Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

お年玉ハラスメントが酷い。

お正月。なにがめでたい。そんな気持ちでいる。お正月といえばお年玉。子供のころ、楽しみだったお年玉という風習にこれほど苦しめられる日が来るとは夢にも思わなかった。年に一度の巨大マネーロストは今や地獄のようである。これまで「子供たちが楽しみにしているから」と言われ、不本意ながら泣く泣く渡していたというのに、平成29年末に子供が3人いる弟から「長男にはいくら、次男にはいくら…」という内容の連絡を受けたときは驚きを通り過ぎて言葉を失ってしまった。本来《善意で》《任意に》渡すはずのお年玉という風習が、僕の知らないところで《強制》かつ《金額指定》の税制度にパワーアップしていたとは。来年あたりは「日本銀行券は時代遅れなので仮想通貨でよろしく」と言われそうだ。そのとき、こども銀行券は仮想通貨になるのだろうか。僕にはわからない。出来ればこども銀行券も渡したくないが。僕の30代をひとことであらわせば《お年玉という名目で一方的に搾取されることに異を唱えてきた》10年間であった。それでも渋々とポチ袋を渡してきたのは親戚各位から「アンタも子供が出来たら貰うのだから」と言いくるめられてきたからである。残念ながら僕が子供を持つ未来はやってこなかったので、そのお年玉ウィンウィンな前提はすでに崩壊している。過去に戻って渡したお年玉を全回収したいくらいだ。なぜ、年に一度会うか会わないかの愛嬌のない子供たちに見返りもなく貴重なマネーを渡さなければならないのか、僕には店舗型風俗店で散財した方が自分のために思えてならない。それに子供の有無についていえば、「あなたも子供を授かったら同じように貰うのだから」と言っていた親戚共がいつの間にか「あなたには子供がいないのだからお年玉くらい余裕で出せるだろう」という、詭弁、としかいいようのないことを言ってくるので、同じような血が流れているのに、なぜこんなに頭が悪いのだろうと絶望していまいそうになる。そして、ああ、ここでも結婚しているのに子供がいないというのは、その状態だけで、なんか悪いことをしているように思われているのかと悲しくなる。秘密裡に店舗型風俗店へ通うときのような後ろめたさを覚える。そして、これは立派なハラスメントだと僕は思う。「大人になるまであげなさい」という母や妻に対して、天邪鬼な僕が、死ぬまで成長するのが人間だとしたら死ぬまであげなければならないのか、精通イコール大人と定義するならば小学六年生まででいいのか、成人までか、社会に出るまでか、学生のうちだけなのか、卒業しても社会に出ないニートの扱いはどうなるのか、などと《大人》の定義に対して疑問をぶつけると「めんどくさっ!」と唾を吐かれた。お年玉をポチ袋に入れて渡さなければ、オトシマエでポチ袋に詰めて相模湾に浮かぶけどよござんすか、という尋常ならざる殺気が御母堂と奥方から放出されているのを感じたので渡さざるをえないが、せめて大人という曖昧な基準ではなく数値でとらえて納得したうえにポチ袋を渡したい。そこで僕は独自に身長(センチ)と体重(キログラム)を足した数字をお年玉から名を取ってタマタマという基準にすることを提案した。たとえば身長180センチで体重70キロであれば250を250タマタマになるのだが、このタマタマの値が僕のタマタマの値を越えるまでポチ袋を渡すのである。ちなみに現在の僕は240タマタマである。このタマタマ制度が来年度から正式に了承されれば、弟の息子、長男は推定身長180センチ60キロの240タマタマ、次男は推定178センチ60キロの238タマタマなので、ライザップで結果にコミットしたり、摂食障害にならなければ本年平成30年度が彼らにとって最後のお年玉になるはず。来年からは三男だけに渡せばよいのだ。なんてフェアなのだろうか。このフェアさゆえに、反論の余地もなかったのだろうね、親戚一同は静まり返ってしまった。ケチとか、バカとか、オジサンの葬式には絶対に出席しない、という負け惜しみが聞こえたが全然気にならなかった。というのもマメに連絡を取っていたはずの弟のところに昨年11月に子供が一人産まれ、僕だけ知らされていなかったからである。おそらくタマタマ連絡が抜けてしまったからだと思うが、近しい親族間で行われた弟の結婚式にも招待されなかったので、タマタマではないような気がしてならない。お正月。何がめでたいのか僕にはわからない。(所要時間27分)