Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

別れ


 「どうして名前で呼んでくれないの?」と彼女が言ったときに僕らのコーダは始まった。終わりを迎えようとしている僕らの関係は終始、別れの予感と後ろめたさで出来たフレームで縁取られていた。すべて、終わる。そこからは何人も抜け出すことは出来やしない。僕だってそうだ。誰にでも「終わり」はやってくる。それぞれ時期が違うだけで。僕は思う。スタートラインの手前で「なーんか今日は足の調子わりいんだよねえ」なんて負けたときの予防線をバリバリ張りまくっているうちに頭の上でチャーンってピストルが鳴った瞬間に勝負が決まっていたように、僕らの関係は始まったときから「今日このときが終わり」と決まっていたのかもしれない、と。


 「ビンセント・ギャロって最低だわ。でもあなたよりは少しマシだわ」と彼女は言った。バッファロー'66を観たあとの六本木の国道だった。六本木ヒルズは土台もなかったと思う。ショートホープを唇に挟み、ジッポで火をつけようとした僕は不意打ちを受けてバランスを崩す。僕の身体の中心がぶれる。あの頃の東京の道路にはいくつもの紫煙が街行く人たちの頭からコミックの吹き出しのようにポッカリと浮かんでいた。「どういうことだい。僕はあのギャロよりも最低かい?僕はそんなに最低かい?」「あたしとの関係って意味ではあなたは最高で、最低なのよ」


 僕らは同じ日に産まれた。僕が、少しだけ早く産まれた。「私が産まれた瞬間にはこの世界にはあなたが存在していたなんて反吐が出るわ。あなたのいない世界を知らないなんてあたしは不幸よ。それに…」「それに?」「あたしのいない世界をあなたは知っている。それはとてもアンフェアなのよ」僕らの関係は合わせ鏡に似ていた。もっとシリアスなものだったかもしれない。僕らは糸で結ばれていた。その糸の両端は輪になっていて、お互いの首を締め付けあっていた。結末は、別れ。死。


 肩の向こうで彼女が泣いている。ううううーって小さく、小さく震えながら。彼女から涙が流れ落ちた。彼女の涙は雫になって、その瞬間瞬間の、目に見えるすべての世界を滑らかな表面に切り取りながら、腐りかけた床に落ち、しみ込んでいった。彼女の華奢な身体を抱いて僕は言った。「すまない。泣かないで。僕まで泣いてしまいそうだ」彼女はうな垂れていた首を持ち上げて僕の目に焦点を合わせ、まるで僕の瞳のなかに脚本があって、それを読み上げるように静かに話し始めた。


 「あなたは泣いたりはしない。あなたのなかにはあなたしかいないの。自分のため以外に泣いたこと、今まである?」「あるさ」「嘘。あたしはあなたのすべてを知っている。あなたが思っている以上にね」「そんなことないよ」「それにあなたは人前であたしを名前で呼んでくれたことないわね」「すまない。照れ臭かったんだ。そんなこと、なのかい」「そんなこと?そうよ。あたしがあなたに望んでいることなんてそんな些細なことなのよ。あなたは分かろうとはしなかったし、きっと一生わからない。これでお別れね」


 泣けない僕は声をあげる。「お願いだ。どうか行かないでくれ。泣かないでくれ。僕から離れないでくれ。僕の声が聞こえるかい。僕は、僕は、僕一人では生きていけない」と。彼女は何も言わない。僕は僕の言葉の無力を僕の目と耳で思い知る。彼女はただ、小さく震えている。彼女は力なくうな垂れた。駄目だ。彼女が行ってしまう。僕は両手で彼女の首を掴み、激しく前後左右に振った。首がもげたって構わない。駄目だ。行っては駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。


 この手を離してしまったら永遠の別れが訪れる気がしてきて必死に戦う。まだ。まだだ。僕らはまだ終わるときじゃない!僕のために行かないでくれ。お願いだ。僕は僕のことしか考えていない駄目な男だ。もし、少しでも僕に対する愛が残っているなら、行かないでくれ。彼女はただ小さく震えている。お願いだ。まだ僕らは終わりじゃない。僕の声に応えてくれ。僕は彼女の名前を叫ぶ。ありったけの声で。「チン子!」チン子行かないでくれ!チン子もういちど僕と!チン子一緒にイコう!チンコ、チンコ、チンコ、チンコ、チンコ…僕は部屋で叫び続けたが、僕の声はチンコに届いたりはしなかった。立てー。立つんだチンコ。