Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

俺らのコミュニケーション、その終わりのはじまり

  Eメールはもう古いらしい。メアド教えてよといえば今はLINEだよと笑われる。ケータイ番号なんか言わずもがなだ。けれども僕は、まだLINEを信用出来ないでいる。ツイッターで知り合った欲求不満の女子大生20人からLINEのアカウントを教えられ、コンタクトしたら20人全員が業者だった厳しい現実に打ちのめされ、絶望したからだ。

 
 それでも世はLINE。LINEのおかげでいつでもどこでも他者とコンタクトが取れ、己のメッセージが他者に届いたことが即座に確認できるようになった。待ち望んだコミュニケーションツールのはずだ。だが、僕が感じるこの息苦しさは何だろう。それは、メッセージに反応がないときに感じる、取り残されたような孤独感や疎外感。繋がりすぎているから、些細なタイムラグを大袈裟に孤独や疎外と感じてしまうのだ。また、誰ともたやすく連絡が取れるようになったせいで他者との関係を軽んじてはいないか。「切った」「切られた」「既読スルーかよ」「無視すんな」そんな一言で関係を終わらせてはいないか。これも孤独の裏返しだ。繋がりすぎるあまり、孤独を過剰に恐れている。
 
 パソコンも、ケータイも、インターネットもなかった。たかだか二十数年前、そのとき僕は高校生で、今と変わらず女の子のことばかり考えていた。個人情報に厳しい時代ではなかったので、配布された学生名簿を調べれば気になる女の子の住所や連絡先は容易に手に入った。誰でもプチ・ストーカーになれた。それでも女の子とコンタクトを取るのは難しかった。ケータイやスマホを一人一人が持っている時代ではなかったからだ。決死の思いで女の子の家に電話をかけるとほぼ毎回、家族の人が防波堤のように僕の前に立ち塞がった。僕は今でも、用件を伝えてからの孤独と期待が混ぜこぜになったヤキモキした時間と、その後に聞こえてしまった受話器越しの女の子たちの声を忘れることが出来ない。「いないって言ってー」
 
 直接当人と話すのは相当に難しかった。そうした反省を踏まえて女の子の家に「ブルマ姿にトキメキました」「汗っかきですね」等々、女の子の素晴らしい点を箇条書きにしたファックスを送ったこともある。あの頃、ツイッターがあったら晒されて社会から抹殺されていただろう。インターネットが無くて本当によかった。
 
 大学を出て社会人になり営業職として働きだすと会社から広末涼子が宣伝していたポケベルを持たされた。1996、7年頃だろうか。上司からの脅迫めいたポケベル呼び出しにビビっては、公衆電話を探した。それでも直接繋がっていない余裕みたいなものが僕を救ってくれた。「すみません。コウシューが見つからなくって」。他者との距離感を保持出来た。一方、女の子のポケベルを鳴らしヤキモキしながら待っていても僕の家の電話が鳴ることは一度としてなかった。
 
 初めてケータイを持ったのは1997年の夏だったと記憶している。ドコモのムーバ。あの頃はドコモが春と秋に新モデルを出すたびにワクワクしたものだ。営業の僕は直接上司と繋がってしまい、追われるように仕事をした。慣れてくると電源を切って「電波が届かないところにいた」と言い訳をした。まだ余裕があった。距離を保てていた。一方、女の子のケータイに電話をかけても圏外にいるか電池切れで留守電にメッセージを残しては孤独と期待でヤキモキしたものだ。一度としてリダイアルされたことはなかったが。
 
 2000年前後、ドコモにiモードが搭載されてケータイでEメールが送れるようになった。上司からの連絡手段はお互いの精神衛生上通話からメールにシフトし「すみません。今、メール確認しました」という言い訳が横行した。一方、女の子にメールしても「ごめーん。今、メール見たー」という返事がヤキモキの炎の七日間の後にあるだけだった。くそ。腐ってやがる。繋がっていてもまだまだ距離が保てていた。そんなメール時代が10年ほど続いた。僕はその10年をキャバクラ嬢のケータイが水没していくのを数えながら過ごした気がする。
 
そしてLINE。既読地獄の到来だ。課長になった僕は部下が僕の業務連絡メッセージをスルーするたびに激怒してマイナス査定。それは極端な事例かもしれないが皆が既読に一喜一憂している。繋がりすぎている。駅。往来。飲食店。皆がスマホで既読をチェック。既読が気の毒。繋がりすぎていて、かつてはヤキモキやりすごした孤独な時間を許容出来なくなっている。片手同士を強制的に手錠で繋がれながら、もう片方の手はいつでも殴れるような体勢を取っているみたいだ。この息苦しさをかつてのヤキモキのように受け入れるしかない。LINEやLINE後にやってくるシステムと折り合いをつけて、自分と他者との距離感を保てるようにするしかないのだ。繋がりすぎた僕らは、繋がっていることよりも他者との距離を保ち、孤独でいる時間こそを大事にすべきだと僕は思う。それは繋がりを目指した時代の終わりなのかもしれない。
 
 欲求不満の女子大生たちに裏切られたダメージから回復していないけれども僕はLINEを使っている。家族、友人、同僚、愛人、業者(偽装女子大生)と四六時中繋がっている。便利だ。うまく他者との距離感が取れずに、既読に時に安堵し、時にムカつき、時にキズついたりする。妻のLINEアカウントだけは知らない。おかげで妻とはいい距離感が保たれている。快適だ。これでいいのだ…そう信じて妻がLINEしているのを眺めてはヤキモキしている。