Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

上司が好む音楽


 ハンドルを握る僕の傍ら、窓の向こうで風が泣いている。冬が近づくにつれ葉を奪われていく木々、そのあいだを風が通り抜けるときのあのひょうるるという音。僕には泣き声に聞こえる。泣き声は聞きたくない。僕の中心にある寂しさの核みたいなものが共鳴してしまいそうだから。苦い想い出はなかなか死なない。僕から立ち去ろうとしない。


 20世紀末。よく晴れた11月の日曜日の午後。青山一丁目、外苑前、それから神宮球場。僕とガールフレンドを乗せて走るホンダシティの車内には「ジャクソン5」が流れていた。陽気な歌声が。「A・B・C!」楽譜を滑るようにして助手席の彼女が囁くようなアルトで話し出した。夏の日、Tシャツの下で揺れていた大きなオッパイはセーターに遮られていた。「音楽を切って。静かに真面目な話がしたいの」


 「1・2・3!」小さいマイケルの、ジャンプしそうな歌声。ソング。「なにかな?今、音楽を止めてしまったら僕らも終わってしまったりして」「そんな残酷なことはしないわ。お願い」「わかったよ」マイケルの歌声を止めると彼女の口が「別れましょう」とあっさり言ったので、僕は日本青年館前の路上にオッパイしか取り柄のない女を突き落とした。


 僕らはそうやってしっとりと別れた。彼女が残していった小さなボンボンの付いた赤い手袋は、日曜日に落ち葉と一緒に焼きイモにして食べた。焼きイモを食べているとき、脱力した僕の尻からは屁がながれてケミカルウォッシュジーンズの柄に染み込んでいった。透明な空の下を抜けていく風は、泣いていた。


 泣き声は聴きたくない。僕はカーステレオをオンにした。「A・B・C!」コルサ1300CCの車内で純正スピーカーから古いポップチューンが踊り手を求めて流れはじめる。楽しいぜ。踊ろうよ。ハンドクラップ。ハンドクラップ。サウンドが誘う。「1・2・3!」貧弱なアンプによってベースやバスドラムを黙殺された薄い音の群れが僕の耳になだれ込む。ファンキーな音の粒が、車のハンドルを握る僕の周りを埋めつくす。ハンドルがいつもより重いのは普段は部長が使っている車だからだろうか。この音楽のせいだろうか。違う。「これはあのとき流れていたものと違う」チガウ。「僕はこの音楽の正体を突き止めなければいけない」。アクセルを踏み込む。トロロロロ〜。腹底に響くような1300CCエンジンの唸り声が晩秋の三浦半島を駈る。地鳴る。三浦半島を爆音半島に変えていく。


 僕は三浦海岸の駐車場にコルサを乗り入れてサイドギアをひきエンジンを切った。プススーッ。鋼鉄の身体を持つ猛禽は断末魔の叫びすら断たれて沈黙する。音楽もとまる。走行距離12万キロオーバーの古い車だ。カーステレオはカセットテープ。頭出し機能付の優れ物。FMのアンテナはどこかの街角で千切れてしまっていて、世界中のどの放送局にも掴まえられたりはしない。取り出しボタンを押す。故障しているらしくカセットは殺虫灯が虫を焼き殺すときに似たジジっという異音を立てるだけ。僕は助手席の足元にカセットケースが落ちているのに気付いた。手を伸ばして掴む。TDKのカセットケース。そこにはタイトルと曲名と演奏時間が丁寧に書かれていた。部長特有のフォントで。

 

 

 部長の言葉が記憶の底から蘇える。「俺には勝負を決めるときに聴く歌がある」「気合いの入る曲ってやつを仕事のデキル男は持っている」「俺は車のなかでいつも同じ曲を聴いている」「好きなものにとことん惚れ込むのが、本物の男だ」今、僕は部長の秘曲を手にしている。「部長ベスト」を目の当たりにしている。「ベストオブ少年隊」。「少年隊」を「SHONENTAI」と書く部長。約束の時間を守れないのに再生タイムを秒単位まで記録する部長。デカメロン伝説を口ずさむ部長。カセットから喚起される部長のイメージたち。


 窓の向こうで風が鳴った。風は泣いているようだった。僕はエンジンをかけた。エンジンと共にスタートする少年隊。ABC(SP DANCE MIX)。「ラブ!ABC!ABC!エンジェルベイビキューピッ 恋をしたーら ラヴ!123!123!」少年隊を大音量で鳴らしながら僕は三浦半島を北へ進んだ。左手に夕暮れ。相模湾の街並みに灯りが点き始めている。いつの間にかスピーカーは「まいったネ今夜」を奏ではじめていた。