Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

理髪店ピグマリオン

 朝、鏡を見た瞬間に、髪を切ろうと思った。鏡のなかの僕の姿は、認めたくないが醜さが限界値を超えていた。夕べ、布団に入る前は、ここまで酷い顔をしていなかったはず。一晩。たった一晩で人はここまで醜く変われるものなのか。感心と落胆が半々。


 いつもの床屋に行き、いつもと同じ感じでと注文をつける。3年前まで僕は「ブラッド・ピットみたいに」と真剣に言っていた。哀しいかな。そんな若さは一ミリも残っていない。「いつもと同じで」自分に言い聞かせるようにもう一度言った。いつもと同じ要領で髭を剃られ、髪を切られた。いつもと同じように髪を洗う段階になって、いつもと同じでない情景が目に飛び込んできた。僕は深呼吸をする。洗髪担当が女の子だった。新人さん、か。


 洗髪をするとき。ガーゼのような薄い布を顔にかけられる。あれってなんだ。今まで一度も疑問に思ったことはないけれど今日は違った。憎しみがこみあげる。憎い。僕はこの布が憎い。僕は見たい。彼女が見たい。僕が、素晴らしきこの世界で負の感情を抱くなんて。なんだろうこの変容。ララア本当だね。人は変わっていくのだね。とにかくだ。視界を遮る白くて薄い憎いヤツ。あいつを顔に載せる行為の意味がわからない。そんなに顔を見るのが嫌なのか?それとも顔を見られるのが嫌なのか?


 本年度はもう女性に身体を触られることはないような気がした。この至福の時間を出来るだけ延ばす。チャンスは最大限に生かす。布の向こうから声がした。「どこか痒いところはありますか」思ったよりハスキー。9回裏二死0-0の状況でド真ん中直球を見逃す奴は馬鹿だ。ホームラン狙いのフルスイングをした。「ぁ頭全体痒いです。モーレツに」やったぜ母ちゃん明日はホームランだ!彼女の手に力が加わった。痛いくらいだ。毛根が削られるほどの力で頭全体がこすられた。


 「どこか痒いところはありますか」ふたたび。「ええ、つむじの辺りがまだ痒いです」つむじの辺りをガシガシと洗われる。痛い。つむじを押すとゲリになるって知らないとは言わせない。「どこか痒いところはありますか」三度。「ええ、襟足のあたりが少し痒いです」僕は頭を持ち上げられ襟足をガシガシと力感溢れる動きで洗われた。苛々しているようにも思えた。


 彼女の手が滑ったのだと信じたい。襟足を洗われたあとで、僕の首が洗面台にかなりの勢いで落とされ打ち付けられた。痛かった。視界が遮られているのに星が、天の川が見えた。ホタルの大群が飛んだ。「すみません」と言われたような気がする。僕はその言葉を信じる。信じることから人間関係は始まるってもの。その後、きっちり七三に分けられてから店を出た。僕が彼女を一人前にしなければ。そんな使命感みたいなものが芽生えていた。早いうちにまた床屋に行かないと。僕は帰りがけにドラッグストアに立ち寄り、産まれて初めて育毛トニックを買った。