Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

閉店を惜しむ客がいるのに潰れてしまう店のリアル

取引先の飲食店から突然、閉店の連絡を受けた。脱サラしてはじめた洋食店。「コロナが憎いよ」店主は無念さを隠そうともしない。メニュー改訂やテイクアウトで半年間粘ったけれども、客足が戻ることはなかった。食材を卸させていただいていた業者目線でも、そこそこ繁盛していた店だと思う。「夕方まで手が離せないから納品は昼は避けてくれ」と言われていたし、何回か食べた料理はどれも美味しかった。

僕は、なんていっていいかわからず、軽い気持ちから「最後に閉店イベントをやらないのですか?」とたずねてしまった。これが良くなかった。鎮火していた店主の心を再点火させてしまった。「閉店の貼り紙を出した途端に、以前はよく来ていたお客がやってきて、店がなくなると困る、惜しい、想い出がなくなる、と言ってくれてる。それは嬉しい。でも普段から来てくれてればウチだって閉店しないですんだんだよ。お金を落としてくれるのが客。死に際にお別れの言葉を言ってくる客になってない客になんでウチがサービスをしなきゃいけないのさ」と店主は言った。もっともだと思った。

店(やサービス)がなくなると、「寂しい」「残念だ」という声が起きる。最終日に行列をつくって思い出の写真を撮る。よく見る光景だ。でも、これって客のエゴだろう。なくなったら寂しい、困る。これらはすべて客にとって都合の良い都合であって、そこに提供する側は存在しない。お店は、客の寂しさを埋めたり、美しい記憶を守るためにあるのではない。料理やサービスを提供して対価を得るために存在している。新型コロナで露わになったように、飲食店は経営基盤は脆弱だ。本当になくなって欲しくない店なら、閉店のポスターが張り出される前に、今すぐ足を運ぶしかない。惜しむ声をあげても、後の祭りである。

もちろん、店側にも問題はある。個人店に顕著だが、客をリピーターにする努力が決定的に足りていない店が多い。美味しい料理、そこでしか食べられない料理を提供すれば再度来店してくれる客はいる。だが、自分の料理に依存しすぎているように見えるのだ。とある客の家の近所に似たような料理(多少味が落ちても)がより安価で提供する店が出来たら、来店の頻度は落ちてしまう可能性は高い。客と自分の提供する料理に期待しすぎている。受け身なのだ。主体的にアクションしていかないと他のものにとって替わられてしまうという危機意識が足りない。根底には良いモノを提供していれば客はついてくるという楽観にある。それは確かだが、それだけでは足りないのだ。

客のエゴと店主の楽観によって、惜しまれているのに閉店せざるをえない店が生まれる。惜しまれるだけあって、料理やサービスの質は決して悪くないのが残念でならない。その反面、たいした料理を出していないチェーン店がシステマチックに集客して生き残っている。「飲食業コロナで厳しいよねー」「お店なくなるの寂しいよねー」と閉店決定後に惜しんだり悔やんだりしても何も変わらない。無意味だ。このように、惜しまれるような店がなくなっていくのは、自分が行かなくても他の人が店にいってくれるだろう、美味しい料理を出せばまた来店してくれるだろう、という二つの楽観に原因がある。

どんなサービスであれ、本気で存続させたい、続けて欲しいと考えるなら、なくなったら困る、寂しくなるという不幸な未来予想図を想像して、普段から利用していくしかない。それが出来る人こそホンモノの客である。そういう意味でいえば閉店フェアに行列をつくっている人のほとんどがホンモノの客ではない。僕はあの行列を見るたびに冷めた気持ちになってしまう。最近はコロナの影響で商売をやめる店も増えていて、普段から利用しない客になっていない客が、自分の無責任をコロナに転嫁して、より軽い感じに「惜しい」「困る」「残念」と言えてしまう空気になっている。イヤな感じだ。

気に入った店やサービスがあったらお金をつかって客になろう。流行りの言葉でいうと「推し」になろう。惜しむ言葉では誰も救われない。冒頭のお店の店主は僕に「愚痴はもう終わりだ。最終日まで来てくれるお客さんには誠意をもってこたえるよ。最後までやりきるよ」と言ってくれた。商売人の気概とプライドを見た気がした。残念ながらお店は最終日3日前に閉店した。現実は僕らが考えている以上に厳しい。(所要時間22分)

「キミにしか出来ない仕事」が「誰にでも出来る仕事」に堕ちるとき

「キミにしか出来ない」と言われて任されたはずの重大な仕事が、対応したあとに「誰にでも出来る仕事」と貶される…。20数年間のうだつのあがらない会社員生活で、何度かこのような《誰でも出来る仕事ハラスメント》を受けた。悲しくて悔しくてやりきれない経験はもうこりごりなので、「キミにしか出来ない仕事」は出来るだけ回避してきたけれども、自分の思うようにいかないのが人生である。

8月。社長の強い意向で今春開設した東京営業所を、社長の強い意向で早急に閉鎖することになった。新型コロナ感染拡大により先行きが見えなくなったからだ。社長の決断は早い。そして社長案件は様々な意味で特別。社長以下の幹部が出席する部門長会議。会議室の空気は重く、しん、と静まり返っていた。営業所開設のときは、社長案件ということで「我先に」と手をあげた者が誰も手をあげない。目をとじて腕を組む者。真剣なまなざしで資料をめくる者。呆けて壁のカレンダーを凝視する者。各々が社長と目線をあわさないことだけに集中していた。撤退。解約。異動に解雇。マイナスの仕事を進んでやる人間はいない。特に社長とうまくいっていない一部上層部の方々は、撤退をネタに社長の責任を追及するような空気を醸し出していた。

営業部長の僕は、東京営業所開設の際に「キミはいいから」「営業の出番じゃない」と外されて、まったく関われなかったので、今回も他人事を決め込んでいた。配布された資料には、事務所賃貸契約、現地雇用したスタッフの処遇(研修期間終了)、速やかな撤退、というヒト・モノ・カネすべてにわたる懸念事項が列挙されていた。余計な金は絶対かけない。労使問題勃発はダメ絶対。それが社長のご意向であった。賃貸契約や購入した事務備品(OA機器)は切ったり売ったり貸したりすればいい。だが雇用したばかりの人はどう扱えばいいのか?そのうえ与えられた時間は少ない。下手をすると訴えられたりするかもしれない。きっつー。などと他人事で周りの面々を観察していた。

流れが変わったのは、上層部の1人が「しがらみのない人物のほうがかえって良いのでは」と馬鹿な意見を出したときである。ターゲットは僕だった。彼らは僕を社長派とみなしている。僕の失敗を期待しての意見であった。そこから「それがいい」「誰かいないか」「交渉できる人物がいいな」と上層部からいやな展開がはじまって、「開設に携わっていない営業部長ならしがらみなく切れる」「しかも交渉のプロだ」「適材適所だ」と薄っぺらい称賛と賛同の声があがり、社長が「営業部長、できるか?」という、一応断る選択肢もあるけれど断ったら島流しになるの、半沢直樹を観ているキミならわかってるよね、という意味を含んだ断れない言葉を口にするまでは、わずか数分であった。僕が話を受けると社長はひとこと「キミにしか出来ない仕事だ」と言ったのである。

自画自賛は馬鹿に見えるのであまりしたくないけれども、結果から申し上げると撤退は成功した。我ながら良くやったと自画自賛しておく。賃貸契約を解約、購入した事務備品等は見積をとって一番高いところへ売却し、採用したスタッフについては、動きの遅い人事部に頼らず、自分の営業先をあたって同条件で受け入れてくれる企業を紹介した。ひとつひとつはたいした仕事ではないが、これらを本来の仕事に加えて実質2週間で片づけるのは、本当に苦労した。特に人の処遇。本人への伝達とサポート、かったるい人事部、時間的制限、そしてこのご時世に受け入れてくれる企業を見つけること。アプローチした企業は200社ほど。苦労することが目に見えていたから誰もやりたがらなかったのだ。撤退というマイナスの仕事なので称賛を得られないのはよくわかっている。だが同じ会社で働いている仲間で、尻拭いをやったのだから、おつかれさん、よくやってくれた、という労いの言葉くらいはあるものだと思っていた僕がバカであった。

9月。部門長会議において撤退について報告した。おつかれさん。よくやった。という声が上層部からあがることはなかった。スルーだったらそれでもいい、と思っていると、上層部から「誰でも出来る仕事だよね」「しょせん後片付けでしょ」「もっとうまく出来たのではないの?」という声があがった。任せるときはあれほど「キミしかいない」と言っていたのに終わってみればこの態度。《「キミにしか出来ない」とトップから任され頑張った結果、無難に仕事をこなしてしまう》《他人のやることは簡単に見えてしまうときがある》《担当した人物が好きではない。ムカつく》。その三つの相乗効果によって「キミにしか出来ない仕事」という難易度が高くて誰もやりたがらない厄介な仕事が、「誰でも出来る仕事」へとランクダウンするのである。つまり、キミにしか出来ないと社長から任された仕事を、いいかげんにこなせる鋼のメンタルがないかぎり、逃げられないのである。地獄だ。

誰でも出来る仕事。俺ならもっとうまくやれた。などと盛り上がっている上層部にムカついていると、社長が「ちょっといいか」と手をあげて「誰でも出来る仕事を避けて、立ち上げにかかわっていない営業部長に押し付けた人間に、そんな発言をする権利はありませんよ」と一括してくれた。一同沈黙。超スッキリした。しんとした会議室で社長から「キミにしか出来ない仕事だった」と褒められた。上層部からはイヤな感じの視線を感じたけれども気にしない。一生沈黙していろ。

キミにしか出来ない仕事。労いの言葉だと思っていたけれども、「次も頼むよ」とも言われたことをあわせて考えてみると、社長と上層部の社内抗争の一兵卒、露払いとして役に立ったという意味にしか取れない。このように、「キミにしか出来ない仕事」のなかには、絶対にしくじりが許されないものがある。取り組んでいるときにそれを見抜くのは至難だから厳しい。ピンチはチャンスという人がいるけれど、ほとんどのピンチはチャンスに化けることなくピンチのままであることを覚えていてほしい。僕らに出来ることは、ピンチが大ピンチにならないことを祈りながら、目の前にある仕事を精いっぱいやることしかない。(所要時間36分)

このような胃の痛むエピソード満載の本をちょうど一年前に出した→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

GT-Rに恋をして

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スカイラインGT-Rに恋をしている。その名からスカイラインが外れてGT-Rになった今でも恋い焦がれている。きっかけは1992年に同じ高校から慶応SFCに入ったオヤマダ君。彼が親から入学祝いに買ってもらったスープラの助手席にGALを乗せて遊び回っているという噂をSFCのマリオカートで遊んでいるときに耳にした瞬間、心の中でバルルルルル!エンジンが重低音の唸りをあげて、「オヤマダがスープラでGALをゲットできたなら、GT-Rに乗ればモテモテは間違いないだろう」という邪な考えが天から降ってきたのだ。オヤマダ衝撃的な大学デビューの真偽は遂にわからなかったが、GT-Rは僕のなかで神格化されてあり続けた。カラオケでGAOを歌い、飲んでばかりの貧乏な大学時代にGT-Rに手が届くはずもなく、社会人になってもそれは変わらなかった。酒量だけは順調に増えていったが、GDPが伸び悩むのと足並みをそろえるように僕の給料は伸び悩んだ。GT-Rは手を伸ばしても届かない存在だった。それでも冴えない会社員生活のなかで一時的にGTOの松島菜々子にハマって酒を飲みながら猿のようにコスり続けたごくごく一時期を除けばGTRから浮気をしたことはなかった。2000年代のはじめに、酒と煙草の20代が終わり、酒びたりの30代がはじまった。GT-Rは遠くなるばかりだった。お見合い結婚が僕とGT-Rの関係を決定的なまでに引き裂いた。「スポーツカーなんて実用性のない乗り物いらないよね」「御意」。GT-Rを思いながら毎晩酒を飲んだ。がぶがぶ飲んだ。自分ではGAPの服でキメて、若いつもりでいたけれども、酒を飲めばオゲオゲとGEPする中高年になっていた。電球はLED。アイドルはAKB。書類はPDF。ボスはCEO。薄毛にはAGA。ゲームはGEO。あらゆるものがABC3文字に置き換えられ身近になったがGT-Rは近づいて来なかった。2010年代。肝機能検査でγ-GTPは100を越えて上がり続けた。両手は3.8L V6 ツインターボエンジンのように震えている。そこで僕は気づく。すでに僕の身体のなかにはGT-Rがやどっていたのだと。ガソリンのかわりに酒を消費しつづけている僕だけのGTR。γ-GTPを加速度的に上げつづける僕のGTRには誰も追いつけない。そしてその先にGODはいない。(所要時間13分)

新型「意識高い系」との邂逅

人の将来性を見抜くのは難しい。有望株と思った若手の成長曲線が想定よりも緩やかな角度を描くことはよくあることだ。逆に「こいつはダメだ」と失格の烙印をおした若手が伸びることもある。誰が、どう、伸びてくるのか。確実なことは言えないのだ。結果判明後のに「あの人は伸びると思った」と後出しジャンケンで言えるにすぎない。一方で、絶対に伸びない人を、僕は経験からかなりの精度で見抜けるようになってきた。成功するためには、才能や運よりも、実は足を引っ張ったり自爆テロをおこなったりする問題人間とどれだけ決別できるかにある。伸びない人は問題人間予備軍である。この文章を参考に安全距離を取っていただければ幸いである。


失敗をしたときの対応でその人の本質がわかる。なぜならうまくいっているときは、バブル期の日本のようにいいかげんな振る舞いが問題にならないからだ。うまくいっているときに、問題の前兆を察知してても「成功しているときに水を差すのもKYだよね」という気持ちがわきおこって指摘せず、その人の本質や問題が隠されてしまうからである。しかし失敗はちがう。誰かが責任や原因の全部あるいは一部を負わなければならない。

一般的に「失敗をしたとき反省をしない人は伸びない」と言われる。それに対して「失敗したときに反省する人は伸びてくる」とも言われる。実際にそうか検証してみると、必ずしもそうはなっていない。反省しない人のほとんどは凡庸でアホであじゃぱーな人であるが、なかには己に対する圧倒的な自信や強烈な反骨心を持っている人がその性質のために素直に反省できないケースもあって、その後、猛烈に伸びてきて、出世してタメ口をきいてくることがあるから一概に反省しないから伸びないとはいえない。また、反省する人のなかには反省すれば大きな問題にならないという間違った認識を持ってしまって、反省クセがついて前進できない諸先輩は多い。


確実に伸びてこないケースがひとつだけある。己では反省しているつもりだが実はまったく反省していない、というケースだ。こういう人は100%伸びてこないどころか危険分子予備軍なので要注意。自覚がないから厄介だ。失敗やミスを指摘した際に、「あ、自分でもわかってました」「やっぱりそうでしたか」「次に活かしまーす」のように、失敗を受け入れる言葉をライト感覚で口にするという特徴があるので見極めやすいのでご安心を。反省してる感、自分わかってます感、すでに学びに昇華してる感を無意識のうちに前面にだして批判や非難をかわすのだ。うまくいけば、反省してる感からの「あいつは反省しているから」という謎のプラス評価ゲットにつなげている。ミスを指摘する側も、反省と学びで構成された前向きかつ薄っぺらな言葉を前に「反省しているからいいか」と追及が緩くなってしまうのである。このような「意識高い系」に対して、我々が取るべき対応は、反省や学びという良い感じの言葉に騙されることなく、本質を突くことである。「わかっているのに何でミスをするの?わかっていてしくじるのはテロみたいなものだよ。そもそもわかっているの?わかったことをまとめてみてよ」とわかっているわかっていないの話ではなく、わかっている前提で詰めていけばよろしい。

 僕はこうやって、常に意識高い系の方々に寄り添い、彼らを葬ってきた。ところが最近、戦いは新たなフェーズに突入している。意識高い系がネオ意識高い系に進化したのだ。彼らに対して僕は苦戦を強いられている。ネオ意識高い系との特徴かつめんどくささは、意識を自分の成長や成功よりも高い次元にある人類愛や地球レベルまで拡張して高めている点に尽きる。

たとえば、ミスをして指摘されたとき、旧意識高い系のように、そこから反省や学びを見出して逃げるようなことはしない。彼らはすべてを受け入れたような、諦めたような、殉教者のような表情で「私はしくじりました。反省しなければなりません。ですが一連の行為に悪意はありません。いや関わった者に悪意があった者はいません。誰も悪くはないのです」ようなことを言って、己の失敗やミスを、わかっていても過ちを繰り返してしまう人類の悲しい性質に転嫁するのである。控えめにいって厄介。彼らのいう哀しき人類のなかには僕も含まれていて、僕自身が彼らの慈悲の対象になっているのがムカつくし、やりにくい。「人間て哀しい生き物ですよね…」という達観を持ち出してくるネオ意識系との不毛な戦いがしばらく続くと思うと頭が痛い。(所要時間26分)

明石順平著『キリギリスの年金』は悲観が武器になることを教えてくれる一冊でした。

明石順平著「キリギリスの年金」 を読んだ(献本あざす)。帯カバーにあるような『老後を年金だけで過ごすことは絶対不可能』という目を背けたい未来がなぜ訪れるのか、二千万円問題から公的年金の仕組み、年金財政、アベノミクスをテーマに、データと労働問題から公的年金のありかたを解説した一冊で、特筆すべきは年金の都合の悪い部分(マクロ経済スライドなど)を、躊躇なくばっさりと切り捨てているところ。僕は社労士試験合格者で年金の基礎については多少学んでいるけれど、年金についての書籍は、明らかに年金受給者にとってマイナスなことについて、どういうわけか、わりとあっさりとした解説で終えているものが多く、残念に思っていたが、その点、本書は良かった。 

本書をひとことであらわすなら『悲観することの大切さを教えてくれる一冊』になるだろうか。よく考えてみてほしい。負担はしたくない。でも貰うものは貰いたい。そんなうまい話は世の中にはない。もしあるとすれば、それは詐欺やインチキ、そして公的年金。それでも公的年金については、盲目的に貰えるものだと信じている人は多いのではないか。それはなぜか。著者はありもしない経済成長をかかげて、国民に求めるべき負担を求めてこなかった政治を厳しく断じている。特に、アベノミクスについては、物価目標を達成してもマクロ経済スライドで実質減額され、「どう転んでも年金生活者にダメージを与える」政策と辛辣だ。

著者は、国民への給付やサービスの満足度の高い国(北欧など)はどこも高負担で、日本のような高給付、低負担な国はないとデータで示し、日本が公的年金を維持するのなら、相応の負担が必要だと結論づけている。そのためには労働者の賃金を増やして、負担できる能力を上げることが必要、つまり国として成長していることが不可欠だが、実際は、成長は停滞し、生産性も低いままになっている。その原因を著者は「すべての原因は低賃金、長時間労働」と断じ、その根底にあるのは、負担はしたくないが貰いたいという都合のいい考えが国民にあり、選挙で票をとるために負担を課してこなかった政治の無責任であるとしている。いってしまえば問題から目をそらし、悲観することを避けてきたということだ。

本書は年金危機を切り口に、将来へのツケを延ばし延ばしにしてきた政治と、それを知っていながら他人事のように見過ごしてきた国民への警鐘だ。すでに亡くなってしまった先輩は勝ち逃げが出来たけれども今生きている人全員がツケを払うときがきている。それがどういうカタチになるかはわからない。そのカタチを著者は「破滅するしかない」としている。破滅する。強烈なメッセージだ。僕は「破滅する」と書かれたページに達したとき強烈すぎて飲んでいたコーヒーを吹いてしまった。コーヒーの噴出をおさえようとして本を汚してしまった。画像→

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しかしウラを返せば、まだ破滅していないとも読み取れる。たとえば、無関心であった人が老後二千円問題で危機を自分のものとしてとらえたように、何十年か先に給付されるであろう年金を、自分のすぐそばにある危機としてとらえれば、破滅とはちがうルートを取れる可能性だってある。著者はそう言っているように僕には思えてならないのだ。

本書と同じ日にたまたま瀧本哲史氏の「2020年6月30日にまたここで会おう」を読んだ。2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義 (星海社 e-SHINSHO)「2020年6月30日~」も現状に危機感を持って自分の武器で戦う大切さについての本であった。危機感を持って、それぞれが将来を正しく悲観すること。それが破滅を避けるための、僕らの武器になるのではないだろうか。(所要時間25分)