Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ドラえもんオッサン


 今月最強クラスの憂鬱の馬鹿野郎がヒュプノス様に飛び蹴りを喰らわせてどこかにすっ飛ばしたらしく僕は眠れないまま朝を迎えた。明け方の暗闇を斜めに切る雷雨。雷鳴と稲光の競演。雨音を背景にカーテンで織り成される光と影のショーを僕は万年床の上に体育座りでブリーフを震わせながら眺めていた。我が家には雨戸を閉めたり鍵をかけたりといった習慣がないのでお天気ショーはひょっとしたら隣人よりも近い距離にいる。虫や雀が飛び込んでくるのもしばしばで、さすがに今はもう喜んだりすることはなくなったけれど子供のころは闖入者のたびに弟と二人で大喜びしたものだ。カブトムシは僕ら兄弟にとってクロマティ級のスーパースターだった。「兄ちゃんカブトムシだー」「ぷうぷぷそれコクワガタだよバーカ」


 小学生のとき僕ら兄弟はドラえもんが大好きで、父親に頼みこみ、部屋に二つ並んだ押し入れの上段に布団を運びこんで寝ていた。ある晩、弟が僕の頭上にある「しきり板」をポクポク叩いてきた。文句を言おうとした僕の機先を制して弟の声が言う。「兄ちゃんなにかが部屋にいる」押し入れは高い位置にあるので部屋を一望することができた。暗闇に目を慣らすと確かに何か長細い塊が部屋の真ん中で動いていた。僕は自分が一番大事なので弟に部屋の灯を付けるよう命令した。「こわいよう」「お前男だべ」僕は聞かぬふりをして天井からぶら下げたビニール紐の先っちょに結んだ五円玉を指差し、弟に無言の指示を出すと布団にもぐって隠れた。すぐに即席布団秘密基地のまわりが明るくなった。弟の声はしない。お化けに食べられちゃったらごめんな。アーメンソーメンヒヤソーメン。お前のことはたぶん死ぬまで忘れない。大人になったらわかんないけどね。僕はゆっくりと布団から這い出て草食恐竜みたいに首をぐっと伸ばして部屋を眺めた。弟はビニール紐を握ったまま立ちすくんでいた。その足元で青いジャージを着たオッサンが寝ていた。


 僕はオッサンが目を覚まさないように静かに押し入れから出て、椅子に掛けたランドセルから突き出た竹定規を手に取り、オッサンの足をそいつでチョチョイと突いてみた。弱虫の弟は動けずに「ドラえもん?」とか言っている。オッサンはむくっと起き上がり、なんかムゴゴ言った。僕には何を言っているかわからなかった。それから突然「そう!おじさんはドラえもんなんだ」とか言い出したので僕は大声を出すことに決めて「っせーの」で空気をいっぱい吸い込んだ。弱虫の弟は全然役立たずのチキンで口をあんぐりとしたまま。いよいよ声を出そうというときにオッサンが秘密道具をやると言いながら立ち上がった。ジャージのポケットに手を突っ込みごそごそとやって何かを取り出した。僕は手が痛くなったりケガをするのは嫌だったので「お前もらえ」と弟に手を出させた。弱虫の弟が必死の思いで出した手のひらにオッサンは黒い粒をいくつか落とした。「明日になったらこれを庭にまいてごらん。見たこともない綺麗な花が咲くから」そう言うとオッサンは窓を開け庭に出て暗闇のなかに融けるように消えていった。最後にオッサンは裸足の裏側を白く光らせて、消えた。


 翌朝、僕と弟は庭の空いているところをシャベルで掘り起こしてオッサンのくれた黒い粒を埋め、小石を並べただけの粗末な花壇を作った。毎日代わり番こで水を撒いた。季節が変わり春になりそれから夏がきた。そしてとうとう綺麗な花が……咲かなかった。オッサンの正体は謎だ。夢か幻だったのかもしれない。わけがわからないけれど今でもたまにこの話題で弟との話の花が咲くからいい。ただ僕と弟の記憶のなかのオッサンの容貌はほとんど一致していない。たとえば、髪。僕の記憶のなかにいるオッサンは今でいうロン毛、肩に触れるほどの長髪なのだけれど、弟はオッサンはツルツル坊主だったと言っている。たぶんビビっていた弟の記憶違いだろう。


 窓の近くに寄って外の様子を眺めた。雷の隙間の闇。薄汚れたガラスのなかに白いブリーフの上にぼうっと浮かんだ半透明の僕の顔は眠れなかったせいもあっていつもより疲れていて、僕は理由もなくあのときのオッサンはこんな顔していたような気がしてきた。雷。ストロボが半透明な僕を包んだ。白く露出された僕の姿は骸骨のよう。馬鹿な。僕はまだ終わっちゃいない。水滴のついた窓ガラスを右手で擦り骸骨をかき消す。暗転。骸骨の僕は肉を取り戻していた。僕に最後を告げるチェッカーフラッグを振れるのは、僕だけだ。憂鬱の原因。プチ・インポ。オーケー。それくらいならチンポコに添え木を付けて勃たせるさ。30センチの竹定規じゃ少し役不足だけれど。ガラスの向こう側、暗闇の宙にブリーフが白く半月の形で浮いていて、それはドラえもんのあの四次元ポケットに似ていた。なんだって出来る夢のポケットに。そうだ。僕は走り始めたばかりなんだ。