Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

メロウ

 午後3時。新宿は真夏の陽射しとビルの群れに飲み込まれたオフィスや飲食店からの排熱と多種多様な店頭から流れる音とで巨大なスチームコンベクションとオーディオシステムのなかにいるような状態で、嫌でも汗がたらたらと噴き出してくる。既に仕事を終えていた僕はルールに則って会社に連絡を入れようとワイシャツのポケットからケータイを取り出しアドレス帳の「く」のページを開き「クソ会社」にカーソルを当てて通話ボタンを押す。ププププ。会社の代表番号は総務に繋がっていてわが社の誇るAカップガールマヤちゃんが電話をとる。「たった今、八戸でプレゼンを終えて新幹線に飛び乗ったところ。ちょっと定刻に戻るのは無理なので直帰するから部長に伝えておいてもらえるかな。ホワイトボードも消しておいて。それとお土産買えなかったけどえぇんか?えぇんか?あとさマイミクの件だけど…」「わかりました。結構です。お疲れ様」マヤちゃんは照れ屋なので電話は三秒と続かない。会社のルールを守った僕は放熱とガムランを想起させる音の嵐から逃げるようにしてレストランに入り窓際の席を選びスツールに腰をかけビールを注文した。


 新宿。この街を訪れるたびに思い出すのはあの人のこと。冬の新宿東口の街を一緒に歩いた彼女のこと。彼女を振り払うようにグラスに注がれたビールを一口飲み喉の渇きを癒すと、窓の外の街並と人波を眺めた。恋人。親子。友人。あらゆる人の関係が僕の視野に幾何学模様のように現れては消えていった。硝子で遮断されていて音は喪われている。音のない巨大なカレイドスコープ。僕はそれぞれの人の環にストーリーや会話を付けていく遊びに飽きてしまうとひとりになった。照り返しの眩しさに目を細めると視野に飛び込んでくるものすべての輪郭が曖昧に溶けて混じりあった。街路樹の青々しさをも白く光らせてしまう真夏の太陽がヴェールとなって混じり合った輪郭を覆い僕の視野がモザイク処理を施したようになる。輪郭のない色彩。粗い素子の群れ。夏のモザイク。色彩の大半を白を基調にした薄い色と肌色が占める。真夏のトーン。そして僕は彼女を思い出してしまった。彼女はこのモザイクのなかにいない。いたとしてもわからないだろう。僕は冬の彼女しか知らないから。


 季節が変わるにつれモザイクを構成する素子の色彩は次第にグレーやブラウン、ブラックによって占められていく。変化していく。秋、そして冬のトーンへと。音のないモザイクを眺めるうちに僕は気付いた。僕が彼女の音を思い出せなくなっていることに。彼女を構成するサウンドの要素を。声色、口調、口癖を。音は時間の上に存在するあやふやなものだ。海岸に砂でつくったお城が押し寄せる波に揉まれるうちに少しずつ捥がれ削られ姿を失っていくように時間と共に風化して形を失っていく。僕はこうして彼女のすべてを忘れていく。彼女の声はもう僕のなかにはない。やがて冬がくる。冬のモザイクのなかで彼女を見付けることが出来るだろうか。モザイクの向こうの彼女を見つけられるだろうか。一度でいい。一度きりでいい。元気な彼女の姿を見たい。「元気?」と声を掛けたい。


 だから僕はモザイクの向こうを凝視する訓練をする。今宵の相手は「鮎川なお」と「大沢佑香」。二人ともオッパイが魅力的で僕の視線はモザイクからおのずと離れてしまう。オッパイには抗し難い力がある。こうして僕は彼女のすべてを忘れていく。僕が声を忘れてしまった彼女はこの青空の向こうにある埼玉で元気にやっているのだろうか。また会えるときが来るのだろうか。僕は不安を残りのビールと共に飲み干そうとグラスを持ち上げた。グラスにくっついてきたコースターを左手でつまみテーブルに置いた。紙で出来たコースターには水滴の跡がついていた。悪戯な水の精の足跡。二重の丸印。未来はたぶんやわらかく美しい。オーケーだ。