Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

想像できないほどの長いお別れに胸が詰まった。

パソコンを開いて仕事マシーンになっていた僕の隣席に客がやってきた。画面から目を離す。大人3人。80代の夫婦と思われる男女(男性は杖をついている)と僕より年上、見たところ50代後半の息子と思われる男性。黄色いジャンパーがカッコいいぜ。平日の夕方。大きな駐車場のある郊外のコメダ珈琲。「自営業の息子が足の不自由な両親を車に乗せて連れてきたのだろう」と勝手に、今の日本ではめずらしくない情景を推測して、僕は仕事マシーンに戻った。 

つまらないエクセルファイルの彼方から聞こえてくる彼らの会話に違和感を覚えるのにそれほど時間は要らなかった。会話が子供を相手にしているような内容なのだ。うるせー。仕事してんだよ。つか子供いたか?違和感の正体を突き止めようとアクビをする真似をしてチラ見する。子供はいない。お父さんが痴呆で子供に戻りつつあるのかな、いい息子さんで良かったね、と結論付けるがどうもおかしい。どう聞いても若い両親が子供に話しかけているような調子なのだ。「今日どうだった?」「そう!良かったねえ」と話しかけるお母さんに「うん」「そう」と大きな声で応じる息子。彼は障がいを持っている、大きな子供だった。 

年老いた両親に障がいのある初老の息子。お金持ちには見えない。大変だなぁと彼らの今後の幸運を祈りながら画面に意識を戻す。だが、気になってしまう。彼らの会話に暗い影はなく、むしろ生き生きとして楽しそうだったからだ。息子が「今日はどこどこで誰々と何々をしてきたよ」と話すと嬉しそうに「そう!」「今日は良かったね。そう!」と答えながら、楽しそうに優しい質問を返すお母さん。珈琲を飲みながらうなずくお父さん。お母さんも「今日はどこどこでお父さんと何々をしていたよ」と息子に話しかけていた。「シロノワール美味しいね。珈琲おかわりしていい?」とズレた返事する息子。「お腹壊すぞ」と笑うお父さん。 

僕は一瞬でも、うっせー、と思った自分の小ささが恥ずかしくなった。この人たちは、こうやって何十年も生きてきたのだ。今日は何をしたよ。今日は良かったね。今日は。今日は。今日は。そうやって小さな今日をひとつひとつ積み重ねながら。良くなかった今日も、うまく行かなかった今日も、たくさんあったはずだ。それでも良かった今日を確認しながら何十年も歩いてきたのだ。こうやって3人で。 

話のトーンが変わったのはお母さんが週末の予定について切り出したときだ。高齢のご両親は同じ年代の仲間たちと日帰り旅行をするのが趣味で長年グループの幹事をつとめてきたらしい。彼女は言った。「お母さんね。今度の旅行で最後にしようと思うの。だからお別れのつもりなの」。そこのスーパーまで買い物に行ってくると言っているような、特別なことは何もないよと言うような穏やかな口調だった。「お父さんとみんなにお別れしてくるからね。分かるよね」

この二人は息子にお別れを教えているのだと気付いた。いつか、そう遠くない将来、先にいなくなってしまうであろう自分たちとのお別れをちゃんと息子が出来るように。僕が想像できないような長い時間をかけて彼らは大きな子供にお別れを教えてきたのではないか。ひとつひとつささやかな良かった今日を数えながら、長い長いお別れを教えている親の気持ちを想像して僕は胸がいっぱいになってしまって、スマホをいじったり珈琲を飲んだりしてる息子にムカついてしまう。「お前何か言えよ」と。勝手だ。僕もこんなときに言うべき言葉を見つけられないのだから。 

「お母さん!」大きな息子が声を出した。彼は「お父さん、お母さん!おめでとう!よくできました!」と続けた。向かいに座るお母さんが手を伸ばして息子の手に触れるのを僕は見た。老いた二人の目もとに涙がたまっているように見えたが確証は持てない。涙が邪魔をしてぼやけて何も見えなかったからだ。彼らが去っていった後も仕事にならなかった。勘弁してくれよ、今日を大事にしたいと決めたばかりなのに。(所要時間22分)

本を出しました。生きることをテーマにしたエッセイ集です。ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。