正しさを確信した。もし、好き嫌いを持ち込んでいたら、目の前にいるミスタ・ライフワークバランスに考えうるかぎりの悪口を投げつけていただろう。僕は、自分があまり好きではない、自称仕事が好きでしかたない部下に「却下」と言って面談を終わらせたのだ。(所要時間25分)

会社員の会社員による会社員のための生き方本を出しました。よろしくね。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

 

就職氷河期世代の答え合わせがキツすぎる。

今年の夏から同級生と会う機会が多く、毎回、まったく異なるメンバーと会っているが、どういうわけか申し合わせたように「俺たちの世代って何だったんだろう…」という世代の話になっている。これまで、仕事や家庭のきっつーな話をすることはあっても、世代がどうのこうのといった自分たちを俯瞰でとらえるような話になることはなかった。1973~74生まれ。45、46才。50を前にして、ここでいったん、自分たちの人生を振り返っておこう、中間地点で答えあわせをしておこう、という気分に何となくなっているのだろう。

家族や老後という話題からではなく、仕事や働くことから自分たちの世代を振り返っていた。大卒で社会に出て20数年、技術や経験を蓄積して、管理職やそれなりの立場で仕事を任されている者が多い。これまでは会って話をしても話題は、ごく個人的な仕事の愚痴や悩みが多かったけれども、この夏からの一連の会合では、俺たちの世代が、これまでどう仕事や社会と向き合ってきたか、そしてこれからはどう向き合っていくべきか、という世代という視点での話が多かった。俺たちはさー。俺たちはサー。という感じで。

そんな世代視点からの仕事や働き方についての話を聞いていて、おや、と思った。「培ってきたもの、自分の能力や経験を活かして新しい会社で新しい仕事をしたい」「おそらく次が最後の転職になるから、やりたい仕事の出来る職場へ行きたい」「会社なんてどこでもかまわないから、いい仕事がしたい」。そんな前向きな働き方の話のなかで、「働くこと」がどれも「会社で働くこと」になっていたからだ。つまり仕事=会社。もし、僕らよりも少し若い世代(30代)が集まって、仕事について、働き方について、語り合ったら、会社などにとらわれずに独立!起業!という話になるのではないか、と皆で自嘲気味に話した。俺たちは、なぜ、会社で働くことにとらわれてしまっているのだろうか。

僕が子供時代を過ごした80年代、日本は絶好調で、24時間働けますか、という今じゃ信じられないようなCMが流されるような、会社サイコー企業サイコーな時代だった。「いい大学を出ていい会社に入ること」が一般的に良いことされていた(と思う)。僕はそんな生き方を「安定志向でつまらない生き方だなあ」と思っていたが、それは、会社は良いところという認識の裏返しでもあった。大学在学中、「さあ就職」というとき、サイコーだった会社はサイコーではなくなって、悲惨な就職氷河期がはじまっていた。いい大学を出ても希望の会社に入れないし、就職することも難しいという有様だった。希望の会社に入れなかっただけの僕のような人間はまだいい。就職浪人してしまったり、今だに誰が何のためにもてはやしたのか怒りすら覚える「フリーター」ブームに乗っかってしまったりして、今だに苦しんでいる世代の仲間は悲惨だった。それが今、社会問題になっていて、ふざけたことに「人生再設計世代」と呼ばれる始末だ。

グローバル化やIT化にさらされ、変わり続けた、ここ20数年の日本社会のなかで、僕らの世代が見てきたもの、見続けてきたものは、会社はサイコーではないけれど、サイコーではない会社からこぼれおちてしまったときの、どうにもならないきっつーな現実だった。会社に夢見て、裏切られ、痛めつけられ、それでもそこからは出られない。それが僕ら世代の代表的な姿かどうか分からないが、ある一面であることは間違いない。

ここ数か月で会った同級生たちは例外なく、「生き残れたのは、実力ではない。ほんの少し運が良かっただけだ」と自己評価していた。これが「自分の力で勝ち取った」「俺たちは成し遂げた」「実力だ!」と言うことのできない、負けないようにしがみつくことに必死で、勝ち残った実感の乏しい氷河期世代の悲しくキツい答え合わせなのだ。10年後か20年後に現役世代を終えるとき、勝ったとか、負けたとか、そんな他人の目を気にした評価なんかどうでもいいから、やり切ったという実感を得られるようにはしたい。(所要時間25分)

最近、こういう人生を生き抜くためのエッセイ本を出しました。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。