Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

多摩川で小さな友達が出来た


 2年という長い時間を費やした仕事が終わった。僕にとって、新たな分野の仕事だった。やらなくてはいけないことを前にして、途方に暮れたりもした。ジャングルの奥地にオペラハウスを建てたフィッツカラルドの強さは、やはり畏敬に値する。


 一段落した今、得たものと失ったものとを天秤にかけてみようと思ったが、無理だった。両者は融け合ったり分裂しながら、僕のなかに沈殿してしまっていて、とても分別して掬い上げられる代物ではなくなっていた。落ち着いた時間は、ただ事実を告げるだけだ。


 昼過ぎに仕事を切り上げて、多摩川の土手に座り、ぼんやりとした。缶ビールをちびちび飲みながら、ちぎった綿菓子みたいな雲を、遠目には流れているように見えない多摩川を、泥のついた野良犬を、散歩をする老夫婦を、ただぼんやりと眺めた。鉄橋を渡る電車の音は、波音のよう。


 時間も、事象も、すべてがゆるやかに流れていた。なんてことのない風景が美しさに充ちていた。しばらくすると、さっきまで美しいと感じた風景にも慣れてしまって、口のなかのビールの苦さだけが残った。こんな自分が大嫌いだ。


 体育座りをしている僕の足元に何かが転がってきた。(何だ?)ぼやけた視界はなかなか像を結ぼうとしない。気づかないうちに僕は居眠りをしていたらしい。白いサッカーボールが雑草に引っ掛かって止まっていた。「すみませーん!」「おねがいしまーす」「すみませーん!」小さな所有者の大きな声が、幾重にも重なって聞こえる。


 手を振って声に応え、僕は必要以上の力を込め、子供たちがいる方向とは違う方角、鉄橋の方向に、思い切りボールを蹴った。醜い悪戯。意地悪。憂さ晴らし。ボールは子供たちの頭上を飛び越え、跳ねながら遠ざかっていく。「いけー!」大きな声を出す。「追いかけろ!」


 子供たちはくるりと一斉に背中を向け、ボールを追いかけ始めた。ときどき僕のほうを振り返ろうとするのを、僕は手振りで制す。駄目だよ。嫌だよ。振り返るな。先で跳ねるボールの先には明るい予感がある。走れ。追いかけろ。無慈悲に世界は回っているけど、僕みたいなくだらない大人はたくさんいるけど、そんなの、踏み台にして飛び出していけ。だから振り返っちゃ駄目だ。こんな、我侭な、業突く張り。蔑んでくれよ。背中を向けてくれよ。「駄目な奴」って宣告を脳みそに突っ込んでくれよ。


 僕は、子供たちがボールに追いつく姿を見届けることなく、その場を後にしようとした。軽蔑を含んだ視線に対抗する強靭さは持ちあわせていないから。ズボンに付いた草だか砂だかを手で払い、立ち上がって土手を登っていく。土手の上を走る小道の向こうには、現実が待っている。「…れーん」背中から子供たちの声が聞こえた。


 「おじさんアリガトー!」「おじさんガンバレー!」「会社ガンバレー!」どうして…?僕は発すべき言葉を見失ってしまう。「ガンバレー!」「会社ー!」「ガンバレー!」呆けている僕を尻目に、声変わりをしていない声は続いた。こんなとき何て返せばいいのだろう。「ありがとう」「頑張るよ」「わかった」「サンキュー」「さようなら」思いつく言葉すべてが、それぞれ何かを欠いていた。


 結局、僕は何も言えなかった。手を振った。何度も何度も手を振った。ごめんねごめんねって口のなかで呟きながら。涙がこぼれそうになるのを、瞬きで堰きとめながら。何度も何度も。


 僕は子供たちが遊びを終えて、自転車を押して去っていくまで、しばらくそこに立っていた。なにが出来るわけじゃないけれど、姿が見えなくなるまで見守っていなきゃいけないと思ったのだ。一人になると、また、風景が美しさで充ちていた。夕日の橙に照らされて、さっきよりも美しく。でもさ、輝く将来のある子供らよ。僕はおじさんじゃない。まだ、お兄さんだ。親しみを込めて、おにいちゃんでもいいぞ。