Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

青さ


「じゃあ頼むよ」。僕に難題を押し付けた電話があっさり切れたのは三日前の夜。それからの眠れない夜をインスタントコーヒーで退散させ僕は車のキーを回す。ボンネットで散る陽は夏の終わりを忘れさせる強度を持っている。ただ、蝉の鳴き声のカーテンは日を経るごとに確実に薄くなっている。車を西へ走らせる。渋滞を見込んだ僕の予想は外れた。約束の時間には早く着いてしまうだろう。寄り道をすることにして高速道路を降りた。流れていく車たちは僕に気付かない。


 フロントガラスのむこうに空の青。僕は夏の青い空が好きだ。吸い込まれそうな青を見上げているときの背中が伸びる感覚が好きだ。海に面した小さな町の海の見える公園で車を停めた。数年前、僕は先生のお見舞いで何回かこの町を訪れたことがある。真夏だった。不思議なことにいつも今日と同じような青い空だった。



 「思ったより元気そうで安心しましたよ」「すこし太ったんじゃないですか」。バス停へ向かう坂の途中、僕は先生についた嘘にムカついていた。嘘をつくのが守らなければいけないルールだと理屈ではわかっていたけれど。振り返ると病院があった。太陽の下で憎たらしいほど無機質なものにみえた。病院が、白くて四角くて冷たい感じがする建物ばかりなのはどうしてだろう。


 バス停で時刻表を確認してからベンチに腰を下ろした。おさまらなかった。僕が、好きだった女の子けれども僕を猛烈に嫌っていた女の子を裸にして肩に担ぎ足首を掴んで股をくわっと開いてキン肉バスター!許してー!そんな様子を空に描いて鬱憤を晴らしていると、目の前の空の下の縁をギザギザに切りとった山々の向こう側から雲がにょきにょき生えてきてあっという間にマシュマロマン。


 母娘が病院へ続く坂道を下ってきて時刻表を確認せずにベンチに座った。白いワンピースの女の子が母親の腕時計を見て「もうすぐバス来るね」と言った。女の子は時刻表を見ていない。僕はなんだか苛々していた自分が情けなくなった。もやもやを振り払おうと立ち上がった僕の上には青い空。空の青さが僕の背筋と気持ちを伸ばした。バスがやってきた。僕は病院の方を振り返った。病院が白く四角く無機質である意味を僕はみた。今も、あの白い病院をカンバスにして向日葵は咲き誇っているだろう。



 青い空は栞だ。僕という物語の要所要所で差し込まれる栞なんだと思う。小学生の僕は学童の窓から青い空を見た。高校生の僕はエロ本とロックンロールの狭間から青い空を見た。大学生の僕は警備員のバイトのヘルメットの下から青い空を見た。十年前、社会人になった僕は汗でワイシャツとネクタイをべたべたにして這い出た地下鉄の駅から青い空を見た。明日の僕もずっと先の僕も。青い空を見ては背すじを伸ばす。伸ばされる。


 栞をはさみつつ僕らはそれぞれの物語を紡いでいく。あてのない航海のような物語を。退屈で冴えないパートが続くかもしれないけれどきっと先には宝が待っていると僕は信じている。携帯電話をかける。「あ、俺。頼まれていた赤ん坊の名前さ。航なんてどうかな。うん、航海の航の字」。航。読み方は記さない。これは僕だけの物語だから。車を産まれたばかりの子供が待つ町へ向けて走らせる。空は青かった。夏の吸い込まれるような青い空を眺めてすっと背中が伸びる僕は、救われたような、赦されたような気持ちになる僕は、まだ大丈夫だと思うし、まだまだとも思う。