Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

豚肉は川になる


 「赤ちゃんが二十歳になるまで生きて成人式を見られたらその場で死んでもいいなあ〜」。郊外の豚しゃぶ店で、ひとあし早く食事を終えた母が言った。八月の終わりに弟には子供が産まれる。三番目のタフガキ。弟は「ぜんぜん余裕だろー縁起でもねーなー。それに成人式で死んだら迷惑だろー。俺引き取りにいくのやだわー静かに布団で死んでくれー」と笑い、母も「バーカ。覚悟よカ・ク・ゴ。それくらいの覚悟で二十年生きるつってるの。まあ先のことはわからんから、今夜は肉を食べといたー」なんて笑ってる。六十三歳の母が八十三歳のクソババアになって成人ベイビーを祝うのはそう難しいことじゃないと僕は思っている。弟も。おそらく本人も。僕は、二人の話を笑いながら別の人間の死について考えていた。


 六十を超えた母親が病や怪我で倒れる可能性はありうる話で、僕は心のどこかで準備ができている。準備ができる。僕が思いを巡らせているのは僕自身の死についてだ。僕の知らないうち気付かないうちに僕を捉え僕を超えていく僕の死についてだ。


 死んだらどうなるんだろう。魂の行方、来世、そういうスピリチュアルな話ではなく現実的な話だ。僕は長男で、僕らは父方の親戚との縁は切れていて、母方の親戚にも子供が増える弟にも余裕はない。ようにみえる。もし僕が消えてしまったら残された人は生きていけるのだろうか。そんなことを考え出したのは、自動車のバックミラーで見た母の姿が、やけに小さく弱く見えてからだ。生命保険は重たい玉葱の箱を運んではくれない。テレビは話し相手にはなってくれない。オヤジが死んだときは母も僕ら兄弟も若かったので希望を持つことが出来た。そこには《なんとかなる》という無責任な陽気さがあった。でも今は?今はどうなるんだ?


 寸法を変えたらドラキュラの棺桶にもなれそうな白い角皿に豚肉三枚、桃色白色ちょんちょんちょんじゅわじゅわジューシーわー美味しそうに載っていて見事に漢字の《川》。子供の頃台風の夜に僕と弟と母の三人で布団の上でこんな《川》の字になって過ごしたことがあった。停電の暗闇のなかAMラジオでニュースを聴いた。《台風何号は依然強い勢力を保ったまま大島沖合い何キロを…》。びゅっとした暴風が古い家の柱をきしませた。あのとき川の字の僕には不安はなかった。今、僕らの《川》は嵐の夜を越えられるだろうか。


 「だからーまだ名前は決めてないんだって。豚食べたら考えるって」「ンまー無責任!もういい!わたしが決める」。母と弟の不毛な会話は続いていた。川。年老いた僕らの川。豚肉が運ばれてきた。「ウオー!食べ放題の元は取るぞー」と弟。「肉の前に子供の名前考えろよコラ。肉をノドに詰まらせて死ね」と母。阿呆な話は続いていた。僕はタンブラーを肘で引っかけて倒してしまった。僅かに残っていた水がテーブルにこぼれ縞になって端に向かって流れ落ちていくのを見て僕は気付いた。


 新しい肉。新しい家族。新しい川。新たに支流が増えていけばいい。誰かがいなくなり流れがひとつなくなっても水は他の流れを通って流れていく。不安も流れていく。川は家族だけじゃなくて友人でも同僚でもいい。《なんとかなる》というのは、たぶん、そういうことだ。言葉は神とともにある。ならば赤ちゃんの成人式までは生きると言った母は生きる。神はときどき闇の底みたいな地上にいる人間の願いや祈りを見落とすこともあるけれどまあそのときはそのときだ。僕は神よりも近いところにいて、川を見守ることはできる。僕は豚肉をお湯にさらして色が変わるのを待ち、それから食べた。豚肉は僕の血肉となって僕を生かすだろう。僕は肉を食べながら、生まれてくる赤ん坊の名前を考えてみようと思った。嵐の夜を越えられるような強く逞しい名前がいい。