Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

想い出がオッパイ


 デスクの上に無造作に積み重ねられた書類は、早朝の路地に捨てられた夜のゴミを想わせた。パソコンの起動音がなり終えると受信箱を埋め始める未開封メールは、サラリーマンの群れが電車からホームに吐き出されるシーンを網膜の裏に再生させた。繰り返される冴えない日々。黒人大統領やキムタク総理が「チェンジ!」と叫んだところで僕の周りは何も変わらない。何も。


 僕は事務所の片隅で忘れられていた足の歪んだ丸椅子をひっぱり出してシュレッダーの前に陣取り、コーヒーをすすりながら日付の古いダイレクトメールを片っ端から細切れにした。機械に吸い込まれていく紙の上、僕の目に飛び込んできた空はあの日と同じだった。同じ色彩を帯びていた。


 「空が高い」なんて表現は嘘だとあのときの僕は思った。一年前の晩秋。ロボット展覧会の帰り。国立博物館から出て、上野公園の砂利道を歩く僕のうえの空は深く、青く、いまにも手の届きそうな距離にあった。黄昏どきを過ぎたばかりだと言うのに太陽の面影はすっかりと失われていて、冷えきった空気のなか、路地の両脇を走る木々の梢が蒼い水槽のような空に伸び、影の迷路を描いていた。


 空よりもずっと近く、僕の手の届くところを歩く彼女の癖のあるロングと身体の輪郭が、木々のあいだに等間隔に立てられた街灯から差す光にきらきらと輝いていた。舞い上がっていた僕の、くだらない話に彼女は消防団の鐘のようにカンカンと笑った。彼女の鐘は僕のなかで熱い漣になり滑っていって僕をさらに不覚にした。


 「アフロダイAの凄いところはさ、オッパイからズドドーンとミサイルが出るところなんだよ。最高にクールだけどミサイルを発射したあとのアフロダイAの気持ちを考えると複雑で泣けてくるよね」「そうだね」「Hi-νガンダムが展示されていて家族連れが喜んで眺めていたけれど本当にあれのことがわかっているのかと思うと疑問だよ。カトキハジメのカの字も知らないんじゃないかな。あれはゴールドライタンとナイトオブザゴールドの区別がつかない人の目だよ」「そうだね」「松本零示の描く女性がすごく細いでしょ。メーテルとか。エメラルダスとか。どうしてだかわかる?」「さあ?」「限られた紙面のなかで最大限にオッパイを強調するための工夫さ。オッパイ・コントラスト。天才の仕事だよ」「そうなんだ」「ガンダムは全部見ていてそれなりに楽しんだけれどガンダムXだけは苦難だったな。しかも苦難に耐えて見続けていたのに打ち切りであれーって感じ」「そうなんだ」「戦闘妖精・雪風にさ「チキンブロス」って出てくるよね、あれ小学生のとき読んでてわからなくて謎の料理だったなあ」「それは同意」「ファイブスターに出てくるファティマではエストとウリクルとパルテノが好きだけど皆オッパイが小さいのだけが惜しいところだよ」「ねえ?」「はい?」「オッパイとアニメしかないの?」「他になにかあるかい?」街灯の生む影も方向を失っていて砂利の闇の底を歩いている人影に奇妙な一体感を与えていた。微笑みながら相槌を打ってくれた彼女はどこか高く遠いところを見ながら「モツ食べよう」と言った。僕らの先には上野の町が派手なネオンを掲げて待っていた。僕が見つけた店の看板は電球が切れかかっていて闇に沈んでしまう瞬間があった。


 それからすぐに僕らは別れた。僕には理由がわからなかったし、今でもわからない。ただ、何かによって奪われたり、僕自身の未熟や失敗で失ってしまった過去、記憶であっても今の僕には美しいと思える。僕には見える。すべてが美しい色彩で溢れていて、いとおしく僕のなかで煌めいている。そこに寂しさや理不尽の存在は否定できないけれど悲しみはない。


 「忘れちゃえよ」と覆面レスラーをやっている友人は言ってくれた。それでも僕は時折、振り返る。振り返ってしまう。いろいろなシーンを。それらを並べ、弄くり、ああ人生は素晴らしい、楽しい、美しいと思えるのも僕ならば、いつまでも悔やみ、悩み、責め続けるのも僕という人間なのだ。今こうして生きている僕を未来の僕はどう振り返るだろうか。「美しい記憶として残っていて欲しい」神様なんて信じてはいないけれど、僕はそう願い、信じ、祈る。我が儘なのは承知の上で。


 僕にできるのは毎日をひとつひとつクリアすることだ。しょぼくてもダサくても思い通りにいかなくても与えられたステージで、言葉と身体と魂でそれぞれの物語を必死に紡ぐしかないのだと僕は思う。僕にはお酒と、バカを真剣にやれる愉快で賢明な仲間がいる。それで、僕の手の届かない場所に行ってしまった彼女が幸せであるならば僕は幸せなのだ。僕の前でシュレッダーが詰まり沈黙した。僕には、裁断できる記憶なんてないんだよと何かが語りかけているようにおもえた。