Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

新型コロナで社内断絶が起きました。

8月某日、朝。幹部会議がはじまって30分が過ぎようとしていた。僕は絶望していた。会議室にいることを怨んだ。なぜなら30分経過したのに、実際には、会議は始まっていないからだ。バカバカしい権力闘争を見せられていた。ノートの片隅にコロ助を書いていた僕に声がかかっって、現実に引き戻された。「営業部長、キミはどう思う?」 A専務につくかB常務につくか。僕は、夢いっぱいの藤子不二雄ワールドから汚い現実に引き戻されたのだ。

30分前。「熱中症が予想されるため、本日の幹部会議は予定通り行われます」という挑戦的な社内メールにムカついた僕は会議室に一番乗りした。ホワイトボードに書かれた「フードロス促進!」という謎ワードに溜息をつきながら末席に座り、参加メンバーの到着を待った。地方の食品会社の幹部会議。ウチの会社は先代社長時代からの重鎮であるA専務とB常務、ともに70代の派閥争いが激化している。毎回、唾を飛ばし、軽度の認知症の症状なのか、話題も飛ばす、どうしようもない争いで、もはや会社の幹部なのか患部なのかわからない。

会議前の互いを探り合う無意味な雑談タイムから地獄だった。発端はA専務の「ウチは食品会社だから、顧客先を巡回する現場スタッフには、社で『ワクチン接種済証』を発行して掲示させるべきではないか」というひとことであった。確かに一理あった。実際、顧客先を巡回するスタッフからは「客からワクチン接種の有無をきかれたときどう対応すればいいのか」という質問はあった。ワクチンを強制することはできない。ケースバイケースで個別に対応するしかなかった。だからA専務の提案はデリケートゾーンを飛び越えて社としての姿勢を打ち出す強いものだった。

同時に、危うい意見でもあった。そこに噛みついたのがB常務であった。「ワクチンを接種しない権利もある」「専務の提案は人権を蔑ろにするものだ」と語るB常務、同じ口で「社員は兵隊だからただ役員の命令に従っていればいい」といっていた過去をお忘れになったらしい。重ね重ね認知症には気を付けてもらいたい。B常務は夏のはじめに僕を呼び出して「ワクチン接種の大切さ」について独り言を聞かせてくれた。「仕事をするうえでワクチン接種は不可欠だ。それに私のような高齢者がワクチン接種によって重症化を防げば、地域医療の圧迫の原因にならない。だから私はワクチンを接種するつもりだ」ワクチン接種の大切さを平均的国民レベルで知っているB常務が、ワクチン証明書に反対している姿に、僕は胸が熱くなった。彼の人権意識の高さと人間の善意を信じる姿勢に。

醜い権力争いの最中、B常務のワクチン未接種が発覚した。「副反応が怖いから」が理由であった。予約をキャンセルしたらしい。うん。怖いモノは仕方ない。形勢逆転であった。A専務は長年の宿敵を鎮めるべく反転攻勢に出た。その内容はエグいものであった。「そこまで権利を大切にされるのであれば、私も大切にしたい。接種しない人にも理由と権利がある。だったらそれを表明すればいのではないか」といって「ワクチン未接種証明証」を提案したのである。ワクチン未接種証!性格が悪すぎやしないかと思われたが、宿敵に人権無視マン扱いされたリベンジに燃える人間を止めるものはなかった。取り巻きを巻き込んでバカバカしい権力争いは続いた。

それから30分。まだ会議ははじまっていない。あまりのバカバカしさに傍観を決め込んでいた僕にA専務とB常務が「キミはどう思う?」と聞いてきた。どちらに付いても面倒くさかった。同時にこの騒ぎを、おさめないかぎり会議がはじまらないという現実があった。どうするべきか悩んだ末に、僕は「バカバカしいですね」と率直な感想を言った。僕は必要悪になることを選んだ。効果は絶大で、A専務B常務ともに「キミのような人間がいるから」と1分前までの戦争を忘れて共同戦線をはって二人で僕を攻めてきた。責めてきた。

僕を詰問したあとで、何事もなかったかのように会議ははじまった。お二人とも軽度の認知症なのだろうか。僕は、毒にも薬にもワクチンにもなれないが、断絶を埋める必要悪にはなれる。いや、専務派にも負けず、常務派にも負けず、そういう必要悪に僕はなりたい。(所要時間24分)

世知辛い会社エッセイを多数収録した本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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フジロックは『24時間テレビ 愛は地球を救う』要素が圧倒的に不足しているからダメ  

フジロック(「FUJI ROCK FESTIVAL’21」)を配信で視聴した。推しのバンドやミュージシャンはいないけれども、それなりに良かった。推しのバンドやミュージシャンがいない僕でも楽しめたのだから、推しのある人は楽しめたのではないだろうか。配信にはまったく問題なかったので、これをうまく収益化できれば、わざわざ現地に人を集めなくてもいいのではないかと思ったが、それは野暮というものだろう(個人的には50年前のロックフェスから続いているほぼ同じやり方を改革していく契機にすればいいと思う)。なお、僕の立場を表明しておくと「こんな時期にわざわざフェスをやらなくてもいいのでは派/無料で配信なら見てもいい組」になる。

新型コロナ感染拡大下でフジロックのようなイベントを開催する人、参加する人を反知性、馬鹿者と評する意見もみられる。わからないでもないけれども、いささか乱暴だろう。なぜなら「ウエーイ!こんなときだからこそロック!」と騒いでいる反知性的は人は論外であって、大半の人は現状を理解したうえで理性で判断して開催し参加しているからだ。つまり、そこには彼らなりのフジロックをやる、参加する大義、根拠、必然性があるはずだ。それを音楽やパフォーマンスで表現するだけのことである。残念ながら配信からは伝わってこなかったけれども、それは現地でフルスペックのパフォーマンスを体感して初めて伝わってくるものだろう。

残念だったのはパフォーマンスではなく、フジロック各参加ミュージシャンやバンドメンバーのMCやSNSにおける言葉である。「こんな時期に…」「大変な状況であることは理解しているけど…」からの、音楽に携わる人の生活を守る、カルチャーを守る的な意義を語る言葉には本当にがっかりしてしまった。特に意義を盾にオリパラを進める政府(政治)に否定的な意見を表明していた、フジロック参加者(ミュージシャン・バンド)は、自らの言葉がブーメランになって突き刺さっているだけに見えた。つまり、彼らは、彼らが「オリンピックは特別なのか」と批判していた政府と一緒で自分たちは特別であると表明しているようなものであった。

この時期にロックフェスをやる必然性や意義ではなく、それらを補強する具体的な言葉が聞きたかった。具体的にはカネの話を聞きたかった。

政府に出来ないことをやるのがロックである。だから政府には絶対いえないであろう「こんな状況でやるのは、ずばりお金のためです。我々はカネが欲しい」をガツンと言って欲しかった。生々しく熱いストレートな言葉で。僕らは「こんな状況下で…」「生活を守る」みたいな曖昧な綺麗事はもう聞き飽きている。「生活がヤバいんだ」「カネがいる」「こんな時期にやるのはとにかくマネーのためなんだ」「部屋代と生活費に困っているスタッフがいるんだ」「このフェスで〇〇円稼ぐんだ!」といった生々しさが足りていない。カッコ悪いからだろう。生々しさはカッコ悪い。ダサい。だが、厳しいことをいえば、「こんな時期に…」的なお気持ち表明はマスターベーションはもういらない。去年からお気持ち表明で僕らはお腹いっぱいなのだ。

フジロックに圧倒的に足りていないのは「24時間テレビ」的な要素である。もう何年も観ていないが「24時間テレビ」は番組の終盤に募金総額を高らかに読み上げる。そこにあるのは、「反論や反感があるかもしれませんが、これだけ金を集められる。だからやるんだよ」という強い意志である。あえて必要悪になるという覚悟。フジロックにはそれが感じられなかった。

フジロック各参加ミュージシャンやバンドはお気持ち表明ではなく、24時間テレビ的な要素を取り入れて「今回のフェス開催によって、いくら稼げました。ギャラと経費を引いてスタッフにはこれだけのカネが支払えます。必要なものはとにかくマネー!マネー!マネー!サポートありがとう。手洗いと消毒はしてね」とMCやSNSで具体的な収支報告をすべきであった。五輪開催において政府や政治は意義を表明できるが金稼ぎとは絶対にいえない。フジロックにはそれができるし、やるべきであった。それが正しき反体制というものだろう。

フジロックきっかけの感染爆発やクラスターが発生したときは関係者はどう責任を取るつもりなのか興味がある。責任なき大騒ぎはただの反知性のバカである。まさかそこまで阿呆ではないと信じている。(所要時間23分)

離婚することになりました。

離婚することになりました。残念な気持ちはない。一ヵ月間彼女と話し合ってきた結果だからだ。彼女と僕は一回り以上年齢が離れている。話合いでわかったことは、考え方や価値観の違いは否めない、ということだ。最近流行りの熟年離婚ということになるのだろうか。法律的に何といえばいいのか、考えながら、今の気持ちを文章にしてみたい。
原因と理由について、彼女は、「介護をしたくない」「顔を思い浮かべるだけでゲボが出る」「面倒くさい」等々を挙げたが、本音はわからない。あえて掘り起こそうとも思わない。彼女を尋問して隠された不満を剥き出しにすることに何の意味があるだろう。終わる関係をさらに虚しくするだけだ。人生とは、関東ローム層のように厚く積み重なった不満のうえを、ひとつひとつの層を意識せずに歩いていくようなものなのだ。生活に大きな支障はない。彼女は活き活きとしている。お互いに生まれたときの名前に戻るだけのことなのだ。彼女には彼女の姓があり、僕には僕の姓がある。届けを出せば、彼女にとっての忌まわしい記憶とともに、関係は終わる。見方を変えれば、関係は変わらないともいえる。僕にはかすがいになる子供はいない。思い返せば、彼女とはずっと一定の距離を保った関係だった気がするからだ。こづかいはたいして貰えず、理不尽に叱られ、酒をガブガブ飲んでは怒られた。赤ちゃんプレイに付き合ってくれなくなって久しい。もっと紙おむつを替えて欲しかった。バブバブしてみたかった。もうやめよう。彼女のなかで結論は出ているのだ。法で定められた届を役所に提出すれば関係は終わる。僕に出来ることはドライな考え方をする女性という認識を持ち続けるだけである。彼女と話し合いをしているとき、子供の頃から使っているアップライトピアノが目に入った。40年以上の付き合いのあるピアノだ。メンテを入れて使い続けているがボロは隠せない。メンテをしながら生きる人生と新しい人生。どちらが幸せなのだろう。センチメンタルにすぎないな。もうヤメよう。僕らはこれからも生きていくだけだ。元々平行線だった人生が終るまで続いていくのだ。彼女は姻族関係終了届を提出して、30年近く前に死んだ父の姻族との、彼女いわく忌まわしい関係を終わらせる決断をした。近々、彼女……母は死後離婚することになるだろう。そして僕は今月末で結婚10年になる。ライフイズビューティフル。(所要時間15分)

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小山田圭吾氏の大炎上問題でわかったこと。

過去の言動によって東京五輪の音楽担当を外された小山田圭吾さんの爆発大炎上がとどまることを知らない。所属しているバンドの新譜が発売中止になり、その関連のラジオ番組も終了になった。小山田氏のキャリアが終わってしまいそうな勢いである。

 1991年の秋、僕は、氏が組んでいたフリッパーズ・ギターの「ヘッド博士」を、プライマルスクリームの「スクリーマデリカ」とニルヴァーナの「ネヴァーマインド」といったロックの歴史的名盤と同じくらいよく聴いていたので、現状は残念でならない。「ヘッド博士」から数年後、今回の問題になった氏の発言が掲載された雑誌もリアルタイムで読んだ(大学のサークル室に置いてあった)。報道されているとおり、酷い内容だった。詳細は覚えていないけれど、小山田氏も聞き手も「ひでえ(笑)」みたいなトーンだったと記憶している。

小山田氏の炎上は完全に自業自得で弁護できるものではない。と僕は思ったけれども、それでも、擁護や理解を示している人たちがいる。僕の観測したかぎりでは大きく分けて二つあった。ひとつは、雑誌が世に出たときには「鬼畜」な内容が受け入れられる時代であったという視点を持たなければならない、というもの。もうひとつは、脛にキズのない人間なんていないだろう、というもの。

 前者は論外である。鬼畜な内容のものはあったけれども、決して受けてはなかったし、メインストリームになることもなかった。「ひでえ(笑)」というノリは内輪であって、受け手の多くは「ひでえ(真顔)」だったと思う。「ひでえ(笑)」できる俺たちはスペシャル、という悪ノリ意識があったのだろう。それは時代性ではない。いつの時代にもある。時代や世代の問題にするのは、頭のいい人たちの悪いクセである。

 後者の擁護には、今回の炎上を大炎上にかえている構図が隠れている。「脛にキズのない人間はいないだろう」は言い換えれば「脛にキズがなければ非難して良い」である。そこから「罪のない人だけが石を投げなさい」という姿勢が生まれる。それは「障がいのある人に排泄物を食べさせるような重罪を犯していない人は石を投げられる」に変質し、世の中の大半の人間はそのような重罪を犯していないので、我が身を振り返らずに石を投げまくられるのである。今回の炎上の原因になった言動のようにありえないものである場合、「脛にキズのない」云々の擁護は擁護になるどころか、炎上にニトロを注ぐようなものである。

 不思議なのは、小山田氏がオリパラのような、国家事業、超メインストリームの仕事を受けたことである。よく言われているのは、「障がいを持った人に対してあのような酷い言動をしたのに、なぜオリパラの仕事を受けたのだろう?」という意見である。僕の印象は少し違う。例の言動以前から、たとえばフリッパーズ時代から、斜に構えた発言を繰り返していた小山田氏がオリパラのような、かつての氏ならバカにしていた仕事を受けたことが不思議であった。

 氏はもともと陰口野郎(失礼)であった。確かコーネリアスの1stが出た頃の雑誌インタビューにおいて、歌番組で一緒だった国民的男性アイドルグループSの格好や、匿名で失礼するがTKという人がプロデュースしたダンスユニットを小馬鹿にする発言をしていたのをよく覚えている。フリッパーズが一部の人に受けたのも、そういった表では言いにくいことを陰ではっきり言うキャラクターがあったからだろう(フリッパーズ時代からの言動が掘り起こせば、その種の発言はいくらでも出てくるはず)。そういう人がオリパラのような日の当たる場所の仕事を受けるのが、不思議でならなかったのだ。余談になるが、フリッパーズ解散後の小沢健二さんがキラキラなポップスターになったのも薄気味悪かった。「あんた…カローラに乗るような人かよ」って。小沢氏の場合は確信犯で演じていたのだけれども。小山田氏と小沢氏はイニシャルをとってダブルノックアウトコーポレーションを名乗っていたが、時を同じくして両者ともスキャンダルでノックアウト寸前なのは実に味わい深い。

 小山田圭吾氏が年齢を重ねて、それを成熟というのか劣化と評価するのかは受ける側の判断になるけれども、オリパラのような最大級の公な仕事を受けたのは、かつての尖がっていた氏を知っている者としては寂しい思いがある。権力に寄り添うのは、僕のようなサラリーマンな生き方と変わらないからだ。サラリーマンは問題を起こしたら切られる哀しい存在である。氏がオリパラのような国家的規模の超メインストリートに行かずに、サブカルのまま好きな音楽を作っていたら、氏にとっても幸せだったのではないかと思う。

 今回のオリパラ開閉会式における一連の騒動によって、「あいつら面白いよねー」つって軽いノリで起用して、問題が起こったらあっさりと切り捨てて責任をとらないでいる人たちの存在が明らかになったこと、そして彼らがカルチャーを大事にしているようで実は使い捨てにしていることがよくわかった。マジでクソである。ついでにいえば、広告代理店出身のクリエイターの限界が見えて良かった。

 小山田氏や元ラーメンズの小林氏を切り捨てた人たちがどのような開会式を作り上げるか楽しみにテレビで観ていたら、ジョン・レノンの「イマジン」が流れてきて、そのわかりやすいベタな感性に感動してしまった。クリエイター最高。閉会式は小田和正さんの名曲「言葉にできない」を流してください。(所要時間30分)

このようなカルチャー論も収録したエッセイ本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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1984年、あの夏のブラジャーを忘れない。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

はじめてブラジャーを意識した、あの暑い夏の午後を僕は今でもはっきり覚えている。1984年、小学5年の夏休み。街を取り囲む山々の中に、雨上がりの日姿をあらわすと噂されていた幻の湖を友達と探しに出かけたときだ。夏草の伸びた道を男友達3人と幼馴染のSに続いて僕は歩いた。Sは近所に住む小柄な女の子だった。真夏のギラギラした太陽。全方向から降り注ぐような蝉時雨。額をダラダラ流れる汗。いつからそれらは僕のなかで暑苦しく、騒々しく、臭いものへと変わったのだろう。

行く手を小川が遮った。川幅は狭く、流れは遅い。深さは膝くらい。僕らは小川を順番に飛び越えた。僕の番が来た。なかなか踏ん切りがつかなかった。柱に足をぶつけて左足親指の爪がはがれる怪我をしていたのだ。何も知らない悪ガキたちにはただの意気地無しに見えたのだろう。すでに飛び越えた彼らは「こわいのかよー」「ヘイヘイヘイびびってる」と僕をからかった。Sが僕に一生忘れないエールを飛ばしてきた。「(自主規制)」そのエールは今でも僕に勇気を与えてくれている。僕は翔んだ。ハミングしながら前を歩くSちゃんの背中のシャツ越しにブラジャーが見えた。それまで一緒に遊んでいた彼女が一歩先を歩いているように思えた。僕らは幻の湖に辿りつけなかった。

Sとは中学生になってからは顔をあわせれば挨拶をする程度の関係性になった。別の高校へ進学してからは顔を合わせることもなくなった。20代半ばでSは結婚した。僕の家の近くに洒落たつくりの家で彼女は暮らし始めた。紫陽花の咲く庭と大きな外車の停めてある駐車場。旦那さんは長身で少し年下の男だった。彼女の実家は資産家だった。親御さんが娘を近くにおいておくために与えた家だと信頼できる情報筋、僕の母から教えられた。

仕事を終えた僕は毎晩、彼女の家の前を通って帰った。ときどき明るい窓から楽しげな声が漏れてきた。休日の朝は彼女が洗濯物を干すところを何度も見た。ハミングが聞こえるときもあった。もしかしたら聞こえた気がしただけかもしれない。何年か経って洗濯物に小さな女の子向けのシャツが混じるようになった。「子供がSちゃんにそっくりなのよ」と母から聞いた。数年後。30代を迎えた僕はほぼ毎日残業。帰宅は23時。Sの家は暗く静まりかえっていた。若い世帯のわりに夜は早いのだなと違和感を覚えた。大きな外車が見当たらない日もあった。

休日の朝、Sが娘と洗濯物を干しているのを見かけた。目があった。僕らはお互いの無事を確認するように手を振り合った。ハミングはもう何年も聞いていない。今こうして文章にしているけれど、あの頃の時間の中にいた僕は何にも気づいていなかった。あの夏、突然、目の前にあらわれたブラジャーのように、大切なことは知らないうちに起こるのだ。そして気がついたときには僕の手は届かないところにある。

「旦那さんあまり家にいないみたいよ」ハミングを聞かなくなって随分と時間が流れてから、そんな話を聞いた。情報源は毎度おなじみの母だ。旦那は夜遅くまで外にいるらしい。僕にはどうしようもなかった。僕にとってそれは飛び越えるべきあの夏の川ではなかった。年に数回、顔を合わせると僕とSは手を振り合った。母と駅で待ち合わせをしたときSの旦那を見かけた。母から教えられてはじめて彼の顔を知った。見覚えがあった。真夜中、帰宅する途中立ち寄っていたコンビニで見かける顔だった。彼はコンビニの外で飲み物を飲みながら電話をしていた。店先で仲間とバカ話をしていた。あの顔だった。平日の夜、仕事からの帰りに見るSの家はいつも暗かった。休日の朝、Sの家からハミングは漏れてこなかった。

ある夏の日、ちょっとした奇跡が起きた。あの幻の湖を追いかけた日のような暑い夏の午後だった。Sは庭の草木に水やりをするために道に面した生け垣に身を乗り出していたのだ。こんにちは。久しぶり。元気?最近どう?家族とはうまくやってる?まともに話すのは20数年ぶりだ。どんな言葉もふさわしくない気がした。僕はあの夏の日に彼女が口にした過激な言葉を口にしていた。「タマついているか?」「付いているわけないじゃん」と彼女は笑った。バカ笑いだった。僕らはたったそれっぽっちの言葉を交わして別れた(それから10年くらい経ったけれども彼女とは顔を合わせれば手を振り合うくらいで言葉は交わしていない)。

セカンドサマーオブタマキンが起きた夏の日から何年か経って母からSが元気になったと教えられた。毎日、夕方になると娘と楽しそうに犬の散歩をしているらしい。彼女の家の表札は昔の苗字になっていた。車は小さな国産車に変わっていた。彼女はまた川を飛び越えたのだ。実は彼女が川を飛び越えた姿をまったく覚えていない。印象に残らないくらい、軽やかに、何事もなく飛び越えたのだろう。僕らは飛び越えられるのだ。何歳になっても。どんなものでも。そして、あの夏のブラジャーは、いつもギリギリで僕の手の届かないところにあった。(所要時間29分)