Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

オッサン、スカイ・クロラ


 出撃。僕はいつまで走り続けるのだろう?白い朝の空気を、ふりあげた右足が引き裂く。いつまで?紺スーツに包まれた右足の下で赤いフレームが燃えている。何のために?膝の部分がつんつるてんになって斜めの朝陽に鈍く浮く。誰のために?メンズプラザアオキ、スーツ一着につきパンツ二本のセットは、一方のパンツだけを愛し信じ履き続けた僕には意味がなかった。一人で?ずり下がった指割れソックスとスーツの隙間で僕の脛毛が朝を愛撫する。サドルの冷たさに我を取り戻す。


 チェックスタート。ロック・オフ。「ラジャーッ!」妹が応える。ノーエレクト。「ラジャーッ!」眼鏡オーケー視界良好。「ラジャーッ!」軍手が左右のブレーキレバーをカチカチと動かす。横を原付に乗ったギャルがかすめていく。「ブラジャーッ!」妹から弁当を受け取り、「地域安全パトロール」のパネルが取り付けられたカゴ、鞄の下に入れる。「お兄ちゃんゴー!グッドラック!」親指を立てて妹に応え両足がアスファルトを離れる。妹が霧のように消える。逃げるように部屋に飛び込んだのか。無理もない。この冷え込みようだ。ビキニでは厳しい。


 冬の駅前に向け、ペダルを踏みこむ。つんと冷やされた空気を切り裂いて行く。カチャカチャカチャ。油切れの乾いたビートが速まっていく。カチャカチャチャチャチャ。ペダル、チェーン、タイヤ。伝達されたパワーが道路を蹴る。加速。加速加速。加速加速加速。カチャーチチチチチチチチチ。カチャーチチチチチチチチ。地蔵のある角を左にターン。風景が横に細い楕円になり縁から背中に飛んでいく。冷たい空気が刺さる。首に巻いたマフラーを鼻まで上げる。頭が亀頭、マフラーが包皮。包茎手術の広告にでも登場しそうな姿で僕は速度を維持し、緩やかな坂を下る。渋滞。車列を笑う。


 前方。蛇行する物体、発見。距離三十。相対速度プラス五。接近。複座機。ブレザー制服の男女。声が聞こえてくる。価値のない会話。マフラーを更にあげ目元まで隠す。僕はピタリと後ろに付き速度を落とし相対速度をゼロにする。距離一。ミニスカートから生えた太ももの鳥肌のひとつひとつを捉えた。「マジキ…」「何…」複座機の会話はチェーンのかき鳴らすビートにかき消された。警告。ランプ点灯。繰り返す。応じる気配なし。敵。射撃体勢。右手の親指を発射レバーに当てる。カウントダウン。3・2・1…発射。ジリリリリリリリリリ!錆びついたベルの音。弾のないマシンガン。ジリリリリリリリリ!複座機がバランスを崩す。ストール。僕は立ちこぎで最大戦速まで一気に加速、戦線を離脱。騒いでいる男女の声は遠くなっていった。


 僕は愛機を駐輪場に滑り込ませて所定の位置に停める。スタンドダウン。僕は肩で息をしながら駅へ急ぐ。僕の傍らを先程の高校生が賑やかにすれ違う。二人乗りはダメだっつーの!戦っている。駆けている。走っている。いつまで?何のために?僕を嘲るように風が吹いて僕の悩みを空のむこうへ飛ばした。やるしかないんだ。僕は鞄に隠したマフラーを首に巻きつけ、通勤電車に向かってステップを踏む。未開の密林に踏み込むように。慎重に未来を。そこが素敵な場所だと信じて、踏む。ホームに入ってくる電車の起こす風に乗ってスーツがはためいた。それは昔見たスーパーヒーローのマントにすこしだけ似ていた。