Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

甘い夢をみた


 僕の向かいには、若夫婦と小さな女の子の三人家族が住んでいる。旦那さんと奥さんは三十代前半で、僕と同じくらいの年齢。女の子は三歳くらいだろうか。二年前の春に引っ越してきた。気さくな、いい夫婦で、顔を合わすたびに「こんにちは」「おはようございます」「こんばんは」と声を掛けてきてくれる。今日もコンビニで買った弁当をぶら下げて仕事から帰ると、一家三人がちょうど出先から戻ってきて車から降りるところだった。そして、いつもと同じ快活な「こんばんは」の挨拶。


 八月の、記録的な猛暑が、連日ニュースで伝えられていた頃、お向かいの芝生の庭に、木製のベンチが置かれた。陽光に照らされると黄金色に輝く素敵なベンチだ。晴れた休日になると、旦那さんはそのベンチに腰をかけ、水を張ったビニル製のプールで女の子がおもちゃの如雨露で遊んでいるのを、缶ビール片手に眺める。しばらくすると、折りたたみ式の木製のテーブルに奥さんが、ちょっとした料理を運んでくる。僕の姿に気づくと、「こんにちは。今日も暑いですね」と声を掛けてきてくれる。


「暑いっすねえ。ビール美味しそうですね」「いやあ」


 そんなやり取りをしながら、水遊びをする娘を見守る夫婦の姿を眺めて、僕の望む幸せって、こういうものじゃないかと、漠然と羨ましく思ったりしたものだ。


 今日も、いつものように「こんばんは」と笑顔で返し、誰もいない家に入っていこうとした僕の背中の向こう側から、女の子の無邪気な声が聞こえた。「おじさんはどうしていつも一人なの?お嫁さんはいないの?」そのまま聞こえないフリをして我が家に逃げ込みたかった。けれど、僕は、明かりの点いていない、暗い家に入っていく寂しさに耐えられなくて振り返ってしまう。「もしかしたら僕のことを指しているのではないのかもしれない」淡い期待。


 ポストに残した新聞を取りにいく真似をして振り返ると、旦那さんと目が合った。いつもなら顔を見るや否や声を掛けてきてくれる彼が、何も言わない。それが答えだった。淡い期待は引き裂かれる。僕らの距離は、僅か数メートル。ただ両者の間には、幸せを得た者と得られない者の差が、壁のように立ちはだかっていた。僕は甘い夢をみていた。あの夏の日に、水飛沫の向こうに見た幸せは、叶うことのない甘い夢。


 でもね、想像して。何年か経って君が立派なレディーになって、そのとき僕がまだ独りでいたとしたら。もしかしたら君が僕のお嫁さんになるのかもしれないよ。可能性はゼロじゃあない。それってとても素敵なことじゃないか。そう、幼い純粋無垢な少女の目に無言で語りかけて、将来、義理の父親になるかもしれない男に、僕は初めて、自分から声を掛けた。「こんばんは」 二度目の挨拶をした僕らの周りには赤トンボが飛び、頭上では星が瞬き始めていた。