Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「家事をやらないオット」と「ママ閉店」について家事を妻と折半している僕が考えていることは果てしなくゲスい。

家事は妻とほぼ折半している。「ほぼ」とあるのは妻の下着の洗濯が妻に独占されているからである。「肌への密着で汚染された布を殿方に触れさせるわけにはいかない」だそうだ。愛情なのだろうか。はたして僕がブラジャー洗濯童貞を捨てる日は来るのだろうか。最近、家事を積極的にやるようになったのは、家事の楽しさに目覚めたから、家事の大変さがわかったから、男女平等の観点から、という素晴らしい動機から、ではなく、一年前の無職時代の後ろめたさと、《家事をちゃんとやるマン》の方が《やらないマン》より確実に女性にウケてモテるという極めて純粋で現実的な動機からである。大事なのは行動。誤解を恐れずにいえば、動機や理由などはどうでもいいのだ。

僕が子供の頃、実家はいつもピカピカだった。専業主婦だった母が完璧に家事をこなしていたからだ。板張りの廊下は埃ひとつなく綺麗に磨き上げられていた。だが、ある日を境に廊下から輝きが失われてしまった。まるで成長とともに僕の股間の可愛いゾウさんがグロく黒ずんでしまったのと足並みをあわせるように。父が亡くなり家計を支えるために母がフルタイムで働きはじめたのだ。仕事と家事を完璧にこなす人ももちろんいる。だが、母はそういうタイプではなかった。慣れない仕事と格闘した結果、家事がおろそかになってしまった。プライドの高い母は、仕事での苦戦を口に出すような真似はしなかったけれど、ときおり見せる疲れ果てた表情から、彼女の苦闘は伝わってきた。だが若い頃の僕は、母の代わりに家事を引き受け、汚れてしまった廊下を元に戻そうとはしなかった。それどころか、口に出すことはなかったけれど、なぜこんなに家が汚くなってしまったのか、という不満を態度に出したことすらあった。どうしてそんな態度を取ったのか今となっては理由はよくわからない。ただ、なんとなくとしかいえない。なんとなく、汚い家がイヤだった。なんとなく、なぜ僕がそんなことをやらなければならないのかと憤っていた。ただなんとなく、それが自分の役割ではないと信じきっていた。トンがっていたからでは許されまい。

母は約20年、定年まで働き退職した。今、家はもっとも生活が不安定であった時期に比べればだいぶマシになったが、それでも父の生前と比べてしまうと、経過した年月をあって、古くなり汚れが目立つようになった。母も年を取った。健康ではあるけれど、かつてのように家の隅々まで掃除をするような体力の余裕はない。もちろん休みの日に実家に帰れば、掃除や整理をしてあげるけれども、所詮は素人オッサンの仕事なので、かつての廊下の輝きを取り戻せはしない。今、僕は家事代行サービスに掃除を頼んでいる。かつて自分がやりたくないと思っていたことでも、今ならできる。カネをかけて他人の手を借りれば。当たり前だが、親のため、親孝行のためにこんなことをやっているわけではない。全部、自分のためだ。過去の酷い行いを帳消しにするためである。問題は行動なのであって動機などは本当にどうでもいいのだ。

「家事をオットがやってくれない」「家事の分担が不公平!」みたいな話題には事欠かない世の中である。オットがやるのか。ヨメがやるのか。はっきりいって他人の家などどうでもいいのにほぼ毎日のようにネットであれこれ議論になるのが不思議でならない。もちろん平等に分けるのがフェアでベストなのは誰の目にも明らかだ。そのなかであえてゲスな言い方をするなら、家事をやらない男性はそのままやらないままでいてもらいたい。彼らが批判のターゲットとなることによって、「家事は基本的に妻と折半ですよー」「ごはん美味しくできたよー」とSNSでアッピールしている僕という人間の価値、つまり女性からのモテ度数は相対的にあがるからである。決して綺麗な動機ではない。だが大事なのは行動と結果なのである。この文章を書いているときに「ママ閉店」というキーワードが炎上していた(詳細は各自確認してくれ)。僕には子供はいないけれど、もし妻が「ママ閉店したいの…」といってきたら喜んでパパ開店する。その動機については言うまでもないだろう。

今朝、弁当当番なので早起きしてパリパリに焼いた鮭をオニギリに入れてみた。妻にもオカズと持たせた。昼食べたら1個100円もかかってないけどやたら旨かった。やってないことをやらないと、こういう小さくて新たな発見ってないんだよね。(所要時間19分)