Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ニッポンの夏、ブチョーの夏


 目をひらくと空の青に彼が融けていた。海岸沿いの錆びの生えた柵に囲まれた無人駅。午後。梅雨はどこかへ脱走し、陽射しは単線を走るレールを二重の光線に変えていて、その行方は眩しさで見えない。プラットホームの真ん中で、白いワイシャツからうまくいかなかった仕事の記憶とネクタイを早退させて飲みかけのペットボトルに口をつけると僕の喉を青く潤す《ペプシしそ》。買うつもりはなかったけれど、駅前の酒屋の胸元の開いたワンピースを着て藤で出来た椅子に深く腰を掛けた推定未亡人が、足を組み替え組み換え、その薄く開いた唇からチロチロと線香花火のように赤い舌を蠢かせ、「ぺプシしそはいかが?プッシ〜ソはいかが?Pussy、そう、オーイエー…、そう、Pussy、so、Pussy、so…」と桃色吐息を浴びせられた結果、胸がキュルルンした僕は缶ビール六本パックと《ペプシしそ》を握りしめて太陽の真下、焼けた大地に立ち尽くしここに至る。


 44分発の電車までは少し時間があった。「課長、電車は来ないぞ」。部長の声だ。白が多くを占める時刻表の《平日》に縦列のフォーティーフォー、44。間違いなく電車はやって来る。僕が何も返せないでいると時刻表を確認した部長のバーコード頭蓋から追い討ちの音声ふたたび。「課長、電車は来ない」。二人しかいない部署でブチョーカチョーと呼び合う滑稽さはもう僕を笑わせない。


 「部長は数字が読めないのかもしれない」。疑念が、僕の奥底の岩場に隠れていたひとつの記憶に手を差し出し僕の手の届くところまで浮上させて形になった。それはサンマの形に似ていた。サンマが美味しい秋。部長が実母、《隷さん》の密葬を理由に休みを取ったときのことだ。隷さんが亡くなるのは三回目だ。三人目の隷さん。僕は社長から部長の調査を命ぜられ、部長の故郷へと飛んだ。


 山に囲まれた湖のある小さな町だった。駅前の噴水には頭上に柿の実を置いたビーナス像とその柿の実にライフル銃で狙いをつけるふんどし姿のウイリアムテル像が置いてあった。テル君のふんどしのぴろっとしたところに彫られた拙い字体の片仮名《ハリウッド》。ロータリーに停められたただ一台のタクシー。窓を叩いてもドアに蹴りを入れても運転手は真っ青な顔でハンドルに突っ伏し耳から毛を伸ばしまま熟睡から帰還しなかった。レンタルサイクルには補助輪つきの自転車しかなかった。仕方なく徒歩で部長の生家へ行くことになった。


 適当に捜索したけれどとうとう生家を見つけられず、町道の木で出来たガードレールに手をつき湖に沈んだ鳥居を眺めて失意のどん底の僕に、駐在ポリスが自転車でやってきて声をかけた。「イケメンさん仕事かい?」「ええ」「悪いことはいわねえ。他所もんはこの町に近づかないほうがいい」「え〜!何かあるんですか」「この町では九十歳以上のお年寄りが亡くなるのが三年続いている。悪いことはいわねえ。生き残りたいならすぐに町を出ろ」。出ろ出ろ駐在は坂を下って消えた。


 駅に向かう途中の農協前の胡瓜売り場で「イケメンさんいいことを教えよう」と声を掛けられた。声の主は双子の老婆で二人ともお歯黒を塗っていて声は完璧なユニゾン。「いいことってなによ」「古よりこの町に伝わる数え歌じゃよ」うわっつまんねえし辛気くせーし遠慮しときまーすと言ってるのに双子老婆は歌い出した。歯茎の紫とお歯黒の黒が気色悪かった。


 「ひとつ人より力持ち〜、にそくで〜もサンダル〜、いちたすに〜たすいちたすに〜たすサーンバールカーン 、ご〜じ〜買い物ブラブラぼ〜く〜いっ〜しょ〜パタパタママパタパタママ〜 ココ、ココ、ココ、ココ、ココ〜ナ〜ッツ」。…。「四がないんすね」「この町に不吉な数《四》はない。この町に生まれし者は赤子のときから《四》を避けて育てられる。《四》を知らぬ者じゃ。この町に《四》は存在しないのじゃ。アパートの部屋番号。プロ野球の背番号。四を避ける風習はここが発祥じゃ。イケメンさん、これ以上この町の秘密に首を突っ込まないほうがええ…」言いたいことを言い終えると双子はオート三輪に乗って走り去った。そうやって僕は《四》のない町を後にした。


 ホームに44分発の電車が滑り込んできた。部長は「電車は来ないぞおおカチョー」と叫び、僕は「よくその腐ったドブのような目で見てください。電車ですよー」と返した。部長が真剣な顔をして僕に対峙して言った。「課長、これは…」「 これは?」「電車ではない…ジーゼル車だ」「え?なんです?」「ジーゼル車なんだあああ」。ジーゼル=ディーゼル機関はドイツの技術者が発明した内燃機関、つまり、これが搭載された車両は電車ではなく架線設備もパンタグラフも持たない。


 部長の絶叫は電車の滑り込んでくるモーター音、ブレーキ、金属の軋み、風を切る音のデシベル、すべてを凌駕した。「ジーゼル車だあああ!」。部長は両手を思いきり広げて咆哮した。僕は停車した電車の屋根を見た。そこには夏の太陽に負けないようにしてパンタグラフが在った。架線と車両をへその緒のようにして結んでいた。「ジーゼル車だああ」。言葉は神と共にあるから、部長の力強い言葉がパンタグラフパンタグラフでなくしてしまうかもしれない。たとえば天を握りつぶす悪魔の手に変身させてしまうかもしれない。その気になれば言葉は太陽だって奪える。「ジーゼルだああああ」。


 それから僕らは電車に乗って空港のある町へ向かった。缶ビールをあけた。モーターが僕とビールを静かに揺らした。窓の外を眺めると夏草の海面を太陽が照らし、光が、魚の群れが、跳ねているように見えた。夏も、揺れていた。