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Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

せめて、社畜らしく

    社畜にすらなれない。そんな絶望に打ちのめされながら今日を生きている。


   僕の絶望の外界では、最近、社畜という生き方に対して随分と否定的だ。だが「奴は会社に飼いならされているよ。ごらん、課長と書かれた首輪をされ惚けた顔をしてまるで家畜だ。僕は、皆を巻き込みたいからインターネッ党にならって主語を僕らと大きくさせてもらうけど、僕らはそういう生き方を選ばない。定時。年休。残業代。もらうものはもらわないと。権利なのだから。叶わないならこちらから会社を捨ててしまおう。僕らは家畜じゃない人間なのだから。ウィキャンフライ!」と社畜的なるものを否定するのは超一流大を余裕で卒業するような、各種能力及び精力のある人の言い分、つまり強者の論理ではないのか。


   社畜的な生き方を否定出来る人は、各能力のパラメータが高い、与えられた場所でなくてもどこでも咲ける、一旗あげられる偉人なのだ。アムロが操縦するガンダムなのである。だが、野暮である。実のところ量産型ザクな人だってわかっている。キツイ仕事、無慈悲なノルマ、やってられねえ、上司ぶっ殺す、サービス残業したくない、倍返しじゃ割りに合わねえ、やめてやる!と思いつつも、能力や勇気が足りないために踏ん切りがつかず耐えている、強く儚いCoccoの歌のような人たちなのである。会社員の多くは、仕方なく社畜的、なのだ。そこに「社畜ないわー」とCoccoな人たちを貶めるのは野暮であり、傷口に塩ソルトな行為なのだ。そんな弱いものイジメを僕は絶対許さない。


   ここで僕の立場を明確にさせていただきますと僕も社畜な生き方はクソだと思っている。けれども僕のいうクソは、強者が侮蔑の意味を込めて発するクソだけではなく、羨望混じりのクソだ。なぜなら不幸なことに僕には社畜に必要な能力と適性が決定的に欠けているから。旺盛な忍耐力。貧相な想像力。往々にして悲観的。もし、それらが僕にあったなら、社畜の道を歩んでいたかもしれない。会社に飼いならされて定年までいられるのがある意味では一番楽じゃないか。シャチクとシャチョーは響きが似てるしね。


   社畜になれない僕は、エサをくれる人に頭は下げても尻尾は振らない生き方を選んだ。

球界の野良犬 (宝島SUGOI文庫)

球界の野良犬 (宝島SUGOI文庫)

「エサをくれる人に頭は下げても尻尾は振らなかった」は元ロッテオリオンズ、愛甲猛選手の名著よりパクリんちょ。


その生き様のせいで、いつも、苦い思いばかりをしてきた。ことあるごとに上司と衝突し、会議で何を言っても、咳ばらいだけでも、出る杭の如く打たれた。


   けれども社畜ではないから、泣き寝入りはしない。やることをやって、貰うものは貰った。課長手当。一万八千円也。金額をきいたとき年額とは思わなかった。社内外で勝ち続けた社畜でない僕は、一社員ではなく管理する側の人間となり、結果、残業代が支払われなくなった。


 やがて社畜には出来ない、会社の都合をかえりみない発想を連発し、より大きな仕事を任されるようになった。困難の連続だったが、社畜ではないので会社のためではなく、自分のためにやった。やりきった。


   実績を積み重ねて、社畜には想像も出来ないだろうが、上に掛け合い、賃金を上げた。勤めてから10年のうちに、周りの社畜的な生き方をしている同僚を尻目に月額1万円上がった。いや、上げさせた。周りの社畜的同僚の賃金が5万〜10万上がっていたのを知ったのはごく最近のことだ。そのときはさすがに、せめて社畜らしく生きられればと思ったけれども、僕のプライドが方向転換を許さなかった。


  いつしか課長である僕が一人だけ属する営業二課と部長代理、副部長、次長、部長心得の社畜4匹が属する営業一課は同じノルマを与えられていた。4匹のうち部長代理以外は僕よりも後輩だ。


   負けられない。僕が僕であるために社畜に勝ち続けなければならないと、平成26年2月12日午後9時過ぎ、誰もいない会社でトンカツ弁当を食べながら決意を新たにしたところだ。トンカツになるさだめを知らずに生まれてくる豚ってなんて悲しい生き物なのだろう。


    午後10時まで頑張ったら、社長から命じられた会社の駐車場の雪かきをして帰ろう。会社のためではなく明日の自分のために。日付が変わったら僕は四十才。リバース(reverse/rebirth)するには遅すぎる。