Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

部長がキャバクラに誘ってくれてから1時間が過ぎました。


 午後6時。戦いのゴングは鳴る。ゴングは中ジョッキがぶつかりあう乾いたガラスの衝突音。ゴヅチーン。衝撃が古代シダ科の葉脈のように僕の痛んだ腰の隅々に響き渡っていく。テナントビル三階に入っている居酒屋がコロシアムで、膝が付いてしまうような小さな正方形のテーブルがリング。青コーナーが部長で赤コーナーが僕。乾杯の際の不幸な事故を装った僕の殺人中ジョッキパンチを「なんだ今日のお通しは?貝か?何の貝だ?おい?」ダッキングで部長が軽くかわし、僕の拳は宙を切る。そこに部長が反則吐息カウンター攻撃。「ブフゥー!。今日のビールは格別だなあ」。知るか。臭い。この若気が致命傷になって生ビールを飲むふりをしながら鼻を塞ごうとする動作が僅かに遅れ、臭気の侵入を許してしまう。テーブルの飛び越えて流れこんでくる匂いはピザに似ていた。脇なのか口なのか頭皮なのか。発生源を特定しようとする試みは数秒の抗戦ののち、戦意と共に永遠に喪われる。嗚咽と吐き気で「ギブ!ギブ!死ぬ!」も言えず、タップも出来ず、タオルを要請するようにセコンドを見やる。セコンドのいるべき空間には昼から飲んで夜のリングのことしか頭にないモンキーカップルがイチャイチャしている姿があるだけ。ひたひたとプチ絶望に浸される。下を向いて手で口を押さえる。オエェーオエッ。そんな死に体に「情けないやつだな…生ビール一杯でその有り様か」と部長。無理だ。ハードル高すぎ。部長は嗅覚がいかれているハナモゲラ。来世はその特殊能力を活かしてメーヴェで空を駈るナウシカのノーパンを見上げながらの腐海開拓民か、アンモニア大気に覆われた惑星の開発移民にでもなればいい。


 世界中の消臭剤の開発担当者を泣かせる部長と僕がなぜ酒を飲んでいるのか。答えはシンプル。ジャイアンツが優勝したからだ。部長主催による「ジャイアンツ勝ったけどまだ日本一になったわけじゃないから油断するな、でもとりあえず嬉しいから祝杯しとこう会」。同僚たちは迷惑な飲み会を回避して誰一人として会社に戻ってこなくてたまたま腰痛で身動きをとれずにウゴウゴもがいていた僕が引き摺られてきたのだ。その結果がiowe../(アイオエッドットドットスラッーシュ)オエーッ!めっちゃ吐き気。僕の活動停止エヴァンゲリオン状態になどお構い無しに部長の暴走モードは加速して僕を呑み込んでいく。「誰も言わなかったし俺もあえて口には出さなかったがグライシンガーとラミレスとクルーンが結果を残せば巨人は強い」「俺はお金も金も持っている「俺はハゲてない。薄いだけだ。そうだよな」「俺の娘は俺に似ていて可愛い」「お前は若い。俺はナウい」」「会社にあるダルマを見たか?見てないのか?本当にダメなやつだな。ダルマの目に墨を入れてから修正ペンで消して再利用するようにしたのは俺のアイデアだ」部長の言葉は匂いでダウンしている僕をマウントポジションからボカスカぶん殴り続けた。僕はマジっすか!さすがっすね!はい!を適当にローテーションして乗りきるのがやっとだった。


 午後8時。「そろそろ行くか」部長が立ち上がった。僕は慎重に腰を上げ部長に続いて暖簾をくぐり店を出た。いつも一次会で引き上げる部長が珍しく声をかけてきた。「このあと予定はあるのか?」 予想外が僕から言葉を奪った。答えに窮してモゴモグしている僕に部長は続けた。「キャバクラ、行くか?」 部長。僕。間に漂っていた臭気と違和感は秋の夜の空気に冷えながら拡散していった。僕のなかから、胸の奥から込み上げるような吐き気が消え去っていった。「キャバクラ、行くか」 それはたぶん僕の本能みたいなものが吐き気を必要としなくなったということなのだ。お伴します部長…。「あ。ワーリ、ワリイ。お前腰を傷めてるんだったな。俺は部下の体調だって把握している男だ…今日はヤメだ。ヤメー」僕の鼓膜は部長の言葉をまるで異国の言葉のように聞いていた。「お前は俺のような男が上にいてよかったな。オマエは上司に恵マレテイル…メグマレ…テイル…イル…」ルールルルルルルルー。今、僕は帰りの電車で揺られている。お月さまからは青白い光がひらひらと降ってきている。そして月のウサギさんは、僕を慰めるダンスを踊ってくれはしない。