Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

『戦車将軍グデーリアン「電撃戦」を演出した男』とても面白かった。

『独ソ戦』著者最新作『戦車将軍グデーリアン「電撃戦」を演出した男』読了。ドイツ国防軍ハインツ・グデーリアン上級大将を主役に据えた評伝である。読み物として純粋に面白かった。これは、凄惨な記述の続く「独ソ戦」に比べて、わかりやすい1人の将軍の栄枯盛衰の物語ということもあるが、何より著者の腐心の結果だろう。 

 第二次大戦時のドイツ国防軍の将軍で知名度でいうと、ロンメル元帥がダントツ、次にマンシュタイン元帥、グデーリアンはその次あたりになるだろう(ちなみに僕のお気に入りはゴットハルト・ハインリツィ上級大将)。多少、第二次大戦に詳しい方なら、グデーリアンといえばドイツ陸軍装甲師団の生みの親、電撃戦成功の立役者、戦術家としては有能だが戦略家としては疑問符がつく、というイメージを持つのではないか(僕もそうだ)。
著者は本書で、グデーリアンを優秀な戦術家として一定の評価をしながらも、それ以外の「グデーリアン」像を徹底的に壊していく。戦略家としては近視眼的で能力と適正に欠けるという評価に驚きはないが、著者は、ドイツ装甲師団や電撃戦の父という偶像を著者は、大戦当時の資料と後世の歴史家の説から、ひとつひとつ検証し、実像をあぶり出す。新鮮だったのは、グデーリアンの戦争犯罪との向き合い方と、大戦前に装甲師団をひとり作り上げた生みの親というイメージが、完全にひっくり返される点だ。グデーリアンのナチの戦争犯罪とは無縁の純粋な職業軍人というイメージを、著者は、いくつかの証拠をあげて、積極的に加担しなくとも、看過したのは間違いないと厳しく非難している。装甲師団の父というイメージについても、グデーリアンの独創でも協力もなかったわけではなく、何人かいる装甲師団の父のうちのひとりと評価を一段下げている。
僕が面白いと思っているのは、本書がグデーリアンの偶像を壊すではなく、なぜ、そのような偶像が作り上げられていったのか、を主に語られている点である。ロンメルの場合、プロパガンダで国民的英雄として宣伝されたが、グデーリアンの場合は、独ソ戦途中で左遷されているので、ほぼ戦後の自己演出によって偶像がつくられているのは興味深い。構成はグデーリアンの生誕から死去まで時系列に追っている小伝であるが、時折、「なぜこれが後世には違うカタチで伝わるようになったのか」という視点が入ることで、わかりやすく提示されているのだ。
グデーリアンの装甲師団の父、戦争犯罪に加担しなかったプロイセン軍人という偶像は、戦後、本人が書きベストセラーになった回想録の影響が大きい。著者は、回想録は生活に窮したグデーリアンが名誉と金のために書いたものだから、本人に有利な誇張や取捨選択が行われるのは致し方ないとしながらも、戦後のグデーリアンの特に戦争犯罪との関わりについての、自己保身的な立ち振る舞いを、回想録という特性があるにせよ度が過ぎると辛辣な評価を下している。著者が前年に著した「ロンメル」本において、ロンメルを砂漠の狐の名声がいかに色褪せようと、戦場におけるフェアネスの評価は揺るぎない、との評価を与えているのとは対照的である。
グデーリアンは歴史に名を残す卓越した戦術家であったのは間違いない(彼の不幸は上司との対立で前線指揮官を外されてしまったことである)。同時に、神話の人物ではなく、僕らと同じように時代に翻弄され、組織のなかでどう立身するかを悩み、意見のあわない上司に胃を痛め、インスタ映えのように自分を実像以上に飾り立ててしまう、ごく普通のつまらない男でもあった。つまり、グデーリアンの人生を辿ることは、現代を生きる普通の僕らがこれからの人世とどう向きっていくかを考えるヒントに満ちているのだ。あとがきによればロンメル、グデーリアンときて最後はマンシュタインで締めるシリーズになるらしい。今から楽しみだ。(所要時間20分)

「正しく恐れる」とはどういうことか。

数年間音沙汰のなかった平塚のキャバ嬢みなみちゃんからの突然のLINEに激怒した。「こんばんは~最近どうしてる~?」。ふざけている。新型コロナの影響で客が激減した席を埋めるための営業。その手に乗るか。僕にもプライドがある。安全面も不安。雑居ビルのワンフロアという密閉された空間は、ウイルス感染の危険度が高い。そのような劣悪な環境で、不特定多数と接触しているギャルと濃厚接触をしたら、長年の不摂生で弱り切った中年のカラダはひとたまりもないだろう。こんなときにわざわざ行くやつはアホである。

「行かないよ」と返信。だが脳からの指令に反して、右手が勝手に動いて、「行くイク~。リンジー同伴しよ~」と返事を打っていた。新型コロナによる自粛ムードに嫌気がさしていたのだ。閉塞感を少しでも吹き飛ばしたかったのだ。昨夏から蓄積した欲求不満を飛翔体「愚息1号」に詰めてドカーンと発射したかったのだ。だが、同伴は許されなかった。客はいないはず…なぜ…。みなみちゃんによれば、店の方針でしばらく同伴は禁止らしい。なるほど、そうだよね、平常時に同伴してもらえなかったのだから、新型コロナ以後にできるわけがないよね。理にかなっている。納得だ。

案の定、店はガラガラであった。先客がひとりいた。サモハンキンポー似のおかっぱ頭の中年男。席に通されて、指名したみなみちゃんが来るまで、サモハンとギャルの会話を聞いていた。「同伴楽しかったねー」という彼らの無邪気なトークで、心に消えないキズがついた。その瞬間、ワンセット1時間で帰ると固く誓った。みなみちゃんが席について水割りをつくってくれた。彼女は、濃厚接触をおそれ、30センチほど離れた場所に座っていた。彼女とのあいだにあるソファーの黒い合成皮革は、僕に、数万光年の星屑のない暗黒宇宙を思わせた。みなみちゃんの「お店の決まりなの~」という甘い声の向こうで、サモハンが別の女性のヒザに手を乗せているのが見えた。悲しかった。分速3センチメートルで悟られぬように接近する。気を取り直して、酒をがぶがぶ飲み、正気を取り戻してから、みなみちゃんのお召し物を確認した。胸元がバックリあいていた。ウイルスなら、露出した胸元へ侵入するのも容易だろう。それから僕は「お店の女の子の服は、薄い布で出来ているのになぜ透けないのか」という哲学的な問題について考えながら水割りを飲み、尻をスライドさせ続けた。

残り10センチ地点で「別の女の子とかわりまーす」の声がした。30センチ先から別の女の子の「飲み物いただいていいですか~」というお決まりの台詞。この繰り返しで時間は過ぎていった。軽いタッチも甘いアフターもなかった。こんなときにわざわざキャバに来る奴は、アホだと思った。空いているからチヤホヤされるだろう。ピンチの店を助けている俺は救世主的な何か。アフターも余裕でオッケーだろう。デマやパニックに巻き込まれない平常心の俺はかっこいい。完全に間違っている。はっきりいって、新型コロナ下でもブレない自分をアッピールするのは痛々しいだけである。「日常を生きている」を不自然にやっているから、店側がいつもと変わらずに淡々とサービスを提供していると「あれ、こんな日に来店しているのに何か冷たくない?こんなときだからこそ僕らは絆を深め合うはずなのに」と悲しい気持ちになるのである。

新型コロナ騒動でわかったのは、こういうとき、突然正義に目覚めて、薄気味悪いことを言いはじめる人間は信用できないということだ。普通にやろう。日常を崩さないようにしよう。正しく恐れよう。そういう普段言わないことを言いだすことがすでに普通ではない。正しく恐れる?それが出来ないから、人類は戦争を繰り返しているのではないか。

恐れるときは恐れればいい。正しく恐れるとは、恐れないことではない。おおいに恐れることだ。まずはおおいに恐れればいい。イヤになるほど慄けばいい。臆病になってもいい。そこからはじめることで道はひらける、帰路、公園に立ち寄ってスプレーとジャスミン茶で1時間のキャバクラを隠蔽するのを怠らなくなる。自戒をこめて繰り返す。正しく恐れるとは、恐れないことではなく、おおいに恐れることである。(所要時間20分)

店で出されたイマイチな料理に「マズい」を連呼する必要ある?

突然ですが皆さんの周りに、店で出された料理をその場で酷評する人っていませんか?僕はその行為がまったく理解できないのだけれども、皆さんはどういうふうに捉えているのだろう。

先日ランチタイムにこんなことがあった。市場調査を理由に部下氏と個人経営の定食屋に入った。席は7割ほど埋まっていた。隅っこの4人掛けテーブルに座る。部下氏はミックスフライ定食、僕は肉野菜炒め定食屋を頼んだ。部下氏が「マヨネーズを別盛りで付けて」とまるで常連客のような気軽さで大将に声をかける姿に、僕は不安を覚えた。料理が出てきて箸をつけてから数分、嫌な予感は当たる。

 「ここマズくないすか?脂っこくて食べられたもんじゃないですよ」と部下氏が大きな声で言ったのだ。小さい店だ。全員に聞こえている。誰も反応しないのがかえって恐い。申し訳ない気持ちになる。僕は仲間と思われたくなかった。「おい。少し声を落とせ。感想も発言も自由だよ。つか今、それ言う必要ある?。しかもそんな大声で」と注意した。バカと言わないように気を付けた。うざすぎるコンプライアンス。ちなみに、当該部下氏は飲食店で「いただきます」「ごちそうさま」をいう僕を「恥ずかしいからやめてください」と笑った部下と同一人物である。

店で「いただきます」を言ったら、部下から「恥ずかしい」と否定された理由が斬新すぎた。 - Everything you've ever Dreamed

 僕の「いただきます」を笑うのは、「考え方の相違」で納得できるが、現場での料理酷評大声拡散は、考え方や見解の違いをこえて悪口や営業妨害につながるから、見過ごせない。誰も幸せにならない。

 部下氏は「代金を払っているから評価する権利はありますよ」と僕にワンダーな理屈をぶつけてきた。終始、声がでかい。「声をさげて。権利の話はしていない。評価するのもかまわない。ただ、この場で口に出す必要はないでしょ」と反論した。その場で評価を口にすることに意義があるんですよ、と聞こえたが相手にするのはやめた。料理に問題があるなら、こっそりとスタッフを呼んでその旨を伝えれば済むはずだ。「味覚は人それぞれだろうよ」と指摘すると「脂の量の多さはわかりますよ」とああ言えば上祐状態。もうだめだ。

 だいたい、店で料理がマズいと騒いで誰が幸せになるというのか。無意味だ。正解はわからない。嘘をついて美味しい美味しいと声をあげるのも変だが、それでも、「ここの飯マズっ!」と大騒ぎするよりは、ずっとマシだろう。言葉を失った僕が沈黙していると、部下氏は「まめな評価活動が、評価経済に繋がります」などとミラクル論理で僕をノックアウト寸前に追い詰めた。彼は、評価は周知することでその評価自体が評価されて価値が高まります、と続けた。評価経済がそんなはた迷惑な概念とは知らなかった。落としどころが見当たらないので、食事を終えると、すぐに店を出た。店内は微妙な雰囲気だった。逃げ出したかった。部下氏はわざわざ頼んだ別盛りのマヨを丸々残していた。そういうとこだぞ…。

 他部署から、悪い人ではないけれど、と前置きして部下氏に対して意見をいただいている。苦情以上クレーム未満の声だ。「距離が近い」「フレンドリーすぎる」「もしかして人の嫌がることがわからない系?」そんな声だ。ご指摘はもっともである。付け加えるのなら、部下氏の行動に悪意がないこと、本人は良いことをやっているつもりでいる。それが問題をややこしいものにしている。善意の悪とでもいえばいいのか。

 僕は、この定食屋での話を営業部のスタッフに話した。「店で出された料理の悪口をそこで大声で言うのおかしいよね」という僕に全員が「おかしいです!」と賛同してくれる…と思ったら、「あまりに酷かったら私も騒ぐかも」「やらないけれど理解はできる」的な意見が出てきて、結果は半々といったところだった。中には「ライバル店でそれをやるのはありかも」みたいな情けない意見も出てきて、悲しい気持ちになった。情けない仕事するなよ…。皆さんの心には何が残りましたか?(所要時間20分)

あおり運転で警察に通報された。

「じゃこの書類にサインして」声の主は総務部長。目の前に「今後は自動車の運転には気を付けます」と書かれた誓約書。サインをすれば、この誓約書はボスに回る。そう思うと気が重くなった。午後5時。逃げ場はない。僕は普段の運転を恥じながらサインした。罪状は、あおり運転。僕は無実だ。なぜこんなことになったのだろう。ボールペンを握る手に力が入った。

午後3時。得意先に向けて営業車を走らせていると電話がかかってきた。総務部長からだ。「今すぐ社に戻ってくれ。理由はあとで話す」声に緊張感があった。コロナ対策の一環で営業部は原則直行直帰となっている。「外回り営業はウイルスを持ち込んでくる可能性が高いから社に寄り付くな」と主張した総務部長直々の呼び出しに、嫌な予感がビンビンした。総務部長は顔をあわせるやいなや、顎で僕を奥にある面談スペース、通称「懺悔室」にうながし、腰をおろすなり「通報を受けたY警察署から連絡があった。あおり運転だ」と告げた。

「ついに部下の誰かがやらかしたか」、僕は天を仰いで、天井に容疑者候補を浮かべていった。「君だよ」総務部長の声。彼は「あおり運転をしたのは君だ」といってメモを出した。僕が使っている営業車のナンバーと車種が走り書きされていた。オーマイガー。間違いなく僕であった。なぜだ。「今日の午後2時過ぎ、Y市のS図書館の近くにいなかったか?」「いました。お客さんとアポがあったので」「そこで君からあおり運転をされたと警察に通報があったらしい」 違う。僕はあおったのではなく、あおられたのだ。

午後2時。営業車を走らせる僕の前で、ジャンパー姿のおっさんがバイクで蛇行運転とポンピングブレーキを繰り返していた。どこに出しても恥ずかしくないほどのあおり運転である。僕は平常心を守るための魔法の言葉をつぶやいてやりすごした。距離を起きたかったが、後ろには湘南乃風メンバーに似た強面がハンドルを握る紫色のミニバンであったため、出来なかった。二車線になった。車線変更をしてオッサンのバイクを一気に抜いた。少し先の信号で止まると、追い付いてきたオッサンが横で意味不明の言葉を叫んでいた。目がやばかったので無視した。ここまでで1~2分間。それだけの出来事。この行為のどこにあおり運転があるというのか。

「それだ!そいつが君から『あおり運転、幅寄せをされた』と警察に通報したらしい」きっつー。逆だ。あおったのではなくあおられたのだ。そもそも幅寄せしていない。警察からは、事件にも事故にもなっていないから、該当者にヒアリングして事実なら注意しておくよう言われたとのこと。「ただ、運が悪いことに」総務部長は嬉しそうに続けた。「私が警察から電話を受けたとき、ちょうど総務部に社長がおられて…」 事実確認後、後で報告に来るように言われたそうだ。警察からの照会。あおり運転。ナンバー一致。心証ワルっ!

「で、実際どうなの?」と総務部長は尋ねると、僕の答えを待たずに、「大ごとにするつもりはないから、誓約書にサインしろ。証拠はないんだろう?」と彼は言った。なげやりでムカついた。お天道様に誓って、僕はあおっていない。何で僕が。証拠さえあれば。あった。「ドラレコがあります」「ドラレコの映像を確認して大丈夫か」「はい?」「大丈夫かっていってんの。あおってなくてもヤバそうな相手に追い抜きをかけていたら、心証悪くなるだけだぞ。それでもいいのか?」

このやりとりのなかで僕はとんでもないことに気づいて「やっぱドラレコはやめておきます。事件にはなっていませんし、僕に落ち度があった気がしてきました。反省します」と引き下がった。総務部長は疑うような眼差しを一瞬僕にむけると「わかった」のひとこと。さすがことなかれ主義の第一人者。

僕はドラレコを確認されたくなかった。社長室で社長と総務部長と僕がいる情景を想像する。しん、として耳がいたくなるような室内に再生されるドラレコ。蛇行運転を繰り返すバイクの映像とそこに重なる僕の声。おまじないの言葉。「綾瀬はるかたんにピー(自主規制)」「深キョンにピピーー(自主規制)」。想像するだけで地獄すぎた。僕は人によってはあおり運転にとらえられかねない荒っぽい運転をしました。自分に嘘をついて、偽りの罪を受け入れた。男には汚名をかぶってでも守らなければならないピーな秘密があるのだ。(所要時間23分)

元給食営業マンが「なぜ新型コロナ感染防止の臨時休校方針で給食食材取扱業者が厳しくなるのか」その背景を簡単に説明してみた。

新型コロナ感染防止のための全国的な休校方針で、学校給食にかかわる業者が悲鳴をあげているというニュースを見た。ざっくりというと給食向けの食材がキャンセルされて困っているという話だ。引用は牛乳だが給食に使う食材はほぼ同じような状況と推測される。

www.agrinews.co.jp

食材ロスの観点からはもちろん業者の死活問題なので、給食以外での活用が望まれるが、なかなかうまくいっていないようだ。その理由として学校給食というボリューム(受け入れ場所がない)、生鮮食品特有のリミット(消費期限)があげられているが、近年の学校給食ならではの「背景」については指摘されていないようだ。そこで、元給食営業マンとして学校給食の営業を担当した経験をもつ僕が、その背景にフォーカスして、なぜ学校給食が厳しいのか解説してみたい。

理由1「地産地消」 なぜ、学校給食用の食材がキャンセルされて困るのか。その理由は簡単で「他の販路を確立していないから」だ。たとえば学校給食専門(または高い比率で取り扱っている)食材業者は、取扱いボリュームもあり、かつ、安定し確実な売上を見込めるために、特に地元の小規模な事業者などは、学校給食以外に販路をつくる必要がなかった。それだけで食べていけるからだ。学校給食用の食材を確保するだけで大変な労力がかかるため、販路を拡販する余裕がなかった可能性もある。学校給食に使用する食材は、大ボリュームかつ安定してオイシイ仕事であるが、今回のように給食が停止してしまうとと、販路がないうえ、そのボリュームゆえ他にもっていきようがない、生鮮食材は工業製品のように急に生産をとめられない、という事態に陥る。これまでの強みが弱みに一転してしまうのだ。

ではなぜ地元の中小規模の事業者が給食食材を取り扱うようになっているのか(大手も取り扱っているけれど)、それは、ここ数年、国が主導してきた給食の地産地消方針が背景にある。地産地消とは地元、地場食材は地場で消費しようという取り組みと考え方である。学校給食にも採りいれられていて、たとえば、「第3次食育推進基本計画」の中では、学校給食での地場産物の使用割合(食材ベース)を、平成32年度までに全国平均で30%以上にするとしている。食育基本法・食育推進基本計画等:農林水産省

実は第2次基本計画の目標も「30%以上」であったのだが、未達だったために第3次計画に目標が繰り越されている(平成24年度から25%前後でほぼ横ばい)。ざっくりいうと国が学校給食で地産地消を推進してきており、その比率は上がっているということ。平成16年度は21%程度なのでその比率は上がっているのは明らかだ。一見すると低い数値に見えるが、それは消費地である東京や大阪を含めての全国平均の数値となっているためであり、生産地では高くなっている。たとえば代表的な生産地である北海道では70%と全国目標の30%を大きく越えている.

http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ns/shs/data/deep/file/H26-6.pdf

地産地消を推進して地場食材を活用するためには、地域にある中小規模の業者を活用せざるをえない(地域振興にもなる)。そしてそれらの業者は先に述べたように、給食だけで食べていけるため、他に販路がなく行き詰まってしまう。大手に比べれば体力もない。今回のような事態になると、在庫の山と廃棄コストを前に悲鳴をあげてしまう。

理由その2「地産地消の解決策」もうひとつ、地産地消を推進するとともに、それがかなわない地域もあるため、「国内生産品」も推奨していることもその背景にある。先の第3次計画では地場産物の使用割合目標とともに国内生産率80%以上を掲げている(現状は77%程度)。ざっくりいうと、地産地消を推進しているが、地域の事情でそれがかなわない場合は、国内生産率を高めていこうという施策を推進してきたということ。

その結果、生産地と呼ばれる地域に対する全国からの学校給食食材の依存が高まり、それに応えようとする生産地にある食材業者は、地域だけでなく全国からの給食に食材提供をおこなうようになっていた。この状況下で、全国の休校要請にともなって給食食材のキャンセルがきたら…残るのは地域で消費できるボリュームをはるかにこえた食材と迫りくる消費期限だけである。

僕がネットでニュースを確認した範囲では、今回の騒動で悲鳴をあげている業者はほぼ生産地の業者だ。いわゆる生産地の、全国からの学校給食を受けている食材業者にとっては、質とボリュームを確保するだけで学校給食以外の販路を開発する余裕もなかったのではないか。限定されたエリアだけの休校措置ならばともかく、全国的な休校措置によって、全国からのキャンセルに対応できないのは、経営努力というレベルを超えた事態であり、悲劇である。もちろん、余ってしまった給食用食材を即売会などで売るという試みも大事であるが、民間だけでなく、施策を進めてきた国も対応するべきだろう。感染者のいない自治体の給食だけは実施するとか、給食をこども食堂的に使うとか、いろいろ出来ることはあるし、こういうときにしか出来ない「食育」を示すのも、大切なことではないかと僕は思うのだ。(所要時間30分)