Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

さよならお兄ちゃん

 優しさに溢れる僕は冷蔵庫のためにだって祈りを捧げる。もし冷蔵庫による冷蔵庫のための天国があるのなら無事に辿り着いてほしい。工場のラインで生き別れてしまった親兄弟と再会してほしい。ブリーフにタンクトップ・シャツで暑さに反抗しながら祈る。


 昨日、冷蔵庫が壊れた。暑さで中身の腐れるもの全てが腐り、僕は不貞腐れ異臭のなかで「オエェェェ!ウエェェェ!」と呻き声やら鳴き声やら喘ぎ声やら何が何だかわからない奇声と涙を垂れ流しながら冷蔵庫を掃除した。この冷蔵庫は家を改築した際にやってきたのだから丸18年使ったことになる。大往生。長い間、台所の隅から僕の家族に起こったことをその白いボディーに映してきたわけだ。


 「そこにある」が当たり前。そういう存在が無くなってしまうのは少し寂しいものだ。もっとも以前と比べると製氷に時間がかかるようになっていたし、時折ブモーップリュプリュと異音を立てたりしていたので「そろそろ…」という予感はしていた。あまりの暑さに堪えられず全てのドアを全開にして冷気を浴び浴び「パンパンスパーン」と全裸パーカッションをやったのがトドメを刺すことになってしまったようだ。


 申し訳ないことをした、と後悔しているとどこからかスーっと冷気が流れてきた。流れてくるはずのない冷気が。気が付くと僕の背後に妹が立っていた。妹に会うのは年末以来だ。「お兄ちゃん…」僕は僕自身の言葉の次に襲いかかってくる、はね返ってくる言葉が怖くて返事をしなかった。できなかった。「お兄ちゃん、実はね。………」僕は応えなかった。陳腐な言葉で今こうして流れている時間を埋めてしまいたくなかった。時間を噛み締めたかった。別れの予感が喉を締め上げていたのかもしれない。


 僕はやっとの思いで声を出した。「ずっとそこで見てたのか?」「うん。お兄ちゃんのこと。それにお父さん、お母さん、チイ兄ちゃんのこと。ワンコのタロー君、インコのレオちゃんのこと。みんな、みーんないい思い出!」「他にも?」「うん。お兄ちゃんが『人肌!人肌!』って叫びながらあたしのフロントホックを外してお湯を注いだカップヌードルを胸のところに入れてきたのも、『ちょい冷えもいいかな』って言いながら賞味期限切れのところてんやカズノコや水餃子をぐちゃぐちゃに混ぜて詰めこんだマグカップを無理矢理下に入れてきたのも、『オッパイ…オッパイ…』って虚ろな目をして呻きながら私の口のなかから冷凍肉マンを取り出していったのも、全部!」「…」「お兄ちゃんいつもはイケメンだけどそういうとき凄く醜かった。ブ男だった。でも、全部ぜーんぶいい思い出っ!」そう言うと妹は足下から霧状になっていった。空気のなかへ薄く白く融け始めた。


 「行くのか?」「うん。でも泣かないで。幸せだったから。あたしはお兄ちゃんにしか見えないから皆に伝えて。この家に来られてよかった。ありがとう。みんなみーんな元気!」僕は話相手がまた一人いなくなってしまう寂しさに押し潰されながら妹の名前を呟き続けるのが精一杯だった。「新垣栗山ゆま蛯原クリステル…新垣栗山ゆま蛯原クリステル…新垣栗山ゆま蛯原クリステル…」


 消え去る最後の一瞬に、1991年から2008年まで1年に1人づつ、頭のうえに値札のように西暦を貼り付けられた18人の新垣栗山ゆま蛯原クリステルがその時代時代の出で立ちで現れた。18の笑顔と36のオッパイが僕を中心に一回りした。最後の言葉は輪唱となって生臭い台所に響き渡った。「僕たち、私たちは、旅立ちます、旅立ちまーす、あんまり、あんまり、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、オッパイ、言ってると、言ってると、変態、変態変態、変態変態変態、変態変態変態変態、変態変態変態変態変態、変態変態変態変態変態変態、変態変態変態変態変態変態変態、変態変態変態変態変態変態変態変態、変態変態変態変態変態変態変態変態変態、変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態だと、思われちゃうよ、思われちゃうよ、思われちゃうよ、思われちゃうよ、思われちゃうよ、お仕事、お仕事、お仕事、お仕事、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ち…」「新垣栗山ゆま蛯原クリステル〜!!」



 「そして青年はオッサンになる…」 ってそうはいくか。



 時間とか神様とかそういうものは無慈悲に偉そうにいろいろなものを奪い去っていく。老衰、寿命といった言い訳をくっ付けて。戦争とか殺人とか世界中の悲しみとか涙を地上から絶やせない己の無能を棚上げにして奪い去っていく。時計の針を一定のリズムで刻ませる。カレンダーが一枚めくられて新しい一日が訪れること、新しい人やモノに出会うこと、新しくなることは素晴らしい。しょぼくさい日常も本当は奇蹟なのだ。それは毎日の暮らしの中で、流れの中でもがいているうちは気付きにくいだけ。さようなら昨日までの私、今日から新しい私になる!新たな出会い万歳!ビューティフル毎日!ワンダフル毎日!エクセレント毎日!だけどさ。


 僕は反抗する。今日の午後、僕は電気屋オッサンの運転する軽トラックの助手席にいた。「ご希望の冷蔵庫は納期まで3週間かかります」そう平然と言ってのけた量販店の店員の顔を思い出すだけでムナクソ悪くなる。3週間も待てるわけないだろう。蝉なら死んでしまう。オッサンだって干からびて死んでしまう。オッサンをなめるなよ。助手席から身を乗り出して軽トラの荷台を眺めた。なあ?やってみなきゃわからないよな?軽トラの荷台では夏の日射しを目一杯に受けて古い冷蔵庫が真っ白に輝いていた。