Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

あの夏、地上最大のオッパイが。

 ピーチジョンのエロティックな広告写真。ホームに滑り込む電車の騒音をバックミュージックに、それを舐めるように見ている僕の後ろを一人の淑女が通り過ぎて行った。振り返り横顔を見る。間違いない。彼女だ。あの夏、僕の人生を、僕の未来を変えてしまった地上最大のオッパイの主。ヴィーナス。声をかけようとしたが名前を思い出せなかった。あれほど追い求めた存在であったのに。


 1991年の夏。高校三年生だった僕と悪友の西ヤンは腐っていた。真面目にやっている連中、反抗している連中、すべてを斜めから見ていた。授業。夏期講習。体育祭の創作ダンスの練習。すべてをサボタージュして大半の時間を第二校舎の屋上で潰していた。僕らは屋上を「ヘヴン」と名付けて、毎日のように、流れていく雲や富士山のシルエットを眺めたり、昼寝をしたり、買ってきたエロ本を模写するという意味のない行動をしていた。空は青く、太陽の陽射しは心地よかった。いつからだろうか。陽射しが鬱陶しいものに思えるようになってしまったのは。


 僕らは学年ワーストテンを常に維持する「立派な」落ちこぼれだった。視聴覚室から無断借用してきたラジカセからはいつもニルヴァーナやプライマルスクリームやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインが流れていた。教師たちが拘っていた「進学率100%」を破壊することが自分たちのロックンロールだと信じて疑わなかった。学年500人のうち2人。0.4%の反乱。


 「ヘヴン」にヴィーナスが舞い降りたのは八月の終わりだったと思う。僕らは僕らの芸術をつくりあげることに執着していた。エロ本の模写は相当な腕前になっていた。「実写や動きのあるものになんて意味はない。クソだ」「時間を止めろ」「世界を支配するんだ」「写真のモデルは俺たちに修整されて理想を手に入れる。幸せな奴らだ」そんなふうに叫びながらエロ本の模写に精進していた。そんな僕らの前に現れたのが彼女。


 彼女は評判の少女だった。美人だったのと、胸が大きいことで。テニス部だった彼女の胸を揺らしながらのランニング姿は思春期のバカどものなかでは有名だった。僕と西ヤンも彼女のことは知っていたけれど面識も興味もなかった。可愛い顔。大きい胸。揺れている。素晴らしい。しかし、汗をかいている時点で僕らの芸術に遠く及ばないというのが僕らの共通認識だった。夏の終わりの午後、その彼女が前兆もなく忽然とヘヴンに現れた。僕らのジャポニカに描かれた芸術を眺めて「フーンうまいね」と簡単に褒めたあとで、僕らの人生を変える言葉を投げかけた。


 「あなたたち、こんなことしてたら駄目になるよ。本物のオッパイを触れないよ」静寂。蝉の鳴き声だけが夏空に響いた。彼女の言葉は継がれた。「頑張ったらあたしのオッパイ触れるかもよ?」彼女の表情は逆光で影になってしまっていて良くわからなかった。大きな胸が巨大な影となり屋上で座り込んでいた僕と西ヤンを覆い、飲み込んだ。彼女はその一言で僕らのヴィーナスになった。彼女は僕らの芸術を一通り見たあと、「じゃあ二学期に」と言い残して消えた。そして二度とヘヴンに表れることはなかった。本物?オッパイの?


 「オッパイに触れる」そう女の子から言われたことは僕にとって「事件」だった。僕らが夏休みのあいだにつくりあげた芸術が否定された気がした。しばらく彼女が出て行った錆びた鉄製のドアを眺めていた。ふと西ヤンをみると何かにとりつかれたようにエロ本の模写を再開していた。「オイ」と声をかけても応えようとしなかった。9月になると僕はヘヴンには行かなくなった。触る、オッパイを?


 オッパイに触るための猛勉強をはじめた。西ヤンはヘヴンにひとり残って描き続けた。校舎の裏に捨ててあった椅子をヘヴンに持ち込んで変なオブジェみたいなものをつくっているのを目撃した。僕はその様子を図書室で赤本を前にして眺めていた。それでも僕がヘヴンに赴くことはなかった。西ヤンは彼なりのアプローチでオッパイに迫ろうとしていたんだと思う。アプローチは違えど僕らの心はひとつのものに向かっていた。ただ、オッパイを。


 猛勉強の結果、2学期の期末試験でトップ10に躍り出た。そのおかげで職員室に呼び出されて「どんなカンニングをしたんだ。白状しろ」という理不尽な取調べを受けることになったりもした。春。僕は奇跡的に大学への進学が決まった。ヘヴンに残った西ヤンは美術大学へ行くことになった。ヴィーナスとは卒業式で後ろ姿を見たくらいで、あの日以来話をすることはおろか視線を交わすこともなかった。オッパイを触らせてもらうことなく僕らは卒業した。あれ?オッパイは?


 あれから十数年が経った。僕と西ヤンはそれぞれのオッパイを追い求め続けた。僕は巨乳。奴はデカパイ。ヴィーナスのオッパイは心のなかに大事にしまったままだ。今、西ヤンは渋谷で会社を興して頑張っている、立派なビジネスメンになった。綺麗なガールフレンドと慎ましくも幸せな生活をしている。僕は呑み屋で会社の悪口を言いながら腐っている、立派なイケメンになった。慎ましいだけの生活をしている。


 そして今、僕の右手数メートルにヴィーナスがいる。彼女の右手にはしっかりと小さな男の子の手が握られていた。あの夏空の色と同じ青いキャップをかぶって必死に歩いていた。一瞬で悟った。ヴィーナスはマザーになったんだ。あの夏の日、ヘブンにいた僕以外の人は皆、それぞれのハッピーを掴まえた。彼女の名前を忘れていてよかったと思う。声をかけなくてよかったと思う。今の情けない僕の姿を見せたくないから。あの夏の日の出来事はそれぞれの記憶のなかで生き続ければいい。そうやって僕は目の前の親子の手と手の結び目が壊れてしまわないように祈った。今度は僕が。僕が幸せになるときだ。準備オーケー。レディー・ゴー。振り返るとピーチジョンの広告写真はなくなっていた。魔法のようになくなっていたんだ。