Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

昨日、保健所に行った。

昨日、保健所に行った。なぜ、新型コロナ緊急事態宣言下に保健所へ行ったのかは後で説明するけれど、もともと、僕は仕事で許可申請や届出のために官公庁へ行く機会が多い。なかでも多いのが保健所だ。各種営業許可のために、年に数十回は訪れている。専門家会議の人が「保健所は新型コロナ関係で多忙を極めている」と仰っていた。にもかかわらず、昨日も、いつもどおりにいつもの対応をしていただいた。大変ありがたい。

保健所の営業許可申請手続きについてざっくり説明すると、営業開始一か月前くらいまでに図面等の書類を持参して食品衛生課へ相談(事前相談)に行き、その後書類申請をおこない、立ち入り検査を行ったうえで許可が下りると流れになる。つまり飲食店に掲示されている営業許可証は保健所が出している。ちなみに掲示場所は見やすいところ、目立つところとされていて、ファミレス等チェーン店ではレジの後ろに壁に掲げるよう定められていることが多い。営業許可については飲食店や乳製品販売等事業によって種類があるけれど、流れはだいたい同じだ。

事前相談には基本的にオンラインでは出来ない(僕がかかわった保健所は一か所もなかった)。そのため、書類を保健所の営業時間内(17時まで)に窓口へ持参しなければならない。そのあとにつづく営業許可申請(本申請)も同様にオンライン申請はなく、直接窓口に赴いて申請しなければならない。申請料を印紙でおさめる必要あるからだろう。ちなみにクレジットやペイでの支払いはできない。現金のみ。申請書には、実際の店舗の図面や店舗周辺の地図等を添付する必要がある。地図についてはグーグルマップを印刷して添付しても基本的にはオッケーである。申請書には所在地を記載されているので調べればいいだけのことだと思うが、きっと僕の想像も及ばない、紙に印刷する理由があるのだろう。僕は先月から、新型コロナ感染にビビりながら、これらの手続きを、隣県の保健所まで足を運んでおこなった。

つらつらと保健所のオンライン対応の不備について書いてきたが、実際の現場立ち入り検査だけはオンライン化出来ないのは理解している。保健所は公的機関のため、きっちりとした検査体制をしている。たとえば検査日時の調整設定。僕の経験から、保健所は検査日時はきっちりと設定する。日時を間違えたら空振りになってしまうからだ。その一方で、時間設定は午前か午後くらいのアバウトな設定になる。多忙を極めるため時間を確約できないという理由らしい。「午後のなるべく早い時間帯に行けると思いますが保証できません」みたいなことを何十回言われただろうか。つまり検査に立ち会う際には、半日そのために空けなければならない。うらやましいかぎりだ。民間企業が、しくじってはいけないお客様に「明日は13時から17時のあいだにお伺いしますので、待機していてください」と言ったら…考えるだけでおそろしい。

名前は伏せるが某保健所などは、午前中に行う検査の際、12時直前にやってきて10分程度パパッっと見ただけでハイ合格と言って帰っていった。設備的に微妙な店だったのでマシンガンのような厳しい指摘を受けると予想して、昼休みも潰れる覚悟であったが、公的機関らしく12時ピッタリに終わらせてくれた。素晴らしい。10分で隅々までチェックする職人の仕事に感動したのを覚えている。

先述のとおり、僕は昨日、保健所へ行った。すでに許可を受けている案件の、営業許可証をゲットするためだ。「公式ホームページに発行したパスを入れると営業許可証が表示されるのでプリントアウトすればオッケー」というわけにはいかない。原則窓口で手渡しである。このご時世なので郵送をお願いしたが無理であった。これが特定警戒都道府県の神奈川から隣県まで車で向かった理由である。営業許可証は保健所の営業時間中(17時まで)に窓口で受け取る必要がある。保健所によって多少手続きは違うが、検査時点で渡される引換証を窓口で渡し、帳面にハンコすると受領できる。ここでもハンコである。ちなみにシャチハタでも可。ハンコを忘れてもサインで受領できる保健所もある。ちなみに本人確認書類の提示といったチェックはない。引換証をゲットできれば誰でも受領できる人に優しいシステムだ。何のためのハンコなのか、よくわからない。

PCR検査等各保健所が新型コロナ対応で多忙をきわめているという話だ。だが、日常的に稼働している営業許可関係でこれだけ前時代的な非効率な対応をしているのだから、それにくらべて日常的とはいえない感染症対応で効率的な対応をしているとは到底思えない。保健所は厚生労働省の管轄の公的機関である。「国」である。保健所を例にしたが、官公庁や役所は紙ベースでの申請を要求するところはまだまだ多い。ハンコで書類受領も同じだ。御存知のとおり国はオンラインやテレワークを推奨して、不要不急の外出を最低限にするよう要請している。そのような要請をするのであれば、これら公的機関がまずこれらの手続き等を完全にオンラインで対応できるようにするのが筋ではないのか。最初はハンコをなくすことから。実は昨日、営業許可証受け取りの際に、僕はハンコを忘れてしまったけれど(駐車場に停めた車の中にあった)、サインで対応してくれたことには感謝している。ということはやっぱり、ハンコは要らないってことだよね。ご検討よろしくお願いいたします。(所要時間32分)

コロナの時代の愛はどうだ

新型 コロナの前からアルコール消毒をする人だった。ウチの奥様だ。彼女がアルコールを手指に吹き付けるのは、我が家では当たり前の光景だった。僕が神経質すぎやしないか?と笑うと、彼女は「管理栄養士の職業病かも」といって微笑んだ。穏やかな時代だった。手指のほか、家電や家具の手が触れるところ、ドアノブ、冷蔵庫のドアなどが対象だった。僕も、40歳をこえると、ドアノブ軍団に入れられた。僕が触れたところは消毒、消臭。手洗いを終えると光の速さで飛んできて僕の手のひらにアルコールをシュッシュした。そして、彼女の正しさは2020年に証明された。

母もアルコール消毒をする人だった。もっとも、その習慣が定着したのは、父が亡くなったあと、葬儀屋で働き始めたころだ。そこで手洗いのあとのアルコール消毒を学んだのだろう。もっと昔、たとえば僕が小学生低学年の頃は、今のようにアルコール消毒をする習慣は一般的ではなかったと思う。ポンプ式のハンドソープが世に出たのは体感的には昨日の出来事。小学校の手洗い場では、決まって、蜜柑の詰められていたような、赤いナイロンの網に入れられた固形石鹸がグニャ~と溶けていた。僕らは校庭で遊んだあと、その触りたくないグニャ~で泡立てて手を洗ったものだ。家でも固形石鹸で手を洗ったけれども、あの網に入っていないぶん、見た目がグロテスクでないぶんマシだった。母は「バッチーのちゃんと飛ばした?」といって僕の手洗いを目で確認した。母は僕の手をとって確認することはなく、そのまま走ってキッチンに戻った。それが当時の消毒だった。母。妻。僕の人生でもっとも近い場所にいる女性は、共にアルコール消毒マニアであったが、僕をバイキンマン扱いするのは奥様だけだ。母は誇り高い人。自分がバイキンマンを産んだとは死んでも認めないだろう。

2020年4月。僕の暮らしている神奈川県に新型コロナによる緊急事態宣言が出された。僕は原則在宅勤務。プライベートでは早朝の散歩と最低限の買い物以外の外出は自粛している。奥様と自宅にこもっている。平時から殺菌消毒の対象になっていたので、戦時体制になったら、銃後の僕はどれほど厳しい消毒や殺菌措置をされるのだろうか。僕はお尻にアルコールをひたしたソーセージを突っ込まれるくらいの覚悟は決めていた。彼女の正しさは、新型コロナという招かざる敵の登場で、証明されている。昨年病に義父は病に倒れた。ウイルスは致命傷になりうる。絶対に家族をウイルスには感染させないという決意を、彼女は言葉にすることはなかったけれど、彼女が「県内感染者数」を毎日記録している冷蔵庫のホワイボード(ミニ)で、僕は暗い気分になりながら知ることができた。僕は震えていた。新型コロナの脅威と彼女の仕打ちに。

だが、僕の予想は外れた。彼女は優しかったのだ。どこまでも。ひたすら。僕が風呂を出たあとで息を切らしていると「大丈夫?」と声をかけてくれるようになった。うっかり手洗いを忘れたら、烈火のごとく叱られたものだが、「忘れないでください」と注意されるだけになった。誰もいない街へ買い出しへ出かけるときは、玄関で見送ってくれた。仲が良くなったわけではない。来年2月から3月にベイビーが生まれるような気配はゼロ。家庭内で適度な距離、ソーシャルディスタンスを保っているような関係。それが薄気味悪かった。その謎はあっさりと解けた。

「もうキミにプレッシャーをかけるのはヤメました」と奥様はいった。神奈川県ではウイルス感染者との接触を完全に断つのは無理であって、もし感染者に触れても僕が心身ともに健康で抵抗力免疫力さえあれば感染する危険性は下がる、結果としてウイルスを持ち込まないようになるというのが彼女の理屈であった。「だから多少イラっとはしても、我慢しているの」と彼女は笑った。彼女はほぼ完全に自宅にこもっている。買い物など、外出をともなう用事は僕の仕事だ。すべて感染源の特定を容易にするため。僕のバイキンマンあつかいは1ミリも変わっていなかった。僕の免疫力アップのためにイヤイヤ優しくしてくれている現実を認めるのはつらいけれども、優しくされて悪い気分はしないからいいか、と考えなおして僕はやりすごした。新型コロナ前から駅ビルで咳をすれば知らない女性から汚物をみるような目で睨まれた。何年前かの暑い夏、汗だくで電車に飛び乗って窓の外の青空を見ていたら、スカートの短い女子高生から「こっち見んなオッサン」と睨まれたこともある。そういうつらい現実に比べれば、優しいだけで、いくぶんマシなのだ。

僕はなんとなく自分の存在を確かめたくて母に電話をかけた。この世界でただひとりの、僕を汚物あつかいしない女性。マザー。この連休中、新型コロナで実家に帰るのも控えていた。母さん元気?こないだお金入れておいたよ。3900円。サンキューマザー。母は言った。「お金もうちょっと何とかならないの?」「え?金額。じゃあ今から持っていこうか」実家は近い。「いや、いいよ。あんた昔から汚いからウイルス持ってきそうだもの」母も奥様と一緒だった。二人と僕とのあいだには、一般的にいわれるソーシャルディスタンスの10倍以上の距離がある。もしかしたら、月のほうが近いかもしれない。(所要時間24分)

明石順平著『ツーカとゼーキン』は絶望から目を逸らす危険性について書かれた現代の黙示録だった。

明石順平著「ツーカとゼーキン」を読んだ。絶望しかないが読んで良かった。そのタイトルから、現在の税制批判についての本かと思いきや、「日本の財政再建は不可能、円が暴落して、借金踏み倒されてゲームオーバーになる」という、絶望的なビジョンが語られていた。 

著者は「財政あきらめ論者」の立場から、日本がなぜ壊滅するのか、その後の再製のために書いたと述べている。おそらく大半の読者は僕と同じように財政あきらめ論者ではない。だが、著者はそういった読者に対し、現在の日本に厳しい状況とその後に訪れる壊滅を説明するために、和同開珎前からの通貨の歴史と紙幣の誕生、そして、歴史的に繰り返してきた、困ったとき(お金が足りなくなったとき)に、お金を多く発行して、価値の下落を招くという現象がなぜ起きているのか、そして借金というのは後に発生する価値とお金との交換行為であることを、解説する。和同開珎から仮想通貨まで、モノシリンと太郎君というキャラクターの平易な会話でわかりやすく示している。まるで大昔に読んだ子供向けの参考書のようで、わかりやすい。

実は、自称財政あきらめ論者である著者が、本書において絶望的なビジョンについて語るのは、終盤になってからで、そこへいたる経緯の説明に頁のほとんどを割いている。著者が持論である「長時間労働と低賃金」をほとんど持ち出さずに、通貨と税金の問題を通じて、現在の日本の財政問題をあぶりだしている点に感心した。そして、1967年の国債の60年償還ルールを適用し続けていること、アベノミクスの異例の金融政策等々によって、日本の財政が近い将来、東京五輪が終えたあたりから壊滅的な状況になるのではないかと著者は予測している。その理由を、アベノミクスの金融緩和によって、インフレ時の常套手段である売りオペが機能しないからだ著者は結論づけている。

この予測が当たるのか外れるのかは問題ではない(外れたほうがいい)。著者が本著を通じて言いたいのは「根拠のない楽観を持ち続けることの危険性」だ。今、現実的に僕らが直面している問題で、大きいものは少子高齢化社会と労働者人口の現象、そして増え続ける社会保障費だ。端的にいってしまえば、お金が足りなくなる問題である。その問題に対して、歴史上繰り返してきた楽観からの「お金を増やせばなんとかなる」というやり方は、日本を壊滅させかねないという警告が本著のねらいではないだろうか。

著者はこう訴える。社会保障の厚い国で、消費税率の低い国は存在しない。だから、税を「悪いもの」から、「出し合って支えるもの」へ意識を変えていくしかないと。終始冷静な口調で語られる本著で、選挙に勝つため、人気取りのために減税を訴える政治家に対する批判の部分だけは熱いものになっている。僕がこの本を新型コロナ感染下で読んでいる。つまり、この本が書かれた時点での未来への予測はより厳しいものになる可能性がある(確実に)。実際、東京五輪は延期になった。緊急事態宣言によって経済は酷い状況になっている。絶望する必要はないが、絶望的な状況から目をそらしてありもしない楽観に逃避することが本当の絶望のはじまりになるという著者のメッセージは今だからこそより強く響くのだ。「嫌われても構わない。日本のために正直に書いた」と自称「財政あきらめ論者」の著者はあとがきで書いているが、ちっとも正直ではない。ホンモノのあきらめ論者なら、こんなふうにわざわざ嫌われるような内容の本を書かないからだ。(所要時間24分)

上司とのオンライン飲み会は地獄を見るからやめたほうがいい。

メーデーという労働者の日を前に、古い体質の弊社でも上層部に労働者の声が届き、オンライン会議の導入が決まった。喜ばしいことだ。同時に、オンライン会議の実証実験としてオンライン飲み会を行うという連絡も受けた。

相手は上層部10人。絶望した。在宅で働いているのに、なにが悲しくて、平均年齢60才を越える上司オッサン10人とつながらなければならないのか。憤った。なぜ、飲み会からの会議なのか。順番逆だろう。アホか。それから僕は、自分の憤りをおさえて、くだらない飲み会のためにわざわざ出勤して環境を整えたシステム担当者を気遣った。「特に難しいことはありませんでした」と気丈にふるまうシステム担当の明るい声がかえって僕の不安を増大させた。

 人とつながることのすべてを否定しないが、無理につながる必要はないと考えている。つながりとは本来、誰かに言われてつくられるものではなく、自然発生するものだ。だから、最近の「つながろうムード」は僕には少し異様に見える。今は、強引につながることより、適度な孤独をゆるやかに受け入れるときではないか…。そんなふうに考えているので、オンライン飲み会には否定的だ。親しい友人数人とならいい。楽しい時間になるはずだ。だが会社の上層部オッサンたちが相手となれば、それは拷問に等しい。ときに神は残酷だ。このような乗り越えられない試練を会社員にお与えになる。

 「僕はサラリーマン。飲み会も仕事なんだ。ワークなんだ」と割り切ってポテチと缶ビール6本を用意。17時。オンライン会議がはじまった。モニターに映し出された映像は想像を超越する酷いものだった。スーツ姿のオッサンがずらずらっと並んでいた。平均年齢は60を優に超えている。想像してみて欲しい。そこらにいるオッサンたちの冴えない顔!顔!顔!と正対している光景を。地獄だ。

 昨今のカメラの高性能は厳しい現実をとらえていた。薄毛に白く浮いたフケ。頬のたるみ。飛び出る鼻毛。単発ではなく、同時多発的に鼻毛。僕の絶望を深くさせたのは、認めたくないけれども、僕も向こう側からみれば、多くのオッサンを構成するイチオッサンになっているという動かしようのない事実であった。ドデカい襟の派手なシャツを着ている僕は、サラリーマン然としたオッサンズのなかで中年フリーターのように見えているにちがいない。こんなうだつのあがらない「オーシャンズ11」のメンバーにはなりたくなかった…。缶ビール消費!

 オンライン飲み会は、はじまってからも最低だった。オッサンズは、ただでさえ声が大きめなのに、目の前に人がいない不安からなのか、マイクの性能に疑念をもっていらっしゃるのか、通常モードより声を張り上げやがる。「あー!あー!聞こえますか―マイク聞こえますか―」を同時に2人がやりはじめたときは失神するかと思った。缶ビール消費!

 オンラインだと、ただでさえ人の話を聞かないで自分の話をする高齢オッサンの悪い癖が増幅されるので気を付けてもらいたい。僕の目の前では10人のオッサンがそれぞれ別々の自分語りをはじめていた。「オンライン会議も~」「今の社員は~」「コロナのせいで…」「本当に聞こえてる~?」。普通の飲みであれば、気にならないものまで拾われて、最悪を加速させていた。想像してみてほしい。正対したオッサンが真顔で話す合間に「ゴフッ」「ゲッ」「ズズーッ」「オエ」「クチャクチャ」という異音を発する光景は地獄である。缶ビール消費!

 10分も経過すると、画面のなかで頭をうなだれて静止するオッサン、カメラに飲み物の飛沫がついて「SOUND ONLY」状態になるオッサン、カメラの位置を勘違いして、違うところに鋭い視線を飛ばしながら熱く会社について語るオッサンが現れはじめた。「みんなの顔がよく見えていいねえ」と呑気なことを言っているオッサンは、動かなくなっている仲間が見えていないみたいであった。あいかわらずオッサンたちは人の話を聞かずに大声で自分の話を続け、ゴフッ、ゲッ、クチャクチャ、オエオエ各種ノイズがスキマを埋めていた。

 画面でオッサンたちの顔顔顔が、それぞれ別個に話をしたり説教をしたり寝たりゲップをしている地獄絵図は、デビルマンのジンメンによく似ていた。

デビルマン ジンメン 1st Edition ダイナミック・アクション・フィギュア

このオンライン飲み会もジンメンと同じように僕のトラウマになるだろう。クライマックスは「嫁さんの顔を見たい。連れてきなさいよ」と上層部が僕へ言い出したときだ。もし僕が不動明だったら、裏切り者の名を受けるのもいとわず、デビルマンに変身して悪魔の力を炸裂させていたはずだ。缶ビール消費!

 意味のない、老人たちの満足感のためだけのオンライン飲み会。クソつまらなさでトラウマになりそうなオンライン飲み会。その途中で、僕は何人かのオッサンの背景が一緒であることに気が付いた。「システム担当のやつ手を抜いたなー」と思っただけで、その後、気にしなかった。けれども、終盤で、取締役の一人が画面のなかで横を向いて「そのツマミいいなあ」と話かけているのを見て気が付いてしまった。背景が一緒なのではなく、彼らの半数以上が、同じ場所、会社のパソコンから参加していたのであった。きっつ…オフじゃん。オンラインの意味ねえ。こんな形でオンライン飲み会童貞をうしないたくなかった…。

 実験のためのオンライン会議は地獄にはじまり地獄で終わった。僕が観察したかぎりでは、まともに成立した会話はひとつもなかったはずだが、どういうわけか、上層部はイケるという感触を得たようで、オンライン会議を導入する流れになったので良かった。これが意味するのは地獄の本番ははじまったばかりということ。これから毎月オッサンたちとジンメン会議をするのか…想像するだけで頭が痛くなる。本日5月1日メーデー(May Day)は労働者の日であるが、今、僕は心の中で救難信号メーデー(Mayday)を出し続けている。(所要時間40分)

森博嗣『お金の減らし方』はお金の教科書ではなく、価値ある人生を送るための参考書だった。

森博嗣著「お金の減らし方」を読んだ。帯カバーに「人気作家によるお金の教科書」とあったが、そういうものを期待して読み始めると、膝カックンをされるような、痛快な内容で、面白かった。 

お金の減らし方 (SB新書)

お金の減らし方 (SB新書)

  • 作者:森 博嗣
  • 発売日: 2020/04/07
  • メディア: 新書
 

本書は、お金をネタにした、「価値」についての本だ。お金の稼ぎかたについては、前提となる条件が違いすぎて、著者のいっていることはほとんど参考にならない。「アルバイトのつもりで書いた小説が当たって何億も稼いだ」「小説は好きではない」「ポルシェが欲しいので買った」「家は現金で買った」…。あっさりとこんなことが書かれていて、正直でとても良い。

本書における価値とは「本当にやりたいこと」「本当に欲しいもの」を手に入れることである。自分が楽しめることに価値があり、お金は手段にすぎないということでもある。そんなの当たり前じゃないか。となるが、著者は、そこに疑問を投げかける。「今、あなたが楽しいと感じていること、欲しいものは、本当にあなたがそう思っているものですか」と。たとえば、「必要なものは本当に必要なのか」ならば、「現時点でもっていないのにやりくりできているのはおかしい」つまりそれは「必要ではないものである」という論理展開である。他にも、「お金がないを理由に欲しいものをあきらめる」「値段イコール価値という考え方」についても著者は、その理屈は正当かどうか、疑問を投げかけて、森流の答えを出していて痛快そのもの。

僕は著者のエッセイはほとんど読んでいるけれど、いつも素晴らしいと思うのは、こうせよ、こうしろ、という言い方をしないところだ。まるで世のビジネス書と逆行するような書き方である。そして、判断を任せられている感がここちよくて、テーマこそちがえど同じような論法のエッセイを書いていても(失礼)、著者を信用してしまう。もちろん、著者のエッセイにおける特徴である、抽象的に書くことへのこだわりは本書でも貫かれている(前提条件がちがうために具体的であることは具体的ではない。抽象的なものに本質があるという考えだったはず)。

著者は、お金自体に人生の価値はない、他人の目を気にすることなく、どれだけ自己満足できているか、が人生の価値であると結論づけている。僕らが楽しいときを過ごしたり、欲しいものを得たりして、満足感を覚えているとき、その満足が自分の心から出たものか、他人から与えられたニセモノか、疑って、検証してみることの大切さを気づかされる本である。本書をひとことであらわせば、自己満足を自分のものにするための考え方のヒントを与えてくれる参考書である。まずは、欲しいものと必要なものを、本書を読んでから検証してみるといいかもしれない。SNSや「いいね!」に疲れ(憑かれ)がちな今を生きる人は読むべきだ。僕も今の仕事や婚姻関係についてあらためて考えてみることにする。(所要時間15分)