Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

我が家のトイレに神様はいませんでした。

帰り道、遮断機越しにウンコの話をすれば誰とでも友達になれる気がした。学校や新幹線のトイレで躊躇なく排便できるようになるたびに、ワンランク上の人間になれた気がした。だから「私はウンチしないよ!」と80年代女性アイドルのごとき発言を繰り返す妻が、どのように人間関係を築き、何をもって人間として向上しているのか、僕には見当もつかない。結婚8年目、いまだに僕は、妻が排便した確固たる証拠、「便器の汚れ」や「鼻を突くきっつーな異臭」を確認できていない。一度として。仮に8年ものあいだ溜めこんでいるのなら見た目はほぼ「ウンコマン」になるはずだが、外見的に排便的な要素は一ミリも見受けられない。排便の証拠ナシ、「ウンコマン」、ポリティカル・コレクトネスに配慮した呼び名にすると「ウンコパーソン」への変身も確認できない。これらの状況証拠からみて、妻は自宅ではないどこか約束の場所でなさっている、としか考えられない。納得できないこともある。普通に便座に腰を下ろし、用を足しただけで「トイレを汚すな」と妻から注意されるのがどうしても納得できない。我が家は夫婦で家事を折半しており、トイレ掃除も例外ではない。「テメエで綺麗にした便器を汚して何が悪い!また綺麗にすればいいではないか。アスファルトに咲く花のようにたくましく、トイレは何度でも蘇るさ」とキレていまったら戦争が起こるので、頭のいい僕はしない。便秘気味のとき、気合を入れるために「ハイ!ハイッ!ハイッ!ウ~~~ウンティッド!」とピンクレディの名曲になぞらえて声を張り上げて用を足すときはあり、それをウザがられるのなら納得できる。だがシンプルに「トイレを汚すな」といわれて出来ることってあるか?なるべくトイレを使わないようにすることくらいしか僕は思いつかない。だが、我慢して溜めこみウンコパーソンというヴィランとなり果てタイツ姿のスーパーヒーローに追われる人生は嫌だ。僕は下痢のような柔軟な発想でひとつのトイレにこだわらない生き方を見つけた。自宅でなくていいじゃないか、と。その発想から僕は、ここ数日、大については駅に隣接した商業施設のトイレで済ませるようにしている。都会の死角で家人に気兼ねなく「ハイ!ハイッ!ハイッ!ウ~~~ウンティッド!」と絶叫からのウォシュレット、マジ最高!申し訳ないので、トイレを使わせていただいた折には必ず買い物をするようにしている。シュークリーム。ところてん。焼き鳥。鶏が先か、ウンコが先かの議論はさておき、僕がおんもで排便するだけで地域経済は回り、自宅のトイレは綺麗で、妻は上機嫌。こんなに嬉しいことはない。ウィン=ウンの関係性が出来上がりつつある。今朝、神様のいないトイレで便器をごしごし擦っていて、いささか悲しい気持ちになったけれども、何か大きなこと、文字通り大なのだが、それを成し遂げて喜びを得るためには相応の犠牲を払わなければならない。人生とはそういったつまらないものの積み重ねで、その積み重ねてきた厚みこそが神になるのだ。そして妻がどこでなさっているのかは、紙のみぞ知る。(所要時間15分)