Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

さよなら母さん


「まあ隣町だし。いつでも飛んで来られるよ」つって軽い気持ちで飛び出した実家に顔を出さなくなって数ヶ月。実家に残してきた母が気にならないといえば嘘になる。けれども、電話で「私のことよりあなたがしっかり働いて稼ぐだけ稼ぎなさい」と叱りつけるように言う母の強さが僕を実家から遠ざけているのも事実だ。


母は強かった。本当に強かった。その強さは弱さと裏腹だと気づいたのは僕がいい大人になってからのことだ。父が他界したあと、専業主婦を辞め葬儀屋で夜遅くまで働いて僕と弟を大学まで行かせてくれた母には感謝の気持ちしかない。母は僕が学生の頃から事あるごとに独立した大人になるよう言った。人に負けてはならないとも言った。負けたら終わり。実際そうだった。あの頃の僕ら家族は弱さを見せた途端に崩れてしまうほど脆弱だった。言葉は神で、弱音は現実化してしまう。だから僕らは逞しく。明るく生きるしかなかった。それが虚勢やハリボテだったとしても。


母は強すぎた。加速しすぎてアクセルの緩め方を忘れてしまったのかもしれない。そして僕を子供扱いし続けた。この暑い夏も、軒先にとまったカブトムシやセミの脱け殻をスマホで撮っては僕に送ってきたりしていた。母にとって、僕はいつまでも子供なのだろう。負けたら終わり。そんなギリギリの、戦争のような生き方が、僕の子供扱いに繋がっているのなら…そんな母にかけるべき言葉を僕はまだ発見できていない。


久しぶりの実家の庭師さんに手を入れてもらったばかりの庭はどこかよそよそしく見えた。母は相変わらずだった。僕の近況をつまらなさそうに聞くと、自分の話を続けた。まるで強さを誇示しているようなその話ぶりは、ひどく僕を悲しくさせた。僕は人生をかけてでも母のスピードを緩めさせてあげなければいけない。話を終えると母は「用事があるから帰れ」と言った。「母さん何かあったらいつでも呼んでよ」


車に乗りエンジンをかけた。ふとバックミラーを見ると、母が手を振って見送ってくれていた。母がそんなことをしてくれるのは初めてだった。そうだ。母も寂しいのだ。僕は自分の人生を重んじるあまり、この人をひとりぼっちにしてしまった。その罪は重い。バックミラーに映るその手の、振っているうちに千切れてしまいそうな細さに、僕の胸は潰されてしまいそうになった。僕は、母を見守りながら生きていかなけばならない。母はバックミラーのようなものだ。前を見て進んでいても時おり気を払わなければならない。さよなら母さん。今日のところは。窓を開けると「あんたがいるせいで生活保護がもらえないんだ!」と母が叫んでいるのが聞こえた。