Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

はやくぶっかけて


 職場の飲み会があった。金曜の夜ということもあって、雑居ビルの二階にある居酒屋は、満席で、騒然としていた。遅れて到着した僕は、その店の騒がしさと派手な看板にげんなりする。何がそんなに楽しいのだろう。ここは天国なのかい?この暖簾の向こう側に、しあわせは、あるの?


 乾杯をして宴会がスタートした。続々と料理が運ばれてくる。大皿の料理を小皿にわけるのが、端の席に着いた僕と総務のマヤちゃんの役目になった。テーブルの端というのはそういう席だ。マヤちゃんは仕事では見せない器用さを発揮して、丁寧に、手早く、サラダを取り分けていく。水菜の緑とオニオンの白。色取り鮮やかなサラダが小皿に作られていく。プチトマトがそれぞれの頂にちょこんと置かれているのが可愛らしかった。終始、その作業は迅速だった。効率化されていたというべきか。


 普段のぶっきらぼうからは想像できない、意外な才能に感心しながら、手先を観察していた僕に、マヤちゃんが声を掛けてきた。声色に苛立ちが混じっていた。「なにボヤボヤしてるの?」13年も年長の僕への言葉がこれである。呆気にとられる。「へっ?何?」間抜けな返事は僕の専売特許だ。彼女は、僕に返事をする権利なんてないのよと云わんばかりの調子で言葉を続けた。弱者の声はいつの時代も無視されるものだ。


 「あたしが盛り付けたやつに、早くぶっかけて」若者の言葉の乱れを嘆く余裕と度量を、僕は持ち合わせていない。但し、僕にだって大人の汚い計算がある。僕は聞こえないふりをした。人間は己の利益のためなら何でもする、狡猾な生き物だ。マヤちゃんは目を少し見開いた。きっと彼女の苛立ちの増幅の兆候って、この目なのだろう。


 「ボケッとしない!」「そのフレンチドレッシング。はやく、ここにぶっかけて」「何してるの?」「早く、その白いの、ぶっかけてよ」今までの人生で聞いたことのない素敵な言葉が僕の鼓膜に到達する。スメルス・ライク・ティーン・スピリット。この瞬間、僕は、彼女の奴隷になった。言われるままに白濁液をサラダの上にまいていった。ドレッシングがなくなるまでの仮初の祭りだ。


 彼女の声は続いた。「なんでもっとうまくぶっかけられないの?」「おそい!おそい!おそーい!」「ここにもぶっかけて」「そこにもかけて!」これからの僕の生涯で、20歳の女性の指図で真っ白な液をふりかける機会は、たぶん、もうないだろう。少し寂しいけれど現実ってそういうものだ。だから、ドレッシングがなくなるのが少しでも遅くなるよう工夫をした。どうかこの魔法の時間が、少しでも長く続きますように。どうかこの言葉のラッシュが、もうしばらく続きますように。そうお祈りしながら。


 ( 後 編 )


 サラダの盛り付けが終わると、アルコールのまわり始めた人たちに配った。すでに何かくだらないことで盛り上がっていて、もう誰も、僕らのことを見てはいなかった。乗り遅れてしまうとそんなものだ。そのときだ。僕の肘のあたりがテーブルの端に立て掛けてあったメニューに触れて床に落ちた。


 床にばら撒かれたメニューを拾おうと、席を外して身をかがめた。頭上には、掃除が行き届いていないテーブルの裏面と盛り場の喧騒。嫌気が差す。気付くとマヤちゃんの顔が僕と同じ目線にあった。「かかっちゃった」そう言って、彼女は僕の目の前にドレッシングの付いた人差し指と中指を突き出し、微笑んだ。彼女の指はゆっくりとそして確実に僕の口元に近づいてきた。弾倉が弾丸で埋められているロシアンルーレットって、こんな感じなのかもしれない。


 女はもう一度、笑った。音が消えた。喧騒はどこかに飛んでいった。心臓が左胸で存在を主張する。胸が苦しくなる。指は接近を止めない。僕は何かに取り憑かれたように舌を出した。あれ?舌ってこんな石榴みたいな色してたっけ?視覚だけがやけに冷静で、冴えているのがおかしかった。僕の舌と女の指の距離が、縮まっていく…。


 席に戻ると、宴席はまた何かのくだらない話でも盛り上がっていた。マヤちゃんは僕に何か言った。字幕のない無声映画のように口が動いているだけで、何を言ったのか聞き取れなかった。そして彼女は盛り上がっている人の環に加わっていった。僕の居場所はどこにもなかった。どうすればその環に入れるのか、解決の尻尾すら見当たらなかったので、ウーロンハイの氷を指先でこつこついじって時間が過ぎるのを待った。ウーロン茶のなかをフラフラと泳ぐ氷は、まるで所在無い僕のようだった。


 こうやってマヤちゃんもつまらない大人になっていくのか。そう思うと少し寂しかった。あの、ぶっきらぼうも、乱暴な言葉遣いも、今だけの魅力なのだろう。魔法はやがて解けてしまう。彼女が、くだらない話にいちいちオーバーな反応をしながら、宴席のために焼酎を緑茶で割っている姿を眺めた。しばらくして僕は彼女の魔法に気付いた。彼女は自分以外のタンブラーにはたっぷりと焼酎を入れて緑茶割りをつくり、自分のタンブラーには緑茶だけを入れていたのだ。酔った大人たちは気付くはずもない。皆、彼女に踊らされて騒いでいるだけの馬鹿な大人に見えた。滑稽で声を出して笑いそうになった。


 悪戯を見抜いた僕の視線に気付いて、マヤちゃんは一度だけ僕のほうを見てペロリと舌を出した。周りの目を確認してもう一度、舌を出した。ペロリ。彼女の強さ、逞しさ。そして幼さ。これはかなわんと思った。大人の世界に染まらないように生きていって欲しいと願った。これからマヤちゃんに沢山の幸せが降り注ぐといいな。もとい、ぶっかかればいいな。


 宴会は終わった。僕のウーロンハイの氷も融けてなくなっていた。魔法の時間は終わったんだ。


 ( エピローグ )


 ついさっきマヤちゃんからメールが来た。「全力で舌を出してるヨシフミさんの顔。マヌケでバカみたいでしたよー」添付されていた画像に醜い表情の僕がいた。つまり僕は舐めようとして間抜け面を晒しただけだったのだ。舐めてない。舐めてないよ。誰だよ。ケータイにカメラなんて機能付けたの。バカだね、そいつ。