Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ペヤングと私

ペヤングソース焼きそばが街から消えた。もし、このままペヤングと歩んできた時間までもが永遠に失われてしまうとしたら、とても悲しい。

ペヤングに目覚めたのは1989年の夏で、そのとき僕は神奈川の片田舎にある古い県立高校の一年生だった。周りにいた多くの友人がそうであったように僕もカップラーメンが大好きだったのだけれど、ペヤングのあの四角いルックスだけはどう対峙すればいいのか解を見つけられずにいた。

カップラーメンとどう向き合えばいいのか。それは極めて個人的な嗜好の問題で、誰かにこうすればいい、ああしたほうがいいと教えられる種類のものじゃない。ただ、乱暴な言い方をするならば、ペヤングを食べたことがある人とない人、ペヤングを知っている人と知らない人に世界は二分されていたのだ。当時まだ存在していたベルリンの壁によって世界が東西に分けられていたように。

今だからいえることだが、僕はあれこれ迷わずにベルリンの壁を乗り越えてペヤングを求めるべきだったのだ。それは間違いだらけの僕の人生で僕が知り得た数少ない真理の一つだ。間違いなく。

今、僕はあの暑かった1989年の夏の日を反芻している。あの日。授業をサボタージュした僕は誰もいない家にいた。カップラーメンはひとつも残っていなかった。お気に入りの日清カップヌードルの代わりに置いてあったのがペヤングソース焼きそば。仕方なくペヤングにお湯を入れた。ある程度麺が伸びているのが好みなので、しばらく待ってからお湯出し口からお湯を出し、冷蔵庫で冷やした。僕はお湯出し口の便利さに感動しながらビーチボーイズを聴いた。「素敵じゃないか」が蝉時雨と調和して心地よかったのを四半世紀経った今でもはっきりと覚えている。

冷蔵庫からヌルくなったペヤングを取り出した。厳かに服を脱ぎ捨てた僕はアイデンティティーといえばいいのか、自分自身といえばいいのか、それとも分身といえばいいのかわからないそれをペヤングに突き刺した。僕自身だか分身だかわからないものは、ペヤングの海の中で溺れる間際の怪物のようにひと暴れすると息絶えたように動かなくなった。日清カップヌードルが相手だと、カップの形から麺の面に対して垂直に突き刺さなければならなかった。それは人一倍BINKANな僕にはいささか刺激が強すぎるときもあった。

 ペヤングの場合、カップ容器の間口が広いので、麺の面に対して自分自身分身を、若干ハミ出してはしまうものの、ほぼ平行に当てることが出来た。優しさに包まれるような心地よさを得られた。お湯を楽に捨てられるのも好都合だった。疲れたあとに食べるペヤングはいつもたまらなく美味しかった。

その後の僕の思春期は、時折使用後のペヤングを家族が食べてしまうというトラブルに見舞われることはあったけれど、右手を骨折してしまった一時期を除いて、ペヤングと共にあったといっていい。僕にとってあの夏の日は愛の独立記念日となったのだ。

皮肉なことに、異物を優しく受け入れてくれたペヤングは異物が入ってしまったことで世の中から退場させられてしまった。残念でならないけれども来年もやってくるあの夏の日、7月4日の再会を僕は信じている。