Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ラブホテルをつくろうと母は言った


 家族でも恋人でも友人でもいいのだけれど、そういう大事な人を喪ったときの正しい感情ってなんだろう、なんて答えがないことを父の死を契機に僕は十代の終わりの一時期かなり真剣に考えていた。父が死んだとき僕が真っ先に思ったのは、悲しみでも、将来や生活への不安でもなくて、人間なんて簡単に死んでしまうんだな、エロ本の隠し場所には気を付けなきゃいけないな、というどうでもいいことだったりする。多感な18才だったので悲しかったのは間違いないのだけれど、前年の夏に祖母を亡くした直後ということもあって命が消えてしまう呆気なさに僕はただ愕然としていたのだ。


 愕然としたあと僕はムカついた。というのも淡々と葬儀屋と打ち合わせをこなし、葬儀を執り行う母をみて親戚のオッサンどもが「少し休んだらどうだ」とか「泣いたっていいんだぞ」とか「これからの生活はどうするんだ」なんていちいち声を掛けてきたからだ。母のやりたいようにやらせればいいというのに。父を喪った母の心情を正確に知ることは地上の誰にもできやしない。だからやりたいようにやらせればいいのだ。


 お疲れさま。元気だせよ。頑張ろうぜ。葬儀を終えて父の骨壺と家に帰ってきたとき僕と弟は母にかける言葉を見つけることがどうしても出来なかった。言葉はまさしく神で、いろいろなことを可能にするけれど、向こうからはやってこない意地悪な存在でもある。三人で居間に座り麦茶を飲んだ。静かな夕べだった。二枚しか座布団がなかったので母と弟に譲って、僕は痔に悩んでいた父が愛用していた円座クッションに座った。時折遠くで江ノ電の踏み切りがかんかんと鳴るのが聞こえた。しばらくして、落ち着いたら父さんの書斎を片付けよう、と座布団に座った母が言った。そうだね、と円座クッションに座った僕が言った。座布団に座った弟は終始無言だった。


 それからまたしばらく経って麦茶をすするザズッという音が途切れて空気がしんと伸び始めたとき、母が「家、空き部屋が出来ちゃったね〜下宿でもやろうか〜鎌倉らしく連れ込み旅館のほうがいいかな〜商売〜」と言った。そのときの母の声の明るさと強さを僕は死ぬまで忘れないだろう。母のなかにある寂しさや悲しみ、僕と弟への思いやりのつまったあの無理矢理な明るい声とバカ話を。堪えきれなくなった僕は風呂場へ駆け込んで声が聞こえないようにシャワーを流して泣いた。泣き声くらい、馬鹿みたいだと言われるかもしれない。でもあの声、あの言葉を聞いてしまっては泣き声を母に聞かせるわけには絶対にいかなかったし涙をこらえることも僕には出来なかった。排水孔に吸い込まれ消えていく冷たい水の流れは、どこかへ消えてしまった父の命のように僕には見えた。


 五月下旬、父の命日が近いこの季節、街で老夫婦が仲良さそうにしているのを見掛けると僕は両親の姿を重ねずにはいられない。そんなときはいつも、父を喪った母の心中と父の無念を想って、僕の胸は押し潰されてしまいそうになる。それ以外でも生きているなかで凹んだり落ち込んだりもする。そういうとき持ちこたえて歩いていけるのは、あの言葉が僕のなかで生き続けているからじゃないかと僕は思っている。