Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

夏が、ブルマ―に、魔法を。

おそらく僕は、思春期のすべてをブルマーと過ごすことが出来た最後の世代だ。小学校から高校にかけて、ブルマーは青春に寄り添うように、傍らに在り続けた。ブルマーはいつも近くにあったが、同時に絶対に触れることの出来ない幻想の果実だった。アンタッチャブルゆえに僕はブルマーに永遠を見た。誰も触れなければ、朽ちない。そう、信じていた。だから大人になった後、「学校でブルマーは使われなくなっている」と知らされたとき、僕は永遠の命を持った魔女を喪ったような寂しさを覚えたものだ。ブルマーが滅びても、ブルマーの魔法は永遠だとそのときは思っていた。

1991年。高校最後の夏。僕は腐りきっていた。成績は学年の底に沈んでいて、進学は絶望的。担任教師からは「現役合格は諦めるんだな」と失格の烙印を押されて、受験勉強をする気分はすっかりなくなっていた。アルバイトは禁止されていたので、部活も引退するとやることがなかった。僕は知らなかったのだ。進学校で落ちぶれてしまうと居場所がなくなるという現実を。だからロックンロール、ゲーム、漫画、麻雀、エロ本に埋もれて腐るしかなかった。先行きは真っ暗だったけど、楽しい季節でもあった。レッチリやプライマルスクリームやメタリカはワクワクするような名盤をリリースしていたし、発売間近のファイナルファンタジー4の事前情報や公開間近のターミネーター2の予告編はヤバかった。今でも、1991年の夏を彩っていたすべてのものが、クールな熱をもって軽やかなステップを踏んでいるように僕には見える。

瓶のポカリを飲みながらグラウンドを眺めれば、たくさんのブルマーたちがネモフィラの花のように青く輝きながら揺れていた。それだけで満足だった。夏の始まりに、体育館で悲しいものを見た。女子の体育の授業。日体大出身の体育教師、通称ニッタイが女子生徒たちを体育館の床でうつぶせにさせて、平泳ぎの練習をさせていたのだ。ニッタイのワンツースリーの掛け声にあわせてカエルのように足を動かす女子生徒。僕はあれほど悲しいブルマーの姿を見たことがない。台風のあと無惨に散ってしまった花の姿を重ねずにはいられなかった。友人たちは煩悩丸出しの猿だったのでガン見していたが、僕は目をそむけた。ブルマーは聖なる幻想の果実。盗み見てはならぬ。

秋におこなわれる体育祭でクラス対抗の仮装ダンスをやるのが学校の伝統だった。8月に入るとクラスが熱病にかかったようにダンス、ダンス、ダンス。秋になると受験一色になってしまう。その前に思い出作りしよっ!というイベントであった。希望通りに立ち木の役をゲットした僕は必要最小限の練習だけ参加して、立ち木の極意をマスターすると塾に行くから、腹が痛いから、などと思いつく限りの言い訳を並べて練習を回避した。主役級を独占していいるクラスの人気者たちがワイワイ盛り上がっているのを立ち木の立場から眺めるのを楽しめるほど僕は出来た人間ではなかったのだ。それに大した役についていないメンバーはすすんで大道具や小道具を作るという暗黙の了解が納得できなかった。なぜ、いけすかない奴が使うサーベルを僕が作らなければならないのか、今でもわからない。

屋上に持ち込んだラジカセでロックを聞きながら運動部のブルマーを眺める方がずっと楽しかった。たぶんあの頃の僕はブルマーの魔法にかかっていた。9月。体育の授業が終わったあとに「何もしないなら小道具を作ってよ」とクラスメイトの女子が頼みに来た。あー。そー。やる気のない返事をした。立ち去らないので、ふと彼女を見ると、上は白い体操服、下はブルマーという格好であった。最初は、体操服を盛り上げている胸の膨らみに気を取られていたものの、近距離にあるブルマ―の魅力に抵抗できずに、そちらに意識と視野を持っていかれてしまう。そして僕は一生忘れらないであろう光景を目の当たりにする。

彼女は恥ずかしかったのだろう。体操服をブルマーを隠すように下まで引っ張っていたが、胸が災いして、完全に隠しきれずにいた。伸ばした白い体操服と太ももの間にブルマーの逆三角形が出現していた。僕は天から降りてきたブルーマ・トライアングルという言葉を思わず口にしてしまいそうになる。ブルーマ…。時間と空間を支配する完璧な魔法があった。そのとき僕とブルーマトライアングルの距離は数十センチ。カリブ海の魔のトライアングルに吸い込まれていった飛行機のように魅惑の三角形に魅せられた僕は、気がつくと率先して小道具を作っていた。「おい。もっと質感を高めろよ」「最後の夏だぞ」彼女の顔や名前は忘れてしまったが今でも目を閉じれば心のスクリーンにはっきりと映し出せる。白い体操服と太ももとブルマーの作り出す鮮烈に青い逆三角形、ブルーマ・トライアングルを。

ブルマーが滅びても、あの三角形の魔法だけは永遠だと僕は信じていた。魅惑のトライアングルが僕から未知の力を引き出してくれると。昨年のクリスマス、行き付けのスナックで同年代のママがブルマーを履いて出てきたとき、僕は思わず目をそむけてしまった。その瞬間、僕を狂わせ魅了しつづけた、あの夏のブルマーの魔法がすでに解けてしまっていることを、僕は思い知らされたのだ。(所要時間28分)

Hagex氏が亡くなって1年になる。

Hagex君(id:hagex)が凶刃に倒れてまもなく1年。「フミコさんもネットから出ましょうよ」という彼の言葉は、確実に腰の重い僕を変えてくれた。感謝している。僕が彼と実際にお会いしたのは亡くなる3ヶ月前で、そこから彼が亡くなるまで毎月会う関係だった。おそらく僕は、彼の最後のネット友達だろう。はてなブログを主戦場にする40代男性同士、意気投合して、イベントの構想やブログ運営について話をした。中年の男が毎月会ってアホな話をするのは、中学生にたとえると毎日遊んでいるような感覚だ。ビールをガブガブ飲んで盛り上がって株式会社はてなに赴いて改善プレゼンをしたのもいい思い出だ。他にもいろいろ構想はあったけれど彼の死で全部行き場を失ってしまった。本当に残念だ。

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ご遺族から、彼の最期の様子を聞かされたとき、自分なりに事件を追ったり振り返るたびに、怒りや悲しみを覚えたが、行き着く先はいつも彼の無念だった。僕は人生最期の3ヶ月の彼しか知らない。だからどうしても、彼がやりたかったこと、歩むはずだった未来について思いを馳せてしまう。僕にとって彼と彼の死はあまりにも近すぎた。彼のお別れ会で、在りし日の彼の微笑ましいエピソードを聞いても、若い頃のまだ頭髪がフサフサしている彼の姿を見ても、どこか別の人物のことのようにしか思えなかった。

初めて会ったときに彼が「僕、めちゃ社蓄っすよ!」と言ったのが強く印象に残っている。その頃の彼は会社を辞めて次のステップに移ろうとしていたはずなので、緊張気味の僕を気づかってくれたのだろう。彼はどうして僕に会いたがったのだろう?ネット上の立ち位置やキャラが違うので今でも不思議だ。「今年はいろいろな人に会って話をしたいと考えておりまして」などと説明になっていない説明をしてくれたけれど、永遠の謎になってしまった。
事件のあとネットを眺めていて「彼は慎重さを欠いていた」という意見を見かけた。それだけはないと断言できる。彼ほど慎重な男はいない。それでも強い殺意を持った相手には無力であっただけだ。慎重さは暴力に対して完璧な盾にはならないのだ。 もう時効だと思うから明かしてしまうけど、彼ほどネットを介してリアルで人と会う際に注意と敬意を払っている人間を僕は知らない。


彼のブログにネットウォッチ記事の他に「今日の一曲」という記事がある。

本日の1曲 - Hagex-day info

「今日の一曲」は彼の証明手段だった。彼は実際に会う前、メールを送信している男がブロガーhagexであると証明するために、「何月何日に何という曲をブログにアップする」と事前に教えていたのだ。このように彼は会う人に対する配慮と注意深さのある人物だった。もちろんそれは彼自身を守るものでもあったはずだ。だから僕は彼のブログに「今日の一曲」がアップされるたびに、彼の新たなスタートが快調に行っているのだと思っていた。そしてあの日までは、「今日の一曲」がこれからもアップされていくものだと信じていた。
彼が亡くなって一年になろうとしているが、まだ僕は受け入れることが出来ないでいる。なぜ、会ったこともない、ネット上で直接やり取りをしたこともない相手に強い殺意を持てるのか、理解できないのだ。想像力を駆使すればフィクションをこしらえることは出来るけど、それが真実かどうか判定できないなら意味がない。いや。そもそも僕からすれば加害者はただの人殺しで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。僕は加害者に物語性を与えたくない。僕に出来ることは彼の死をきっかけに会うことが出来た人たちと彼が愛したインターネットの未来について考え、安全で楽しい場所にしていくこと。それが彼への弔いになると僕は信じている。それしか出来ないのが歯がゆいけれどね。

【告知】

Hagex君の一周忌にあわせて阿佐ヶ谷ロフトで追悼イベントがおこなわれます。こちらで彼のこと、彼が考えていたことを知ってもらえたら嬉しい。

www.loft-prj.co.jp

「私を病人扱いすると問題になりますよ?」と部下に言われた。

仕事中に居眠りしてしまう新人君を預かって一か月になる。居眠りというかガチ寝。彼は隣の部署(管理部門)の人間なのだが、ボスの「環境を変えれば、改善するかもしれない」という思いつきの一言により我が営業部に研修という名目で期間限定で在籍している。期限の7月末までが長い。長すぎる。居眠り新人君こと眠狂四郎には、営業事務と企画立案をやってもらっているのだけれど、かなり仕事が出来る人間であることがわかった。書類作成も迅速で無駄がなく、企画案も予算と目的をとらえたきっちりしたものを拵えてくる。「もしかしたらこれはとんでもない逸材かも…」と認識を改めている。

車で外出する際は、眠狂四郎にハンドルを任せると必殺居眠り運転を繰り出してかなり危険なので、僕が運転をするようになった。眠狂四郎は出かける際、ホワイトボードに行先を書き、それから車のキーを僕のもとに持ってきてくれるのだが、何も言わずに僕のデスクにベン!と置くのが「さあ、運転しろよ。おっさん」と言われているようで少々むかつく。「運転オナシャース」くらいの愛想があってもよいのではないか。そういう小さなことをいちいち注意すると器の小さな男と思われるので、しない。そのかわり、査定にはきっちり反映させる。それが僕の流儀だ。
眠狂四郎が居眠りすることはなくなった。僕の指導が良かったのだろう。トイレの個室を占拠することはなくなったし、仕事中、突然、活動限界に達したエヴァンゲリオンのように首をガクンと落として眠るようなこともなくなった。大きな進歩である。ぼうっとしているときもあることはあるが、眠気と戦っているのだと、あえて注意せずに見守っている。眠狂四郎は、ぼうっとしはじめると、意を決したような表情を浮かべて、デスクワークを中断すると、目を「カッ!」っと大きく見開いて、数分間虚空を見つめているときがある。眠狂四郎と眠気との戦争だと僕は思った。彼なりのやり方で眠気に耐え、戦っているのだ、と。

その認識は間違っておりました。ある日、僕は彼に声をかけた。「最近は眠くならないのかい。頑張っているじゃないか」激励のつもりだった。「なんとか頑張っています」という答えを期待していた。眠狂四郎は真の逸材であった。彼は「ありがとうございます。短時間なら目を開けたまま眠れるようになりました」と言ってのけたのである。ちがーう。そのとき僕に出来ることは動揺を隠すように「そっか」と素っ気ない態度を取り、人間の可能性に感動することだけであった。眠狂四郎はレベルを上げて、目を開けたまま眠れるようになっていた(開眼睡眠)。以来、眠狂四郎が目をあけたまま静止している姿、あるいは、目を開いたまま適当に手を動かしている姿を目撃するたびに、起きているのか、寝ているのか、見た目で判断することの難しさに苦悩している。

僕は管理職だ。目の前で部下が寝ているのを黙って見過ごすわけにはいかない。先日、座ったまま動きの止まった眠狂四郎に気付かれないよう、彼の席の後ろに立つと、すーすーという寝息が聞こえた。横から覗くと鼻の穴に密生した鼻毛が風に揺れていた。「よし、こいつは寝ている」確信した僕は「今、寝てたよね。仕事しよっか」と声をかけた。すると彼は「気が付かなくてすみません。今、仕事に集中してゾーンに入ってました…」といって眠っていたのを認めようとしなかった。このような神経戦を毎日、眠狂四郎と繰り広げている。周りから睡眠障害の疑いが指摘されたこともあり、病院で診察を受けるよう執拗に言い続けてきた。僕は彼のためを思ってそう言ってきたつもりである。眠狂四郎も僕からしつこく言われてストレスだったのだろう。ついに、昨日「仕事はきっちりやっているので、病人扱いしないでください。大丈夫ですか?そういうの今、問題になりますよ?」と円月殺法で返り討ちにされたでござるよ。くやしー。(所要時間20分)

あの夏、ダメになりかけていた僕は迷うことを決めた。

15年前、30才の夏、大卒で入った会社をただ何となく辞めた。辞める理由はなかった。会社員にとって、会社を辞めるというのは、そこそこ大きな決断だ。背中を押してくれるものが必要になる。それが成長のための新しい環境であったり、今勤めている会社では実現できない目標であったりするのだけれど、そういうものは一切なかった。勤めていた会社に大きな不満や問題はなかったのだ。だから、些細な問題をひとつひとつ取り上げて、会社を辞める理由を無理矢理こしらえなければならなかった。同僚たちに「え?そんなことで辞めるの?」という顔をされたので「個人的な問題ですから」といって誤魔化した。「それは逃げだ」と言われ、そんなことはない、と反論したけれど自分が敵前逃亡しているのは僕自身がいちばん分かっていた。

15年経った今でも、その会社に対して悪いイメージはない。当時の同僚とも数年に一度の頻度で酒を飲んでいる。あの夏、辞めなければ、今でもそこで働いている気がする。ただ、当時の僕からは、あの場所で、空いた穴ひとつひとつを丁寧に埋めていくような仕事をする根気が失われていたのも事実だ。理由はなかったけれども、疲れていたのだ。心も体も。

 会社を辞めたときには何もなかった。僕の手に残されたのは、数年間の会社員生活を送れば誰でも身に付く程度の社会常識くらいのもの。具体的な目標とか叶えたい夢があれば、何もないのを武器にして足を踏み出せるが、何もなかったので最初の一歩をどちら側へ踏み出せばいいのかさえわからなかった。踏み出す方向がわからない状態ははじめてだった。学校を卒業すれば次の学校があった。学校を終えれば就職があった。選択を迫られたときに、道がいくつかあり、消去法であれ何であれ、どれかを選べば迷うことはなかったのだ。何もなく辞めた僕にはその道がまったく見えなかった。会社を辞めたときの唯一の武器だった「なんとかなる」という根拠のない自信が、根拠の無さばかり増幅して不安へ姿を変えるのに、それほど時間は必要なかった。

近所の公園のベンチで煙草を吸いながら昼寝をした。パチスロで並ばない7にイライラして川に向かって石を投げた。太宰の「人間失格」を古本屋で買ってきて読んだ。誰かが見ているわけではないのに、誰かの目を意識して、将来に迷っているふりをした。このままではダメになる。自分の身の振り方をしっかり決めないといけない。わかっていたけれど、何も出来なかった。僕には何もなかったからだ。夢や希望。不満でさえも。そういったものがあればトライできたかもしれない。何もないは何も生み出さない。だから僕は迷っているふりをして、一歩を踏み出すまで、決断の期限を引き延ばそうとしていたのだ。

ハローワークからも、逃げ出してしまった。職員の人からは希望や職歴について質問をされて、正直に「希望はありません」と答えると、おいおい、という顔をされるのがムカついたし(当たり前だ)、職歴を答えたら前と同じような仕事へ導かれてしまうような気がしたからだ。そのとき僕は気づいた。自分の人生を決めてしまうことから僕は逃げたかったのだと。

30才。若い頃僕を追い立て、駆り立て、悩ませていた何かは既になくなっていた。それで僕は、迷うことが許されない年齢に足を踏み入れたと勝手に思い込んでいた。そんなことはなかった。勝手に自分で自分の人生を、そういうもの、と決めてしまっていた。生き方を決められないのではなく、決めてしまっていたのだ。何も決まっていないなら、それでいいじゃないか、そういうふうに考えて、前の会社とはまったく異なる食品業界に飛び込んだ。食品業界を希望して選んだのではなく、違う場所に行けば違う自分になれるかもしれないという希望を僕は選んだのだ。

スパっと決められる羨ましい素質を持っている人もいれば、なかなか決められない人もいる。そして迷いはネガティブにとらわれがちである。けれど、見方を変えれば、人生なんて迷いと決断の連続じゃないか。そして迷いのターンの方が決断のそれよりもずっと長いはずだ。だから迷ってもいい。全然いい。迷うことは生きることなのだから。僕は迷うことを決めたのだ。

あれから15年、あいかわらず迷いまくりだけれど、食品業界の端っこにまだ僕はいる。僕はこれからもおおいに迷い続けるだろう。あの夏、そう決めたんだよ。(所要時間26分)

「無敵の人」とどう付き合えばいいのか。

川崎市登戸で起こった痛ましい事件は、テロだと僕は考えている。被疑者のプロフィールには興味はない。ただの人殺しであり、それ以上でもそれ以下でもない。僕らに出来ることは犠牲になられた方とご遺族に哀悼の祈りを捧げること、そしてテロ対策のように予防策と起こってしまったときの安全確保について考えていくことである。いちばんよろしくないのは、こんな凶行は防ぎようがない、と諦めてしまうこと。途方に暮れて諦めたくなるけれども、諦めたら何も変えられない。ゲームセットだ。事件直後から被疑者を「無敵の人」と評したり、「自殺するなら一人で死ね」という意見をインターネットで多く見かけた。僕は父を自死でなくしている。相当のショックを受けた。だから「自殺するなら一人で死ね」という感情は理解出来るけれども、自死は良くないと考えてきたこれまでの自分との間で少々抵抗を感じてしまう。また「一人で死ね」は、被疑者と同じような状態にある「無敵の人」を刺激する可能性があるから控えた方がいい、という文章もいくつか読んだ。今回の事件のように、社会から断絶した状態の人間を作らない、そして断絶した人間の復帰が容易に出来る、社会に変えていくことがこのような事件を起こさないためには必要なのではないか、という意見である。つまり「無敵の人」=失うものがない人を生み出さないようにしていくことが大事という考え方である。素晴らしい考え方だと思う。でも少々性善説に寄りすぎではないか。はたして、環境さえ整えれば、人は道を外さないようになるのだろうか。

今回の事件の被疑者の情報が入ってきたとき、僕は自分の友人を連想せずにはいられなかった(もちろん彼は凶行に走ったりはしない)。その友人は新卒で入った会社で心身を壊して20年以上も部屋に閉じこもってしまった。久々に彼に再会したとき、今でも昔の人間関係への強いこだわりと、20年社会を生きぬいてきた僕やその他の人間への劣等感の強さに驚いてしまった。実際、経験や技術的なものではなく、そういったものが復帰への最大の障害になっている。要するに、社会から断絶してしまった人間の中には、復帰への環境を整えて、部屋から出しても、適応するのが難しくて、より深い底に落ちてしまうような人もいるのだ。当初、僕も友人に復帰してもらいたいと思っていた。でも今はそうは考えていない。別に部屋にとじこもっていてもいいじゃないか。そんなふうに考えが変わってしまった。これが正しいとはまったく思っていない。ただ、環境を整えて、部屋から出て来てもうまくやれない人もいるのではないか、というクエスチョンに対する僕なりの答えにすぎない。無敵の人がすべてを失ってしまった、これ以上失うものがない人であるなら、しかるべき人生を提示したらそのギャップに絶望してしまうのではないかと愚考する次第なのである。

それならば無敵の人の人生にもまだ失われていないものがたくさんあるのだと評価して実感させたほうが暴発は防げるのではないか。たとえば、「引きこもりや閉じこもりは全然恥ずかしいことじゃないからガンガンやろうぜ(もっとうまい文句があるはず)」といって、まだすべてを失っていないように感じてもらえばいい。正しい生き方を教えるだけでなく、ちょっとズレた生き方を認めることも、無敵の人を武装解除できる方法だと僕は信じている。残酷なことを言っているのはわかっている。下手をすると一人の人間を部屋の中に、塩漬けにして閉じ込め続けてしまいかねないからだ。でもね、それでも誰かが死ぬよりはずっとマシだと僕は思うのだ。(所要時間25分)