Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

乳首あててごらん


 ( プロローグ )


 懐かしい街にふらりとやってくると、記憶と異なる姿になっているときがある。少し前の僕なら、寂しさや悲しさに包まれて次の朝まで落ちこんでいたに違いない。今はただ、時間が経過したんだな、淡々とそう思うだけだ。今日もそんな思いをした。学生のひとときを過ごした飲み屋がなくなり、そこには僕の記憶にないビルが建てられていた。


 ( 前 編 )


 大学一年の秋。僕は、横浜の本牧埠頭でバイトをしていた。岸壁に接岸した艀に粉を積み込んだり、船上げされた貨物をコンテナの中から引っ張り出し、木製のパレットに積み込んで倉庫に片付ける。そんな作業場の事務のバイトだ。僕の仕事は、いろいろな帳面を書いたり、日雇いの人の給料を計算して払ったり、在庫を管理したりすることの手伝いだった。女の子もいないし、お世辞にも綺麗な場所とはいえない、地味なバイトだったと思う。


 作業場の事務所は港に面していて、ほんの少し窓を開けるだけで潮の香りが鼻腔を充たした。潮の香りと一緒にやってくる日雇いの人は、イイ人ばかりだった。年少の僕は可愛がられた。多少の無理もきいてくれたし、失敗も笑って許してくれた。「いいよ。いいよ」「やっておくよ」そんな返事は決まって安い酒のにおいがした。


 ある日、仕事を終えると、ゴロさんが声をかけてきた。ゴロさんは僕より八つ年上。バイト先で一番僕に年齢が近かったこともあって、仲が良かった。「いい店を教えてやる。今からいこうぜ」ゴロさんは人の予定など気にする素振りなどみせずに言った。


 店は繁華街の端にあった。薄暗い通りのなかで、けばけばしい桃色と黄色の看板だけが浮いていた。「二階が店なんだ」そういってゴロさんは狭く、灯りのない階段を登っていった。気乗りはしなかったけれど、黙ってついていった。「ようこそ。ここが天国だ」ゴロさんは気障な言葉で、僕に扉を開けさせた。


 扉を開けるとカランと鈴が鳴り、カウンター席で煙草を吸っていた女性が出迎えてくれた。「いらっしゃ〜い」身に着けている紫のドレスは胸の部分が大きく開いていて、豊かな乳房が半分見えていた。僕はオッパイに「こんばんは。はじめまして」と挨拶して、腰をおろした。「ユーコ」色褪せたソファーの上で、女性は名乗った。「28歳」ユーコさんは続けざまに、訊いてもいないことを教えてくれた。


 酒を飲み始めてからも、ずっとオッパイを眺めていた。ひたすら眺めていた。店には僕らの姿しかなかった。ユーコさんは一人で客を待っていた。こんな薄汚い場所でたったひとり、いつやってくるともしれない客を待ち続けるのって、どんな気持ちなんだろう?オッパイを眺めているうち、ふとそんなことを思った。オッパイから目を上げ、ユーコさんの顔を見たけれど、慣れた笑顔で返されるだけで伺い知ることは出来なかった。


 その後も、ゴロさんとユーコさんの会話には参加せず、オッパイ越しに言葉が流れてくるのを、ただ聞いていた。こないだは誰が来たとか、最近誰が姿をみせないとか、そんな話がオッパイの先から聞こえてくる。店はバイト先の人間の行きつけらしかった。


 水割りを出されるまま飲んで、流れてくる会話がアルコールでとろけてしまいそうになった頃だ。「ゲームやろっ!」ユーコさんが大きな声を出した。「シングルとダブルどっちにする?」「バカ、ダブルに決まってるだろ」勝手にゴロさんが答えていた。


 わけがわからないうちに、中央の空いたスペースに押し出された。「ヨシフミ!乳首あてゲームだ。ダブルだから10連勝でボトル1本サービスだぞ。ガンバレ!」ゴロさんが悪魔にみえた。その隣でユーコさんがスッと立ち上がる様子が見えた。力みなく幽霊のように。オッパイだけがやけに肉感的だった。別の生き物のようにぶるんと揺れた。もう一度ぶるん。


 ゴクリ。僕は唾を飲み込んだ。頭をぼんやりとさせていたアルコールが、頭のてっぺんから一ミリ単位でスッと抜けていくのがわかった。冷静は足元からやってくる。乳首なんて余裕さ。オッパイなんて怖くないぞ。強がる。精一杯。僕は、口のなかの氷を奥歯で潰した。粉々になった冷たさだけを相棒に戦いのゴングが鳴るのを待った。あの大きな、柔らかそうなオッパイに触れる…僕の冷静は高揚へと姿を変えていた。悪魔と幽霊はいやな笑いを浮かべていた。(前編終わり)


 ( 後 編 )


 ユーコさんは、僕の横を素通りしてカウンターの方へと向かった。触るはずのオッパイが遠ざかる。カウンターに両手をつき、奥を覗き込むような格好をしてユーコさんは言った。「ママ、お願い。ダブルよ!」カウンターの横の小さなスペースから小太りした生物が出てきた。よくいえばピカチュウ。「いらっしゃーい」ピカチュウはしゃがれ声を出した。僕は、ピカチュウを目の前にしても、まだ自分の目を、耳を、現実を、疑っていた。


 そのときの僕の落胆を表す言葉を、人類は今もまだ発明していない。ママと僕は店のシャンデリアの下で対峙した。仕方なしに右手を上げ、人差し指を出す。「駄目だ、それじゃ。ダブルなんだから両手出さないと!」ゴロさんは笑いながら残酷な告知をした。「ダブルってそういう意味だったのか…」僕は、小学生の朝礼のときにやった、前にならえに似た姿勢をとった。両手の人差し指はママの乳首をロックオン。悲しき男の性。


 「よーいどん」「いけーヨシフミ!」ユーコさんとゴロさんは二人で盛り上がっていた。僕は、投げやりにママの乳首があると思われる場所に、人差し指の先端を押し当てた。先端は少しの弾力を感じながらオッパイにめりこんだ。コンマ数秒の静寂と、悪魔と幽霊の視線が交差するなか、ママの声が響いた。



「ピン ポ〜ン!」



 「よしっ!」「すご〜い!」当事者以外はやけに盛り上がっていた。僕は消えてしまいたかった。結局、僕はこんな動作を計14回繰り返した。つまり13連勝。触れるたびに固くなっていった乳首と、僕の指の先端が触れる瞬間、目を閉じて声にならない声をママがあげていたのが、やけに悲しかった。隠せない女の性。「…っん!ピンポーン!」「…っう。ピンポーン!」「…ぅ。ピンポーン」


 14回目に僕は指先を曲げてワザと負けた。何か大切なものを失ってしまった気がした。大人になった気にもならなかったし、ゴロさんの言う「天国」の意味もまるでわからなかった。代償として安い焼酎のボトルを一本貰った。ボトルはその夜のうちに空けてしまった。


 「また来てね。約束よ」


 店から出るときユーコさんはそう言った。僕は頷きで答えた。この約束は果たされることはなかった。僕はこの夜からしばらくしてバイトを辞めてしまい、それきりになったからだ。あの街に行くこともなかった。


 大学を卒業するころ、あの作業場が閉鎖になったと聞いた。連絡をとろうと受話器を手にとったこともある。けれど、あの、気のいい連中の顔が浮かんできて、掛ける言葉が思いあたらなくって、そのまま受話器を置いた。「いいよ。いいよ。俺たちは大丈夫だから」そういう言葉が返ってくるのは容易に想像できた。それがまた辛かった。僕は逃げた。あの連中に背中を向けた。そのうち、就職して忙しくなり、あの頃のことは、記憶の片隅へと追いやられていった。



 ( エピローグ )



 あれから15年。作業場も、店も、ゴロさんも、ユーコさんも、ピカチュウも、日雇いのおっさんも消えてしまった。でも、この街のどこかで彼らは生きている。逞しく、この街のどこかで。理由はないけれど、そんな気がした。すぐそこの角を曲がると、派手な看板があって、ドアの向こうに彼らはいる。乳首あてゲームで盛り上がっている連中がいる。ママは今夜もピンポーンを繰り返しているに決まっている。


 この冬で僕は34になる。あの頃のユーコさんよりもずっと大人だ。今なら、煙を吐きながら一人で客を待っていたユーコさんの気持ちが、少しはわかると思う。