Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

私の異常な結婚生活 または私は如何にして家族の秘密を守るために妻をあざむくようになったか


 父の自殺を秘密にしている。あのとき。申し合わせたように僕ら家族は父の自殺を「事故」とした。誰も、何も、何一つ悪いことはしていないのに、気付かれないように、悟られないように、隠さなきゃ隠さなきゃ隠さなきゃ、何かから追い立てられるように隠した。僕らを追い立てたものの正体。それは自殺という行為に対する偏見と、「まさか身内が…」という衝撃、「僕ら家族が追い詰めてしまったかもしれない」「なぜ気づいてあげられなかったのだろう」という罪の意識、そして何より「偏見で見られることを避けたい」「罰を受けたくない」という我が身かわいさが産み出した化け物だった。もしかすると純粋に父の死を悲しめなかった僕は隠すことによって代理で純粋に父の為に涙を流してくれる人を捜していたのかもしれない。安全な場所で自分の傷が癒えるのを待ちながら。以来、化け物は暴力をふるうことなく静かに僕ら家族の闇に棲んでいる。眼光は依然鋭い。妻にも隠した。「お父様はどうして亡くなったの?」「事故だよ。20年になるかな。交通事故で」。


 妻の祖母は病に倒れた。僕らが奇妙なお見合いで知り合う数年前の話。多くは語らないけれど壮絶な闘病だったらしい。それだからか、妻はテレビニュースで芸能人の自殺や一家心中の話題が流れると、夢中になっていたコスプレ用の刀剣づくりの手を休め「せっかく授かった命を自分で絶つなんて許せない。世の中には生きたくても生きられない人もいるのに」という。僕はそのたびに身を裂かれる思いだ。僕は自ら命を絶った男の子供。「僕もそう思うよ。事情はあるだろうけどね」。嘘は嘘を生み出していく。


 守られるべき秘密ってあるはずだ。たとえば変態的な性癖や過去の異性交遊。今この瞬間瞬間が重要であって過去は今を生み出す土壌に過ぎない。今を守るための秘密なら許されるはずだ。僕にとって、僕の家族にとって、父の自殺は守られるべき秘密だった。長い時間が経ったからいえるがあのころの僕には父の自殺は恥ずべきものに思えた。父の年齢に近づくにつれ、なんとなく父の身に何が起こったのか、正確ではないけれど、わかるようになってきて、恥ずべきものだという認識は薄くはなってきているが、まだ、わずかに残っている。あの怪物と、僕のなかに。


 身内の自殺というのは恥ずべきものなのだろうか。命を絶った当人と残された家族にとって。今でも答えは見出せないでいる。事実、他人の自殺の話を聞くとき、僕らはその死にいたるまでの経緯や原因について邪推しないだろうか。残された家族は、その邪推の対象となり、恥ずべきもの、悪いことをしてしまったのではないかという化け物にとらわれてしまう。今は、あらゆる死の一類型だと認識しているけれど、あのときの僕には確かにそう思えた。昔観た「太陽を盗んだ男」で菅原文太がジュリーに「お前が殺していい人間はお前だけだ」と言った。くだらない映画だけどその台詞は僕の胸に刺さった。本当にそう思う。ただ、自分の命を絶つことは残していく人間の一部を殺すことだと知っておいて欲しい。それから死んでくれ。マジで。僕の家族にとって幸いだったのは、父が遺言を残さなかったことだ。もし残っていたら、形になっていたら、あの、化け物はまだ暴れまわっていたかもしれない。そんな人生はごめんだ。


 妻に話したほうがいいのだろうか、それとも秘密を守り続けたほうがいいのだろうか。父の「死」は克服しているけど、父の「自殺」は影のようにいつも僕の傍らにある。生きていくうえでひょっこりと影が覆う瞬間はこれからもあるだろう。そのとき。僕は秘密を守りつづけられるだろうか、黙っていられるだろうか。「愛があれば、秘密を共有できる」という人がいる。愛があれば、というのは無責任だと僕は思う。その仮定はいっぺん愛と土台になる人間関係を危険に晒すことに思えてならない。本当に守るべきものなら一瞬でも危険に晒すべきではない。なにより、僕が追い立てられたあの化け物を妻のなかに放ちたくない。「お父様のこと思い出しちゃうね」事故のニュースを見るたびに妻はそんなことを言う。僕を気づかい慰めの言葉をかけ話題を替える妻の優しさが今日も僕の身を少しだけ裂く。妻とはこの先いろいろなもの、楽しいことも辛いことも同じものを見ていきたい、生きたいと思っているけれど、それでも、この痛みだけは妻に知ってほしくない。これが正しいやり方かどうかはわからないけれど。


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