Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

コスモナウトのうた


 床に落ちた消費者金融のティッシュペーパー。薄いビニールに印刷された笑顔が歪んでいる。僕はそれを拾ってポケットに突っ込んでから、上着を脱ぎ、鞄をラックに放り込み、窓際の席に腰を落とす。左では四角に切り取られた街並みが後ろへと流れ始めていた。午後5時半。この街の夕暮れは僕の住む街よりもいくぶん遅いけれどすでに夜の気配が忍び込んでいる。首を締め付けていたネクタイを緩め駅で仕入れておいたビールを一口飲み、ヘッドフォンで耳を塞ぐ。僕と同じようなスーツ姿の男たちの賑わいに膜がかかる。影によって色彩を失い見えない明かりの点きだしたビルディングはまるで方眼紙のよう。僕は僕のための音楽を、僕の耳で聴く。ヘッドフォンで仕切られた小さなハコでロックンロールが流れ始める。アージ・オーヴァーキル。


 目を軽くとじ一日を振り返る。相手のうわの空のスタイル、空返事、軽蔑を孕んだ視線、空気洗浄器に吸い取られていく紫煙がつくる断末魔の渦、そして沈黙。僕は僕の声が相手に届いていないことを思い知らされ悲しくなる。涙が出そうになる。話を終え、刻一刻と夕暮れが影を伸ばしていく歩道を歩いた。リーガルとアスファルトが刻む足音のビート。夏のあいだに太陽にじじびと焼かれて色褪せてしまった街路樹。ブラウンをベースにした化粧品のポスター。それらが乾いた秋風と混じり合ってひとつになり、もやもやとした不安になって僕に襲いかかった。僕の言葉は相手に届いているだろうか、僕の喉によって発声された言葉は空気を震わせ音になっているだろうか。


 瞼をあげ外を眺める。陽はすっかりと落ちていて街の灯りが数多の光点となって遠くに流れている。車窓はすこし濡れていて、南島の海底から澄み切った海を透して見上げた星空のように光点が揺れている。時折、高速で視界を遮る電柱はシャッター。地上の天体写真。僕は少し前にインターネットでみた一枚の写真を思い出していた。宇宙船から少し離れて宇宙遊泳をしている飛行士の写真。漆黒の闇に浮かぶ白い宇宙服はとても寂しげで世の中のすべての孤独を背負っているようにみえた。飛行士の孤独は空間的に切り離された状態によってではなく、その固定された姿勢と無限に広がる静寂の空間、サウンドの欠落による意思の伝達の不能によって生み出されているのだと僕は思う。


 窓のむこう。あの光芒のひとつひとつに人間のやり取りがある。宇宙からみれば僕もあのなかの一つなのだ。言葉がうまく届かないときも聞いてもらえないときもある。不安になるときもある。これからだって。死ぬまで。でも。それでも。声を出さなきゃいけないのだ。文字でもいい、絵でもいい、料理でもいい、プラモデルでもいい、ウンコを投げつけたっていい、なんだっていい。人との繋がりを求めようとして何かを、アクションを、しなきゃいけないのだ。誰もが一人では生きられやしない。傍らにいる人に意思を伝えなきゃいけない。あの宇宙飛行士だって写真ではわからないだけでヘルメットのなかで家族だか友人だか同僚だかに言葉を投げかけていたはずだ。神や大地や宇宙やそういった大きなものではなく、ごく普通の、当たり前のものに対して。


 僕は言葉を投げ続ける。なんらかのやり方で。不細工だったり馬鹿だったり的外れだったりカッコワリーだったり五線譜の階段を踏み外した音痴だったりしても、それでいいと思う。マイナスの関係を作ってしまうことだってあると思う。でもそれでいいと思う。パーフェクトなものなんて世の中にそうあるもんじゃない。モーツアルトやピカソやエジソンだってパーフェクトじゃない。すべて、オーケー。ビールを飲み干してズボンのなかでぐにゃぐにゃした不協和音を奏でていたティッシュを取り出した。僕はぐしゃぐしゃに折れ曲がったタレントの笑顔を引き伸ばしいくぶん見られるようにして、それから携帯を取り出して総務のマヤちゃんの携帯へメールを送った。「お土産買ったよー」。数秒後、意味不明の字幕を僕の網膜スクリーンが映し出す。「送信できません 宛先を確認してください」。僕と彼女の距離は宇宙飛行士と地球のそれよりもずっと離れているみたいだ、今は。僕はヘッドフォンの音量をあげて窓の外を眺めた。僕には見えた。夜の地上で、人の光がお互いに結びつきあって星座を築いていく様が。その可能性が無限に広がっているのが。ヘッドフォンのなかではアージ・オーヴァーキルの乾いたロックンロールが鳴り響いていた。