Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

2008年部長の旅

 魚には骨がある。喫茶店での打ち合わせを終えて前を走る細い路に出た。陽射しで視界が真っ白になったその瞬間に、部長は言った。魚には骨があるという言葉を知っているか、と。


 人の言うことを正確に把握するのはとても難しい。完全にわかりあうことは恐らく不可能だ。発信する側、受信する側、双方にそれぞれの問題があるから。僕らは経験や知識を駆使して相手の言わんとすることを探し当てる。手探りだ。会議やプレゼンで使用されるレーザーポインタを用いてピンポイントで対象を指し示す難しさに似ていると思う。先ず標的の周辺部を照らし、それから目標にじりじりと近づいていく。そういう感覚。


 今回のプレゼンは先方の要請でパワーポイントを使用することになった。僕の役割はパソコンとファミコンの区別が出来ているのかさえ怪しい部長のサポート。プレゼンテーションの一切は部長が行うことになっている。そのための打ち合わせだった。


 知りません、と僕は言った。「知らないならいい。頭を使って考えろ。この案件は俺の案件だ。お前の助けは一切いらない。パソコン操作だけに専念しろ。そして俺の姿を焼き付けておけ。本当の営業ってやつを見せてやるからな。お前は俺が上司で本当に恵まれている。30年前の東京は砂漠のようだった…」と部長は言った。僕は黙って頷きながら、「魚には骨がある」の意味について考え始めた。魚の骨。骨。


 喫茶店から客先までは徒歩。この案件は部長がほぼ一人で進めてきたものだ。概要は説明されたが、細かな経緯と客先の反応を知らない。率直に尋ねた。「勝算はどのくらいですか」「ウチが五割、相手が六割。ゴーロクってところだ…」部長は真顔でそう言った。110%…ふと、昔の流行歌を思い出した。夏空に融けていったカルロス・トシキの甘い声。


 客先に到着。僕は機材をテキパキとセットして部長に完了のサインを出した。あとは部長のトークに合わせてマウスをクリックするだけ。時間だ。部長のプレゼンが始まる。部長はプロジェクターを指すポインターを手にとった。首を傾げた。ボタンを押した。そして語り始めた。ポインターの先端を口に当て、そっと語り始めた。


 「あ〜テスッ、テスット。あ〜」部長のゴルフ焼けした額に赤い光点がひとつ。あらわれては消えた。僕は違いますとジェスチャーで訴えた。部長は手のひらをこちらに向けて僕を制した。挙動に何も言うな、という強い意志と不機嫌さが込められているのが見てとれた。


 部長の額では赤い光点が何回か点滅した。僕のなかで時は静止した。現実性は剥奪され、創造上の産物にみえた。日焼けしたギャルのオッパイの先っちょのような、赤。ウルトラマンの胸に輝くカラータイマーのような、赤。用意した原稿をそのまま抑揚なく読み上げて部長のプレゼンテーションは進んだ。ただ粛々と、荘厳に。


 僕はただ、部長の念仏を聞きながら、魚の骨の意味について考えていた。「2001年宇宙の旅」の冒頭、スタンリーキューブリックは、猿に、骨と何千、何万年という時間とを大空にブン投げさせることで人類の進化と時間の経過を表現した。2008年。部長がテクノロジーを手に表現したもの、僕が目撃したもの。これは進化なのか?退化なのか?


 違う。新たな生物の誕生だ。帰りの途上、部長は言った。「これでゴーゴーだな」。ゴー。彼はより高次元、違う世界へ行こうと宣言している。僕に宣告している。魚には骨がある。旅立たれる前にその言葉の意味を。意味を…。平成20年6月11日、新生物の誕生の瞬間に僕は立ち会った。生誕。ボーン。あ!?