Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ホンモノの悩みと付き合うということ。

この記事は12月16日にKADOKAWAから発売される僕の新著『圧倒的な世界観で多くの人を魅了する 神・文章術』からの先出しです。今回抜粋するのは、書くことで悩みを分解しよう、というテーマの部分です。

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・「何を悩んでいるのかわからない」という状態が悪

 

「給料が少なくて、生活が苦しい」「亭主が多目的トイレで不倫を繰り返している」などと悩みをダイレクトに書き出しても悩みそのものを直視する結果となり、辛くなるばかりだ。さらに落ち込んで、悩みに取りつかれた悩みゾンビになってしまう。

 

悩みについて書くときは、漠然と悩みそのものを列挙するのではなく、「悩みを減らす」という目的を明確にしてから取り組もう。自分の言葉で悩みを分解する目的意識を持って、書いていくのだ。

 

【分解のポイント】 ・悩み始めたきっかけ ・悩んだ結果 ・悩みの影響

 

悩みそのものについてでなく、悩みをとりまくもの、なぜ悩むようになったのか、いつから悩むようになったのか、その悩みはいつもあるのかそれとも時々なのか、について書いて明確にしていく。そうやって悩みを分解することによって、「即座に解決できない悩み」と「解決への道筋の見える悩み」と「悩みとは言えないもの」が選別できる。悩みが確実に減っていく。整理される。

 

最終的には、「人生を賭して悩むべきホンモノの悩み」が残る。書いて、自分の言葉に落とし込んで整理するば、正体不明のモヤモヤした悩みも、明確になる。頭のなかで悩み続けていては、言葉による明確化がされないので、モヤモヤを消し去れない。モヤモヤを削ぎ取って悩みをスリムにすれば、「何に悩んでいるのかわからない状態」には陥りにくくなる。生きるのが楽になる。

 

・書くこと、世界観を持つことが悩みの特効薬/ホンモノの悩みと対峙せよ 

 

書くことで、「悩み」と思い込んでいたものが、「悩みではない」とわかるようになる。悩みとの位置関係や距離がはっきりなるほど、つまり世界観が確立していけばいくほど、悩みの見極めは容易になる。

 

たとえば、「仕事上の悩みは給料とペイするものだと割り切っている」そういう世界観が確立していれば、仕事上の悩みは実質「悩み」ではなくなる。または、「俺はロックスターになる。歌詞に人生の苦悩をあらわすために、この地上にあるあらゆる悩みをこの身に受けてやる」……、このような世界観を持っている自称「ジョン・レノンの生まれ変わり」なら、朝、玄関の前で踏み潰してしまったアリンコの痛みも苦悩になるだろう。

 

このように、世界観はその人の世界の見方である。     線引きの線である。悩みが多すぎるという状態は、この線が確立していないということだ。世界観があれば、悩みを容易に振るい落とせるようになる。


・ホンモノの悩みとは

 

書くことで、悩みではないものは切り捨てる。自分の努力で解決できるものは、悩みではなく、課題だととらえる。「彗星が落ちてきたらどうしよう」という一個人で悩んでもどうにもならないものも悩みから除外していく。こうやって振るい落としていき、残ったものが「ホンモノの悩み」である。悩みではないものを取り除くことによって、はじめて、ホンモノの悩みと全力で対峙することができるようになるのだ。細部まで書くことによってさらに正確に、悩みの姿をとらえられるようになり、有利に戦える。

 

「ホンモノの悩み」が魔法のようにパッと消えることはない。僕は40年以上生きてきて、最近、こうしたホンモノの悩みと対峙することは、人生の贅沢なのではないかと考えるようになった。ホンモノの悩みは、自分自身の影のようなものだ。どこまでもついてくる。とことん付き合ってやろう。

 

「トロッコ問題」という「人を助けるために、他の人を犠牲にするのは許されるのか?」という倫理学上の問題がある。「暴走したトロッコがこちらに向かってきている。あなたは線路の分岐にいて、何もしなければ線路上にいる5人が死ぬ。だが分岐を操作して別の線へトロッコを引き込めば、5人は助かるがそのかわりに確実に1人は死ぬ。あなたならどうする?」という内容で、様々な立場と見識から意見を出し合うが、完璧な答えは存在しない。そして、「トロッコ問題は難しいな~」といって皆で腕を組んで首をかしげて悩んでしまう。

 

じつは、僕らが抱えている問題や悩みは、トロッコ問題より数段複雑で、ずっと高度だ。たとえば「部下がいうことを聞かない。ムカつく」という問題はどこにでもありふれたものだ。だが、細かい条件はすべて違うので、解決方法も問題の数だけ存在する。トロッコ問題は、前提となる条件が整理されているが、僕らが日々悩んでいることは、どんなくだらない問題であっても、条件が未整理かつ複雑怪奇で、そのうえ、トロッコ問題と同じかそれ以上に難しい問題が含まれている。明確な答えはなかなか見つからない。もしかしたら答えはないかもしれない。パッと消えるなんて、ありえないのだ。奥様がどれだけ理不尽な発言をしても、それを非難したら負け。僕らはそういう解けないパズルを抱えて、生きているのだ。

 

「ホンモノの悩み」について、思い切り悩もう。全力で悩み、全力で考え抜けば、「ホンモノの悩み」だって解決できる。振りかえってみると、若い頃持っていた、ぼんやりとした悩みのなかにも、「ホンモノの悩み」があったはずだ。書くことを知らなかった当時の僕は、その悩みをモヤモヤのままで素通りしてしまった。あの頃の悩みが今の僕に訪れることは、もうない。本当にもったいないことをしたものだと、最近わりとマジに後悔している。

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取引先の新人女性から「彼女いますか?」と聞かれました。

100億年ぶりに女性から「カノジョさん、いないの?」と言われたとき、どこか懐かしく甘い匂いがした。何の匂いだろう?僕は言葉を探しながら考える。そして捜し当てる。再生、確認。間違いない。真夏の海岸で嗅いだコパトーンの甘い匂いだった。「彼女はいませんよ」僕は言った。妻の目を盗み、真実と嘘のボーダーをかすめるようにして。年の離れた相手に。

声と匂いの主はクリニックを運営している法人で事務職として働く女性で、今年の春から働いている新人さんだ。僕がクライアントである理事長先生と面談する際はいつも、彼女が応接室に通してくれた。麦茶から番茶へ。季節の移り変わりと共に彼女のいれてくれるお茶と交わす言葉も変わった。「今日は暑いですね」「夕立になりそう」「あっという間に秋が来てしまいましたね」彼女はいつもとびきりの笑顔で僕みたいな中年男に話しかけてくれた。そして今日の「カノジョさん、いないの?」カノジョという響きが新鮮だった。「ご結婚は?」「お子さんは何人?」年齢相応のクエスチョンで乾ききった僕の心にカノジョの響きは染み渡った。僕が置き去りにしてきた言葉たち。腐敗して朽ち果てず、死蝋化した響きたち。カノジョはそのメンバーだった。47才、恋を忘れていたモノクロの時間に色彩が回復した。こんな甘酸っぱい時間はラブプラス以来かもしれない。姉ヶ崎寧々が頭に浮かんだ。寧々姉さんとの止まっていた時間が動き出すかもしれない。

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「おいおい熱くなるなよオッサン」常識が肩を叩いて待ったをかける。ムリだろ。とても。確かに。事務ガールと僕は親子ほどの年齢差があった。アバウト25イヤーズ。生きてきた時代や考え方もまったく異なるだろう。越えなければいけないハードルを考えると頭をかかえてしまいそうになる。その一方で25年を飛び越えてしまえば、経験したことのない甘美を味わえる。期待があった。背筋ゾクゾクするような背徳に支えられたコパトーンの甘美が待っている。そんな予感がした。常識が僕の肩を叩く。そして言う。「冷静になれよ。どう考えてもムリだろ?破滅する気か?」うん。確かにムリだ。事務ガールの胸にあるバッジに刻まれた「シルバー人材センター」という文字列が僕に現実を戻した。どう考えてもムリだろ。絶対。気がつくとコパトーンの匂いは実家の母ちゃんの匂いに変わっていた。(所要時間10分)

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圧倒的な世界観で多くの人を魅了する 神・文章術

「書き捨て」について

この記事は12月16日にKADOKAWAから発売される僕の新著『圧倒的な世界観で多くの人を魅了する 神・文章術』からの先出しです。今回は、「どうすれば書けるのか」に対する回答部分です。

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・「書き捨て」はひとりカラオケである。

「どうすれば書けるようになるのか?」という問いへの答え。
それは「『書き捨て』をしよう」である。
「書き捨て」とは、僕が苦難に満ちたサラリーマン生活を経て、やっとたどりついた、オリジナルのメソッド。
文字通り、紙にシャーペンやボールペンで、思うがまま書いて、あとに残さないで捨てるという手法をさす。
もちろんあなただって、今までに何度も「書き捨て」を経験しているはずだ。
何枚もの紙にアイディアを書き、丸めては捨て、破っては捨て……。
むしろ「『書き捨て』なんて、したことがない」という人のほうが珍しいかもしれない。

ただしこの手法は、無意識に行っても効果は期待できない。
明確な目的意識が伴ってこそ、人生をより良いものに変える数多くのメリットをもたらしてくれる。

僕はこれをずっと続けている。心にひっかかったものについて、書いては捨てる。残さないからこそ、自由に、自分の言葉で書くことができる。
いったい、どういうことか、お話ししてみよう。
「書いたものは、残す」というマイルールを自分に課した場合。それは少なからずプレッシャーとしてのしかかってくる。
ブログなんて特にそうだ。もちろん、ボタンひとつでいつでも削除できる。
とはいえ「残す(世間様に公開する)」と決めた時点で、いかに慣れている僕でも肩に力が入ってしまう。
Twitterなんて、なおさらだ。Twitterは文面の修正がきかない。たった140文字といえども、誤字脱字、反響を考えると、なかなか気軽につぶやきにくい。 
残すことがプレッシャーになってしまうくらいなら、
あらかじめ、「書いたものは、捨てる」と決めてしまったらどうだろう。
気持ちが軽くなり、いくらでもペンを動かせそうだ。
すると、心が自由にのびやかになり、それまでは感知できなかったことにまで、気付けるようになる。フィールドが拡がる。それは、とても大事なことだと思う。

たとえば「筆がすべる」なんて言葉がある。「調子に乗ったあまり、余計なこと(間違ったこと)を書いてしまう」というネガティブな文脈で使われる言葉だけれども、僕は、それでいいんじゃないかとすら思う。だって、自分から自由自在に言葉が沸き上がってくる状態になるだけでも、素晴らしいことなのだから。書くことくらい自由に、調子に乗ってしまおうじゃないか。

 

メモやノートや予定帳のように「書き残すもの」には、後で読み返して勉強の参考にする、記憶を補填するといった、何らかの意図と目的がある。読み返すために、ある程度体裁を整える必要もある。

 

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それに対して「書き捨て」は、残さないことを前提にしているので、目的や意図や必要に縛られない。体裁を整える必要もなく、気楽に自由に書ける。ぐちゃぐちゃでもいい。たとえば、ミーティングで同僚の前で、ふと心に浮かんだくだらないアイディア(しかも言語化されていない)をホワイトボードにそのまま書けるだろうか。難しい。周囲から「錯乱したのか」と白い目で見られてしまう危険性もある。

オーディエンスがいると自由に心のままに書けないのだ。だが、誰にも見せない、将来見返すこともない、書き捨てなら、どんなことでも書ける。自分以外には理解不能な言葉や図で書いてもいい。書き捨てはひとりカラオケのようなものだ。観客のいない、ひとりカラオケなら音程を外そうが歌詞がめちゃくちゃだろうが自由になれる。アレンジだって自由自在だ。書き捨ては、一人カラオケと同じように、ルールや常識から逸脱して自由になれるのである。

◆「書き捨て」とは?
1.紙に書く(裏紙でいい)。
2.残さない意識を持つ。
3.消しゴムや修正液で消さない(削除は線で)。
4.かならず捨てる(人に見られるのが心配な人は、クシャクシャに丸めてもよい)。

書き捨てと並行して文章を書き続けているうちに、自分がどういう人間なのか徐々にわかってきた。世界観が構築されていった。その世界観からの観察をベースに、ブログを書くようになってから、読んでくれる人も次第に増えていった。文章を通じて僕という人間に興味を持ってくれる人が増えてきたのだ。

僕が書き捨ててきたテーマは、「仕事がうまくいかなかったとき、何が原因だったのか」「若手や上司とのあいだにあるジェネレーションギャップとどう付き合えばいいのか」「チームのマネジメント上で、経験のない問題に直面したときの打開策」「企画提案で他社を圧倒できるアイデアを発想したい」「今の悩みをどうやって目標に変えればいいのか」といったところだ。普通に生きている人にありがちな、ありふれた、しかしながら一筋縄では解決できないものばかりだ。

書き捨てを続けていくうちに、「このままじゃダメだ」という焦りと悩みがまじったモヤモヤした気分も次第に晴れていった。それから今日まで楽に生きられている。気が付くと、ウェブ日記と書き捨てを始めてから20年近くの年月が経っている。

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僕は小室圭さんを応援したい。

ニュースで眞子様と佳子様のロイヤル姉妹のエモいハグを見た瞬間、僕は眞子様と小室圭さんのご結婚を祝した。祝したといっても、「しょうがないなあ」という消極的賛成である。もともと僕はお二人の結婚に対して否定的ではない。だから、ロイヤル姉妹のエモいハグは祝すきっかけにすぎなかった。

実は、かねてから小室圭さんに対してある種のシンパシーを抱いていた。圭さんほどのレベルではないが、僕も結婚については周囲から反対をされたからだ。「相手の年齢が…」「ダマされているわよ」とか、今振り返っても、まあ酷い言われようだった。10年経っても、きっつー、と胃が痛くなる過去だ。タブロイド報道によれば、圭さんは金銭問題を抱えているらしい。僕も家族の金銭問題を抱えていた。僕の母親はアグレッシブに挑戦する性格で、仕事と辞めてから悪友と事業を起こしていた。そして飽きっぽい性格と無計画でうまくいかないたびに、出資させられたり、損失を僕が埋めたりしていた。スモールビジネスだったので大きな金額にはならなかったのは不幸中の幸いにすぎない(最近は事業がうまくいっている)。黙っていればバレないのに、母は自己アッピールもアグレッシブに行うタイプの人間。おそらく彼女なりに僕を出来たムスコとして売り込むつもりだったのだろうね、結婚前に嫁さんサイドとの会食の際に、「仕事にチャレンジして大赤字こいてはムスコに助けてもらっておりますのー!」と話しだしたのだ。結果、嫁さんサイドには、僕と僕の家族が金銭的な問題を抱えているような印象をもたれてしまった。

だから僕には圭さんの苦しみが自分のことのようにわかるのだ。もっとも僕は自分の力で家族の金銭的問題はクリアしたけれども。何億何千万という大金であるなら別の話になる。「そんな大金を解決できる人物なら娘を安心して預けられる」と嫁パパから感心されるだろう。だが、それより少ない額の問題をクリアできるかどうかなんて結婚の適正とは無関係である。逆に、僕に娘がいたら「100万の借金を踏み倒せるなんて大人物だ」と娘が連れてきた男を評価するかもしれない。話が少しそれてしまった。金銭問題を、僕は100%完璧に自分の力で解決した。それだけのことだ。世の中には借金をしまくっても夫婦円満な人はいくらでもいる。周りの声に惑わされずに生きていけば良い。

小室圭さんがアメリカの(ニューヨーク州だっけ?)弁護士試験に落ちたことがニュースになっていた。ネットでも大きな騒ぎになっていた。生活の基盤を作れない、結婚無理じゃないか、という辛辣な声もあった。一般人の試験の合否がニュースで報じられることも、それに対して他人があれこれ言うことも、異常である。「負けて嬉しい」重度のマゾでないかぎり、一般的に、試験に落ちることは悔しいことである。それを多くの人に知られることは恥ずかしいことである。一番悔しいのは圭さんだ。悔しいうえ、恥を開示されて、結婚についてあれこれ言われるのは傷口に塩を塗り込むようなものだ。

誰にでも隠しておきたいことがある。もちろん僕にもある。誰にも知られたくない恥や悲しみを知られてしまい、結婚の際に相手サイドから疑念を持たれた経験があるから、なんとなくわかる。僕は、結婚前に嫁さんサイドにEDであることがバレ、「結婚生活無理じゃないか」と言われた経験がある。いってみればEDは勃起試験に落ちたということ。多くの人に知られてしまうのは恥ずかしい。だから圭さんの気持ちがなんとなく想像できてしまうのだ。弁護士試験や勃起試験に落ちても人生を否定されたわけではない。次に頑張ればいい。僕に次のベッドチャンスはないけれども、弁護士試験は何回で受けられるのだ。受かるまでトライすればいい。そして金銭問題で苦しんだ経験を活かして良い弁護士になってもらいたい。金を貸す側に立つのか、借りる側に立つのか、知らんけど。

ひとつ眞子さんと圭さんの結婚会見で気になったことがある。仕方がないとはいえ、眞子さんファーストが強すぎるように僕には見えた。眞子さんを気にして発言と行動。退場するときも眞子さんの後についていく姿が象徴的だ。主導権を取れないのは、相手が相手なので仕方がないけれども、あまりにも従属的、隷属的なスタンスをとっていると、そこから脱出することは不可能になる。僕は、結婚以来、自分が立たない分、奥さんを立たせようというマインドを持って今日まで生きてきた。その生き方は少々間違っていた。自由に生きられなくなってしまった。ウンコを自由にできない、就寝場所はクローゼット、という不自由を強いられている。

圭さんは「愛している」と会見で仰っていた。それは正しい。ただ、愛以外の要素も愛と同等の重さを持ちうることがあるのだ。結婚において大事なものは、愛だけではない。僕の経験からいうともっとも大事なことは、月にいくらお小遣いをもらえるかである。このように残念ながら結婚と金銭とは切っても切り離せないものなのだ。だから金額にかかわらず、金銭関係は出来るかぎりすっきりさせておいたほうがいい。僕に出来たのだから出来るはず。僕は、小室圭さんを応援している。頑張ってほしい。(所要時間34分)

この冬に本を出します。このブログくらいの文章はサクっと書けるようになる×人生が良くなる文章本です。Amazonで予約できるようになりました。圧倒的な世界観で多くの人を魅了する 神・文章術

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良い記録が良い創造を生む。

この記事は12月16日にKADOKAWAから発売される僕の新著『圧倒的な世界観で多くの人を魅了する 神・文章術』からの先出しです。今回は、記録と創造について、の部分です。

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「書き捨て」を推奨しておきながら、こんなことを言うのは、少し気が引けてしまうけれども、メモは取ろう。何から何までメモするメモ魔ではないが、残しておきたいというものは必ずメモを取るべきだ。

メモするものは、メモする時点で評価や考えが固まっているもの。読書や映画鑑賞したあとの感想メモ、営業活動後の顧客メモ、仕事で気付いたことのメモなど。そのときに記録しておくべきことを自分で判断して、メモを取っている。

メモを取るものと取らないものの取捨選択がなかなか難しい。一時期、B6サイズのノートを持ち歩いて、何から何までメモを取るようなことをしていた。無駄が多く、現実的ではなかった。自分からすすんで文章を書くようになり、「書き捨て行為」を始めてから、「書く」と「メモ」の分別は容易になった。情報の取捨選択能力が向上したのだ。「文章を書く」は自由に進んでいく「創造」、「メモ」はいったん思考や意識の流れにストップをかける「記録」という基準が構築されたのだ。

・創造と記録「良い記録が良い創造を生む」

文章を書くという「創造」と、メモを取るという「記録」の2つを使いこなすことで、仕事や研究はより円滑にすすめることができるようになる。

メモを取って「記録」することは、知識や経験を言葉によって確実なものにして、創造のための「土台」をつくることである。あるいは、小説を書く際の取材メモや創作メモのような「素材」づくりといったほうがイメージしやすいかもしれない。

それに対して「文章を書くこと」は「創造」にあたる。「創造」とは何もないところを自分の言葉で開拓していくようなものだ。だが、創造はゼロから生まれない。「記録」という土台があってこそ「創造」はなされる。仕事でも顧客のニーズをまとめたメモを眺めているうちに、発想が生まれて、企画や提案に繋がる。「メモ=記録」が正確なものでなければ、良い発想は生まれない。良い記録が良い創造を生むのである。

 

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大きな「創造」には土台となる「記録」=確固たる知識が不可欠だ。小説家の荒俣宏先生が「帝都物語」シリーズのようなスケールの大きな物語を創造できたのは、先生の並外れた知識量という土台があったからだ。「記録」が「創造」を生むのと同様に、「創造」が次の「記録」を生む。「創造」をメモで「記録」することによって、以降は、それを土台にして、より大きな「創造」ができるようになる。このように「記録」と「創造」は切り離せない関係にある。意識してこのサイクルを、使いこなせるようになるだけで、一生使える武器になる。

「記録」と「創造」、「メモ」と「書く」とを意識的に使い分けたほうがやりやすいと思う。思い切って、ツールを分けてみよう。たとえば「メモ」は手帳、文章を「書く」ときは専用のノートを使うなどして、ツールを別にすることで、使い分けと意識の切り替えが同時にできるようになるので試してほしい。ノートは方眼や罫線のないものが、自由な発想を妨げないのでおすすめ。

営業という仕事のなかで、顧客ごとに1冊のノートを持ったこともある。メモ(記録)と自由帳(創造)を兼ねて一冊のノートにまとめて、一つの顧客に関する全てを書いていた。顧客情報だけではなく、その顧客についての思考と発想の断片も書き連ねておいた。商談が順調にすすんで、企画提案の段階になったとき、そのノートを見るだけで、企画のもとになる発想が湧いて出てきた。思考と発想の断片を言葉にしておいたから、具体的な提案に繋がる発想が得られたのだ。100円のノート一冊を書くことで成約にいたったのだから、コスパ最高である。もし、仕事が詰まっているときは騙されたと思って「案件別思考発想ノート」を試してほしい。


漫画『デスノート』に名前を書いた人間を死に至らしめるデスノートがある。僕はデスノートを否定しない。心がスッキリするからだ。でも、デスノートを書いているヒマがあるのなら、メモを取ったほうがいいと思う。それに死神に取りつかれないぶん、健全である。

 

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