Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

松居一代十夜 第六十九夜


 アルゼンチン人ダンサー、ファン・ロマン・マンクーソが三陸にある小さな港町にやってきたのは三日前のことだ。エルプリンチぺ!エルニーニョ!バイアグラ!熱狂と狂騒の渦でダンサーとして獲られるかぎりの称賛を得た彼は「ワールドツアー《マンクーソ博士の世界塔!見ないとらめぇぇぇ》」で訪れた東京の夜、フォーシーズンホテルのベッド、エロスに塗られた激しいスリータイムスの後、菊地凛子の陰毛のなかで三陸海岸のビジョンに撃ち抜かれ、翌朝、三陸へ飛んでいた。


 ニューヨークで知り合った日本人アーティスト、ミッキー柳井から教えてもらった《東洋の神秘ザ・ヘリコプター》で激しく交わったあと闇に浮くテレビにテレビドラマ、額の広い黒いジャケットの男を見つけ、刑事役だろうか?顔をしかめたマンクーソに傍らで潮を吹いていた菊地凛子が潮を止めて「興味あるの?ミスターダンサー…。あなたの国のリオのカーニバルみたいに能天気な顔でしょ…あれでも彼は日本でもっとも有名な俳優のひとりよ…」と言い、それから彼の耳元で俳優の名前を囁いた。リオはアルゼンチンの街ではなかった。


 ブエノスアイレスの郊外で生まれ育ったダンサーは、第三セクター三陸鉄道のダイヤをググりながら、すやすやと眠るキクリンこと菊地凜子の奔放な陰毛ボーボーに、子供のころに憧れ通いつめたプロサッカーチーム《ボカ》の練習グラウンドを覆う、長く濡れた芝を重ねた。アルゼンチンの睨むような太陽。仮設スタンドに据えられた粗悪なスピーカーから流れるバニーマニロウのコパカバーナ。ペネロペ・バーから漂うアルゼンチンワインの乾いた香り。眉毛のないキクリンの額に「肉」。


 マンクーソは崖に憑かれていた。あの崖で踊らなければ。ひとときでもはやく。さながら猟銃をもった狂人に崖へ追いたてられるように。《なぜ俺は崖を目指しているんだ》。脳裏に浮かびあがった疑問を彼は頭を振って打ち消した。ダンサーは己に問うことをしない。疑問は甘美に彼を死に貶める。舞踏家としての死に。「ダンスに意味を問うな」半世紀前、その魔術的な舞踏と中性的な容貌で南米を震わせた師クラウディア・カニージャ、臨終の言葉。


 崖の上に着くなりマンクーソはリアス式海岸と打ち寄せる白波を畏れ、彼の集落に古来より伝わる神の名をつぶやいていた。海と魚と人の神の名を。すがるようにして。「PO…NYO…」と。それから彼は崖で踊り始めた。潮風がアルマーニの裾を揺らす。ほどけた長い髪がたちまちに散ってリアス式海岸に黒い雨を降らせる。まさにエルプリンチぺ。これぞエルニーニョ。蘇るロンドン、ボストン、数多の狂乱の夜。マンクーソの舞踏は言語を越えていた。速く遅く鋭く緩く熱く冷たく。彼は踊りそのものになっていた。彼の手足の挙動は、呼吸は、表情は、周囲の世界を従えていった。ただただ舞踏によって。


 踊り終えたマンクーソの肩を叩く者がいた。おかしい。彼は首を傾げた。何人も存在しなかったはずだ。女だった。中年の。女は言う。「あなたはわたしの主人ですか?」「ちがいますよご婦人。わたしはあなたのご主人ではない」「 あら?崖の上で息を切らす殿方はわたしの主人しかいないのに。あなたふざけるのはやめて」「ご婦人わたしはただの舞踏家。あなたのご主人ではない」「あなた、俳優だからってプライベートに役を持ち込むのはやめて。車を使わないで意味もなく走る。崖の上で犯人を説得して逮捕。かわいそうに。同じ役をやっているうちに役から抜けられなくなったのね。かわいそうなあなた…」「違う。わたしはあなたの主人ではない。《エルプリンチぺ》マンクーソだ」「可哀想なあなた。おかしくなってしまったのね。だから共演の安田美沙子と…。見たわ…ブログで交際宣言する女なんてただの馬鹿よ。…可哀想にあなたおかしくなってしまったのね…」「わたしは…わたしは…ダンサーだ…」「わたしがあなたを掃除してあげますよ。綺麗にすれば全部解決するわ」「あなたは誰ですか?」「何を言ってるの?あなたの一代よ」。


 松居一代は懐からお掃除の強い味方《松居棒》を取り出すとこれを一閃、男の耳に突き刺して叫んだ。「キレイ!キレイ!にしましょうね!」。マンクーソは崖から海面へと墜ちていった。一瞬を永遠に見立てた舞台で男は踊る。ラストダンスを。海に激突する瞬間、マンクーソは海面に映った己の顔をみた。そこにエルプリンチぺと呼ばれた己の顔はなく、東京の夜フォーシーズンホテルでみたあの俳優の顔があった。菊地凛子の囁き声がして男の舞踏は終幕を迎えた。血で染まる彼の網膜でキクリンの陰毛がボーボーと燃えていた。「彼はね。船越栄一郎って言うの」。翌朝、不倫は文化だと叫びながら漁師の嫁に腰を打ち付けていた石田純一によってエルプリンチぺと呼ばれた男の白骨死体が気仙沼の海岸に打ち捨てられた圧力鍋から発見された。そんな、悲しい夢だった。