Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

甲殻のガールフレンド

 奇蹟なんてそう滅多に起きるものじゃないなんてことは僕にだってわかっている。たとえば大事故のニュース。生存者の見込み無し。「無し」。わかってる。そんなことは。でもさ、そんなとき、一人でも、一人でいいから救われて欲しいと思う。暗いニュースを見るたび、そんな奇蹟が起きるのを僕は信じてやまない。


 昼、天津丼を食べていた。卵にとじられた蟹の欠片を箸で持ち上げ、口に運ぶ。味の染みたご飯をかきこむ。そんな食事の最中に、ふと、蟹を飼おうと思った。川原にいる地味な奴や、アメリカからやってきた海老っぽい面をした奴じゃなくて、ズワイかタラバ。個人で飼育できる生き物なのかどうかは知らないけれど。そして卵から孵った子ガニ達を海へ放つんだ。


 挨拶に毛が生えたようなメールを送ることなく消している。送り先のアドレスと電話番号を自棄になって消してしまったせいで送れないのだ。お酒が入るとそんなことを忘れてしまう。いざ送信しようというときに送れないことに気がつく。そんな馬鹿な行為を何べんもやっている。


 もし、送り先がわかったところで僕のメッセージは拒否されていて届かないだろう。インターネットやケータイ電話が普及して僕らはいつ、誰とでも、地球の裏側ブエノスアイレスにいる人とだって、繋がれる利便を手に入れた。でも、その代償として拒否されたときの傷はとても深いものになったように思う。


 「毛ガニはそれほど好きじゃないの」彼女は言った。ズワイが一番好き。タラバは次点。この冬、残念ながら別れてしまったガールフレンドだ。僕の人生のなかでも特別印象深い人だった。一緒にいるだけで僕は特別な力が溢れてくるような感じがした。無味乾燥で何もなかった僕の時間が彼女といる間だけは煌いているように見えた。


 彼女の好きな食べ物は蟹だった。二人で池袋の蟹の食べ放題に行って、タッグを組んで2時間1ラウンド制で茹でた蟹と格闘したりもした。彼女との関係はあっけなく終わってしまった。まるで蟹食べ放題の時間制限が来たときのように僕らの関係は終わってしまった。「食べ放題あと残り10分です」僕らの関係にそんな宣告はなかったけれど。


 誤解して欲しくない。蟹を飼いたいと思ったのは二人の愛があった証拠を確認するためではない。そうじゃないんだ。僕が蟹を飼う理由は。水槽にはスピーカーを設置して、子ガニ達に読経のように僕のメッセージを流して育てる。何匹かは僕の想いの強さのあまり人面蟹になってしまうかもしれない。子ガニが自然のなかで生きていける大きさにまで成長したら海原に放つ。僕の想いが千の蟹になって彼女に届くように祈りながら。


 休日の夕べ、埼玉県の海岸線に沿って走る散歩道。猫の散歩をしている彼女の目に波打ち際で波しぶきに揉まれるズワイガニが映る。蟹好きの彼女は猫を投げ捨て波打ち際へと突進し僕のズワイガニを手に取る。そしてメールや電話で送れなかった僕の決死のメッセージをズワイガニは泡を吹きながら伝えるんだ。「元気カニ?」 起きろ奇蹟。埼玉県に海を。