Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

すべての言葉はサヨナラじゃないぜ

 風景、音楽、匂い、そして言葉。出会ったときにはとるにたりないようなものが後になってみると頭にひっかかって離れないようなことがある。断片。欠片。前後の文脈や意味は失われ、独立してしまっている記憶だ。僕の場合、「車に潰され、タイヤが三角形に変形してしまった三輪車」であったり、「大学の美術サークルでよく見掛けた女の子の妙に赤いリップ」だったりする。今、僕の頭をかすめて離れようとしないのは君のあの言葉だ。東京、冬の夜。どこかの駅の構内で言われた言葉。時を経るごとに酸化して、変容して、僕を締め付けている。呪いのように。


 総務のマヤちゃんと映画を観に行った。突然だった。昼前に連絡が来て、午後には映画館のチケット売り場前で待ち合わせをしていた。七夕≒浴衣という僕の淡い期待はあっけなく裏切られ、胸の部分に英語の文字がプリントされたオレンジ色のTシャツと膝下までしか丈のないジーンズにサンダルという姿でマヤちゃんは登場した。僕は若者に負けたくない一心でバンダナを頭に巻いた上にえらくツバの長い野球キャップを斜めに被るジェロ風スタイルで待ち構えていた。


 マヤちゃんはつかつかと歩いてきて「曲がってるよ」と言って僕の帽子をまっすぐに修正してチケット売り場の列に並んだ。夏休み向け映画の第一弾は出揃っている。ラインナップをみて「スピード・レーサー」か「クライマーズ・ハイ」以外には「ないな」と思っていた。数分後。僕とマヤちゃんは「花より男子F」が流されるスクリーンの前に並んで座ってアイスコーヒーを飲んでいた。マヤちゃんはこの映画を観ることに最初から決めていたらしい。


 映画は終わった。夏の夕方は長い。これからどこ行こうか?と尋ねるとマヤちゃんは「今日の夕御飯、ワタシの当番だから買い物して家に帰らなきゃ。今日は映画ごちそうさま。カレーにしよー」とだけ言ってくるりと背を向けて帰ってしまった。僕は「夏はカレーだよね。おつカレー」としか言えなかった。レーザーレーサー水着着用スイマーのレースのようにあっけなく映画デート最短世界記録を樹立した僕ら。上映時間を除いたら正味20分弱。それはレーザーレーサー水着着用に要する時間よりも短い時間だった。


 陽は暮れたばかりでまだ空は明るかった。ひとりになった僕は缶ビールを買って飲みながら歩いて帰ることにした。ヘッドフォンからは「ジギースターダスト」が心地よくながれていた。ボウイみたいに器用にペルソナを演じられたらどんなに素敵だろうか。


 飲みながら歩道を歩いていたらふいに君のことを思い出した。今日みたいなしょぼい出来事が思い出させたのかもしれない。こんなふうに僕は、時々、君を思い出す。君と歩いた冬の東京の街並みの時間を思い出す。顔を、声を、掌の温もりを思い出す。でも。今日みたいなしょぼい毎日の繰り返しのなかでそれらは押し流されてしまう。僕の手の届かない遠くへと。完成したパズルのピースが1ピース、1ピースと欠けていくように失われてしまう。


 そしていつか。僕の中身はいろいろなもので埋められてしまって君を朧げにしか思い出せなくなってしまうに違いない。僕の目の前にあるガードレールが名前も知らない雑草で覆われて本来の姿を失ってしまっているように。生い茂る雑草は僕のしょぼい毎日の積み重ねにダブって見えた。


 そしてまた、僕は頭のなかから離れないでいる君の言葉の断片を再生してしまう。前後の文脈は失われている。だからこそ言葉は言葉そのものの意味を鮮明にして今の僕に襲い掛かってくる。締め付ける。



「あなたとの時間は素敵でアッという間に過ぎてしまうわ」



 事実、僕らの時間はあっという間に過ぎてしまった。でも、アっという間に終わってしまうかもしれないけれど、これからも素敵な時間があると僕は信じてしょぼい時間をしぶとく生きていこうと思う。それはいつやってくるのか僕には予想の出来ない類のものだ。だからこそ僕は信じる。信じるしかない。そして僕は君を思い出してしまうたびに、日ごとに細部を思い出せなくなっている君の健康と幸福を祈っている。


 一台の車が明らかに制限速度を超過して僕を追い越していった。ヘッドライトが雑草に覆われたガードレールを照らした。雑草の隙間からヘッドライトに呼応するように反射板のオレンジ色が光り輝いた。眩しかった。車が通過すると眩い光は消えてなくなってしまった。アっという間に。僕は今度、アっという間の時間を掴まえたら出来る限り引き伸ばしてやる。抵抗してやる。戦ってやる。徹底的に。


 「花より男子F」は原作もドラマも知らないので登場人物の相関、物語の前提すべてがまったくわからなかった。そのせいで僕は、瞬間的に眠ってしまいアっという間に上映時間は終わっていた。アっという間に。